第二夜・下
薄く白い霧に包まれた、静かで穏やかな空間。小鳥はさえずり、草や木は若草色で染まっていた。淡い花々が咲き誇っている。平和そのものに見える、楽園のような空間。
「アーサーっ!」
聞きなれた声が聞こえ、アーサーはハッと我に帰った。
「…………リッシュ? 無事だったんだ。よかったぁ……」
アーサーは、へなへなと座り込む。そして、手に持ったままの剣を鞘に戻した。
それから、彼は辺りを見回す。
「えっと…………、ここはどこ?」
リッシュは、すぐそばに座っていた。その周りには、フェアリーや、水の精霊などのめったに見ることの出来ない精霊たちが集まっている。リッシュには、傷一つなかったし、濡れている様子もなかった。
「ここは、精霊の聖地なんだよ」
とリッシュが説明する。
何でも、カンサの支配を逃れてきた精霊や魔法生物が、集まっている場所らしい。湖の湖面が出入り口になっていて、招かれた特別なものか、魔法生物や精霊にしか入る事が許されない。湖の中にこの世界があるわけではないから、一種の魔法空間と言えるだろう。
そういえば、とアーサーも自分を見てみると、確かに湖の中に落ちたはずなのに、全く濡れていなかった。
「ニクシィ」
アーサーの頭上で声がした。見上げると、ケンタウロスがいかめしい顔をして立ちはだかっている。
そのケンタウロスは、しばらくアーサーを見つめていたが、やがてリッシュの周りに集まっている妖精たちの方に歩み寄り、厳しい声をだす。
「何故、門番たるお前が、このものたちを、この聖地に招きいれた?」
それは、明らかにアーサーたちに敵意を感じさせるものだった。
ニクシィと呼ばれた水の精霊は、少しおびえたように小さくなった。
「綺麗な音を奏でる子だったんですわ。聖なる声を持っていたんですの。だから、その声を聞きたいと思ったんですわ、タンタル」
タンタルと呼ばれたケンタウロスは、ちらりとアーサーの方を一瞥した。
「ならば、そこの人間まで連れ込むことはなかっただろう? 今は、昔とは違う。どこかで間違いが起きたら、我々まで闇に呑まれてしまう」
「大丈夫ですわ。まだ、幼子じゃあありませんか。それに、この子達は“闇の申し子”の魔法にかかっておりません」
「だからといって、いつ、闇に仕えるかわからぬぞ」
「大丈夫ですわ。それならば、闇に仕えぬよう、我らで見守ってやればよいのではありませんの?」
それから、その場にいた妖精たちを見て、そうじゃありませんこと? と尋ねた。
他の者たちは、皆こくこくと頷いた。
「ほら、皆も了承しているのですから」
ニクシィは微笑んだ。タンタルは、苦々しげな顔をして、その場に背を向ける。
「主には報告するぞ」
捨て台詞かともとれるそのセリフに、ニクシィは穏やかに応えた。
「もちろん。よろしくお願いしますわ」
タンタルが去った後、ニクシィは少し申し訳なさそうにアーサーに謝った。
「ごめんなさいね。タンタルは最近ぴりぴりしているの。今では珍しい、ケンタウロスの鍛冶屋だったのだけれど。ここにきてから、あまり仕事をしていないせいか、鬱憤を晴らす方法を知らないのね。それに、“闇の申し子”がまた動き出したから」
闇の申し子とは、カンサの別名らしい。
「同時に、彼は戦士だったらしいのだけれど……、見てのとおり、ここは平和だわ。彼の仲間も、相当闇に呑まれてしまったし、戦う相手もいなくて、つまらないのかも知れないわね」
それから、ニクシィは、二人に言った。
「もちろん、あなたたちは、いつまでだってここにいていいのよ。――さあ、リッシュ、歌って頂戴。あなたの好きな物語でいいわ」
リッシュが、それに応えて、音楽を奏で始める。
その音楽の波に呑まれながら、アーサーは、考えにふけっていた。
これからどうしようか。どうやったら、フィアナに会いにいけるだろう? でも、今のままではダメだ。あの時、男たち相手に、たいした剣も振るえなかった。
アーサーの意識は途中で途切れ、彼は、リッシュの音楽に抱かれながら、深い眠りに付いた。
「アーサー。起きろ」
小瓶の魔物の声がして、アーサーはぼんやりと意識が回復するのを感じた。
ゆっくりと起き上がる。小瓶の魔物の声は、やけに不機嫌だった。何度もアーサーを起こしていたらしい。
「何、ジンニー?」
そう小瓶の魔物に尋ねながら、アーサーは辺りを見回す。妖精たちが静まり返り、ある一点を敬意の念を込めて見ているのに気がついた。
「ほう、小瓶の魔物、とな?」
穏やかで温かみのある声が、背後で聞こえた。
「それは珍しい」
吃驚して、アーサーが振り向くと、そこには穏やかな顔をした老人が立っていた。アーサーが判断に困って黙っていると、その老人はふっと微笑んだ。
「ようこそ、幼子よ。ここはもう知っていると思うが、我らの聖地じゃ。そして、わしはこの地を昔から守っておる主じゃ」
そう、穏やかに告げてから、アーサーに問う。
「幼子よ。見たところ、“闇の申し子”に侵されていないようだが、何の用があって、この“闇の申し子”の治める地にやってきたのじゃ?」
その問いの意味を理解するのに、数秒を要した。
「大切な人を、取り返すためです」
主は、目を細めて微笑んだ。
「無垢なる幼子、か」
そして、空を仰ぐ。この世界の空は、水の中から見た水面のような雰囲気の空だった。その色は淡い青色だ。
「星の並びと一致しておる。幼子よ、時が満ちるまで、この地で休まれるとよい。だが、時間はあまり残っていないだろう。その時間を、有効に使うことじゃな」
主の言葉に、精霊や魔法生物の中から、ざわめきが広がった。アーサー自身には、その意味がわからない。隣で不安げに座っていたリッシュも同じ様だ。二人は、顔を見合わせる。
その荘厳な雰囲気に巻き込まれて、アーサーたちはその意味を主に尋ねるタイミングを失った。主は、そのままゆっくりと背を向けて帰っていってしまう。
後には、ざわめいた者たちと、アーサーたちが残された。
「ニクシィ、さっきの意味は、一体……?」
アーサーの質問に、ニクシィが驚きの表情で答える。
「少し前に、主は私たちに、星の並びを言いましたわ。星の並びによると、この地は“闇の申し子”の攻撃を受けるのだそうですの。けれども無垢なる幼子と共になら、それを退ける事が出来る、と。そして、そのものは、この世界を助ける事になるものだ、って」
つまりは、主はアーサーがその救済者だと思っているということらしい。
「そうだ。だが、それが正しいとは限らん。もしかしたら、お前ではないかもしれないのだからな」
頭上からタンタルがいかめしい顔をして、その場にいる者たちに言った。
「ですが、主の星読みは完璧ですわ。一度も間違った事がありませんもの」
ニクシィが言った。
アーサーは、考え込む。主の言葉をよく考えてみる。時間はあまり残っていないといっていた。それを、有効に使え、と。
タンタルとニクシィの口論が、頭上に飛び交っていた。それを眺めながら、アーサーはタンタルがどういう者かを、不意に思い出した。
アーサーは、突然立ち上がる。
「アーサー?」
リッシュが不思議そうに尋ねた。
「タンタルさんっ!」
「何だ?」
不機嫌そうに、タンタルが返事をした。
アーサーは、深く頭を下げて言った。
「俺に、剣術を教えてくださいッ!」
戦士。今、自分にたりないものを考えたときに、彼から教われば、少しは、と思ったのだ。
「それで? 習った剣術で、何をするんだ? ここを破壊するのか?」
とげのある言葉。アーサーは、そのむき出しの敵意に一瞬怯んだが、何とか持ちこたえて答える。
「大切な人を、助けたいんです」
「………………」
その答えに、タンタルはしばらく微妙な表情をして黙っていたが、アーサーの真剣な瞳を見て、ついに折れた。
「いいだろう。お前の剣術を鍛えてやる」
そして、剣を取った。
「お前、剣術の経験は?」
「少しだけ。元は、剣を創る鍛冶屋の弟子をしていました」
「鍛冶屋の……。そうか。それで、もう己が剣を創ったのか?」
タンタルは一瞬懐かしそうな顔をしてから、またしかめっ面に戻って尋ねた。
アーサーは頷いて、自分の剣を見せる。
「ほう。悪くない剣だ。――では、向こうにある平らな場所でやる。付いて来い」
二人の剣術の訓練が始まった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
アーサーは、剣に集中して、タンタルに切りかかる。ぼぉっと剣の炎が揺らめいた。
「待て、アーサー」
小瓶の魔物が、それを止める。タンタルも、険しい顔をして動きを止めた。
「言っただろう? それは、使うたびにお前の記憶を削る。こんな訓練にいちいち使うんじゃない」
「ご、ごめん…………」
アーサーは謝った。そして、改めて剣を握る。意識しなくても、剣は炎を発した。
「と、止まらないよ」
アーサーが少し泣きそうになりながら言った。タンタルは、呆れたようにアーサーのそばに来て、その剣を取り上げる。
「あ」
「“あ”じゃない。落ち着け」
「ごめんなさい」
アーサーは素直に謝って、深呼吸をした。アーサーは、初めて自分があせっている事に気がついた。主は、時間はあまり残っていない、と言っていた。それは、つまりこの地が襲撃されるのが、近い日の事だ、ということだ。それなのに、自分は弱いままで。
「あの……少し疑問に思ったんですけど。ここの人たちは、何の準備もしてないのでは……。あの、カンサが襲ってくるのに」
それを聞いて、タンタルが忌々しげに言った。
「そうだ。ここの連中は、危機感が足りないのだ。みな、平和に慣れきってしまっている」
「準備、したほうがいいのではないでしょうか? 主に言って……」
タンタルは、驚いたようにアーサーを見た。それは、今まで思いつかなかったことらしい。あいつらに言っても無駄だ、という気持ちが先入観を与えてしまっていたのかもしれない。
主の所へ案内してもらって、そのことをアーサーが告げると、主はにっこりと微笑んだ。そして、この地にいるものを全員集めさせ、その計画をアーサーに話させた。
主は、アーサーが自分の意見を言う間、そして、その意見に対する更に穿った意見を言う誰かとの話し合いを穏やかな表情で聞いていた。時折、意見を求められて、それに答えるが、それ以上、口出しはしない。まるで教師のような人物だった。
話は、様々な種族を交えて進められる。
リッシュは、あまりその会議に参加をしなかったが、リュートで音楽を奏で、彼らの気持ちをリラックスさせた。それが、会議をよりいいものへと進めていった。
そして。その六日ほど後――。
平和だった空間に、唐突に、ドシンッ! と地震の様な大きなゆれが襲った。それは何度も繰り返され、まるで誰かがこの空間に体当たりをしているかのようだった。
アーサーたちは、敵襲に備える。
「各チームは、定位置に付けッ! 状況に応じての判断は、そのチームの隊長に任せるッ! 皆、この地を守るぞッ!」
「おおーッ!」
雄たけびが上がる。戦いに適していないものたちは、後ろの方で手当てや、矢の補給、その他雑務に当たる事になっている。リッシュもその一人だった。リッシュの魔力は、音楽を奏でる事によって使えるものらしい。そのため、彼はこの地の中心で、主のそばに座って、リュートで、精霊たちの力を強め、相手の戦意が失せる思いを込めて歌うことになっていた。
アーサーは、もちろん攻撃に回る。
相手がどんな攻撃を仕掛けてくるか、全くわからない以上、その計画は大雑把な計画にしか出来なかった。しかし、それ故に、その場その場に対応出来る闘いが出来る。
「来たぞーッ!」
誰かの声。そして、戦いは始まった。
ガラスが割れるような音がし、空が黒く染まった。そして、まるで鳥の群れのような大群が押し寄せてきた。
「ガーゴイルだな、あれは」
小瓶の魔物がつぶやく。
「ガーゴイル?」
「そう。元が石だから、きりがないだろうな。死なない」
「何だって?」
「死なないけれど、壊すことなら出来る」
「どうやるの?」
「頭を、つまり操っている者を叩く。そうすれば、全部命を失う」
「判った」
アーサーが頷いて、タンタルに言う。タンタルは、声を張り上げて精霊たちに言った。
「全てのチームに告ぐッ! 敵の頭を叩けッ!」
しかし、ガーゴイルの数は半端ではない。その頭なんて、わかるはずもなかった。
「くっ!」
石のガーゴイルは、壊すのも一苦労だ。精霊側は、どんどんと押されていった。
アーサーも、どうやったら奴らを負かすことが出来るのか、と悩んだ。
「アーサー、後ろ!」
ジンニーに言われて、アーサーは背後のガーゴイルに剣を撃ちつけた。しかし、大して効いているわけではないらしく、そのまま、力で押し切られそうになる。
「く…………ッ!」
「ばかッ、こういうときに、魔法剣を使わないでどうするッ!」
小瓶の魔物が、アーサーを叱咤する。アーサーは、小瓶の魔物に言われるまで、魔法剣の存在を忘れていた。
戦いの騒ぎの中、アーサーは剣を握り締めたまま、自分の中の何かの声に耳をすませた。
「ッ!」
その声に応え、アーサーが剣を振るう。その剣は、真っ赤に燃える炎となり、アーサーの剣から始まった炎が、まるでそれ自体が弾丸のように、ガーゴイルたちを打ちのめした。その攻撃に耐え切れず、ガーゴイルたちは一気に粉々に砕け散った。
「いたッ!」
その一瞬を、タンタルは逃さなかった。すぐにガーゴイルたちが復活して、辺りを飛び回るが、上空に、一つだけ、ガーゴイルとは違う影を見つけたのだ。タンタルは、それがこれらの頭だと直感した。
「アーサー、今のをもう一回、向こうに向かってやれッ!」
タンタルが、叫ぶ。アーサーは、その意図を察して、うなずいた。
気合を入れて、アーサーは、タンタルの指差した方向に、剣撃を叩き込む。それと同時に、タンタルは地面を蹴った。
アーサーの剣撃が道を創るようにして、ガーゴイルたちを粉々に打ち砕く。その剣撃のすぐ後を、タンタルは飛んでいた。そして、それが敵の頭と思われる影に到達したときに、タンタルは己の剣撃を、その影に打ち込んだ。
「!」
相手の吃驚したような顔が見えた。その顔は、傲慢な態度を保っていたところへ、冷水を浴びたような顔だった。その顔は、すぐに苦痛にゆがむ。
タンタルは、下へ落ちざまに、もう一度その男に剣を振るった。
「嗚呼、カンサ様。…………申し訳ございません」
その男は、その攻撃で自分の命が尽きることを知り、最後にそうつぶやいた。しかし、それは辺りの音にまぎれて聞こえない。そして、その男は、塵となって消えた。
タンタルが地面に着地するのと同じくらいに、ガーゴイルたちにも変化が置き始めた。
壊されたガーゴイルは、動かなくなった。
その様子を見て、他の精霊たちは嬉々としてガーゴイルを壊していく。
そして、その空間から、勝利の歓声が上がった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
勝利した彼らの様子を見ながら、カンサは愉快そうに笑っていた。
「はははははッ! これは面白い。楽しみだぞ、彼らが我が元へ来るのが」
アーサーたちが無事なのを見て、フィアナはホッと安堵のため息をつく。
それを見ながら、カンサは笑顔でフィアナに釘を刺した。
「しかし、彼らが我を倒せるほどの力があるとは思えぬ。暇つぶしになる程度だろうね」
フィアナは、一瞬顔を歪め、そして、言い返す。
「でも、彼はあなたを倒すわ! あなたは、あの人に敗れるのよ!」
それは正しくもあり、間違ってもいる。フィアナは、間違っているほうを考えないようにした。私は、アーサーを信じている。そして、信じていれば、必ずそれは現実になるのだ。
「威勢のいいことよの。だが、我はあのものごときに敗れたりはせぬ。あれよりも遥かに強い者たちでさえ、我の前では膝をつくしかなかったのだから」
フィアナは、それに答えなかった。瞳を閉じて、ただ、祈った。
彼らの無事を。そして、この願いが叶うことを。
「まあよい。あと六日で満月だ。――後六日すれば、我はこの世の誰にも負けぬ力を得る。そうなれば、神は我を倒すことなどできぬ」
微笑んだまま、カンサは勝利に酔いしれる精霊たちを見た。