第二夜・上
アーサーは、どれくらい放心していただろうか。リッシュが駆けつけてきて気がついたのだから、きっとそれほど長い時間ではないはずだ。
「…………っ」
リッシュは、舞台の上から下を見て、絶句した。それにつられて、アーサーもやっと周りに目を向ける。
「……ッ! 嘘、だ。こんな……ッ」
辺りは、石像の群れで溢れかえっていた。
「こんなことって……」
誰も、生きている気配を見せない。国中で、石になっていないのは、アーサーとリッシュのみだった。王も、民も、貴族も。他所の国からやって来た行商人や、旅芸人も、皆一様に灰色の塊と化していた。
視線を走らせても、動くものは誰もいない。クリプトさえも、驚きの表情のまま、石と化していた。
「カンサ…………」
不意に、リッシュが呟きをもらした。
「え……?」
その言葉の意味が判らず、アーサーは聞き返す。
「この国から、西のほうにある国の主の名前。もう、百年近く恐怖で国々を支配してきた人だよ」
「百年……っ?!」
そんなに長く、一人の人間が国を統治できるわけが無い。人の寿命は、そんなに長くないのだ。
「そう。あの人は、“魔王”だって座長が言っていた。闇を操って、国々を支配しているんだって。だから、ぼくらの一座も、あの国の支配する土地には近づいたりしないようにしていたんだ」
リッシュは、悲しそうにうつむいた。
「何が、起きたんだ……?」
誰にでもなく、アーサーがつぶやいた。それに、勤めて淡々としているリッシュが応えた。
「カンサが、この国を乗っ取って、あのフィアナさんを攫った」
そんな事は、判っていることだった。でも、アーサーは言わずにはいられなかったのだ。
「フィアナ……ッ」
悲痛な面持ちで、アーサーは言葉を漏らす。
守らなければならなかったのに。後悔の念が、アーサーの感情を占める。必ず守ると誓ったのに。結局守る事が出来なった。
「アーサー」
フィアナ。フィアナ、ごめん。
「アーサーっ!」
リッシュの珍しく鋭い声に、アーサーは、びくりと体を震わせて、リッシュを見た。
「今は、後悔している場合じゃないよ。悲しんでいる場合でも、ない。今、ぼくらが出来る事、つまりやるべきことは、この状況の打開策を考えること、だと思う」
その言葉に、アーサーは我に帰った。
「そう……だな。そうだ! フィアナを助けに行かないと!」
リッシュは頷いた。アーサーは、ふと昨日、フィアナに渡されたものを思い出す。
『この国に、何かが起ったら使ってほしい』そう言っていたはずだ。ということは、彼女はこんな事が起きるとわかっていたのだろうか。
アーサーは、ポケットに入れておいた小さな木箱を取り出す。
「ところで、何で、ぼくたちだけが大丈夫だったんだろう……?」
リッシュが、もっともな疑問を述べるが、アーサーはそれには答えずに箱を開けた。
「……それは……なに?」
「さあ…………?」
そこにあったは、小さな小瓶だった。コルクの栓に封印がしてあって、丁度首から提げるのに良さそうな金の鎖が付いている。中には、白っぽいもやがかかっていた。
アーサーは、それを箱から取り出して、目の前にかざしてみる。
「何だろう……。これは、フィアナが、昨日くれたものなんだ。『何かあったら使ってくれ』って」
それを見て、リッシュは、ためらいがちに言った。
「……小瓶の魔物、かな?」
「ジンニー?」
アーサーが聞き返すのと同時に、初めて聞く少年の声が聞こえた。
「ご名答ッ! そう、オレは天下のジンニー様だ!」
「わっ!」
突然聞こえた少年の声に、慌ててアーサーは小瓶を取り落とす。
「こら、落とすな。割れたら、死んじゃうだろ?」
しゃべっているのは、その小瓶のようだ。いや、正確には、小瓶の中のもや、だろうか?
ジンニーとは、砂漠原産の魔物や魔神である。大体が煙状の体をしていて、悪さをしたり、願いをかなえてくれたりする。こちらでは、ジニーと発音することも少なくない。有名なのは、ランプに閉じ込められたジンニーだろうか? 彼は、持ち主の願いを三つだけ叶えてくれるというジンニーだった。
「運がいいな、お前。オレは願いを叶えるジンニーだ。もちろん、無料じゃないけどな」
「えっと……」
困ったように、アーサーはリッシュを見る。リッシュも、驚いたような顔で見返した。
「えっと、何でも叶えてくれる?」
「おう。そのかわり、それ相応の対価をいただくけどな」
アーサーは、光が見えてきた気がした。先程までは、空と同じように心の中には絶望と闇しかなかったのに。
「じゃあ、フィアナを! フィアナを助けて、この国を元にもどすか、カンサを倒して!」
勢いよく、アーサーは小瓶の魔物に言った。
「あー……。それは無理だな」
小瓶の魔物はあっさり言って、アーサーの勢いをしぼませた。小瓶は独りでに宙を浮き、座り込んでいるアーサーの顔の位置で止まった。
「何でも、って言ったのに……」
ひがみっぽくアーサーがつぶやく。
「理由を教えてやろうか? 一つ、まず、それに見合うだけの対価をお前が持っていないだろうってこと。もう一つは、オレをこの小瓶に封印したのは、カンサだからだ。オレは、カンサに真正面から逆らうことは出来ない」
「…………」
では、どうすればいいのだろう、とアーサーは唇を噛む。何も思い浮かばない。
「ただし、だ。まあ、カンサの所に行くための道標くらいにはなれるぜ。簡単な手伝いとかならな。代価は必要だけど」
「代価…………?」
「そう。物事には、代償が必要になる。オレと契約するなら、何らかの代価をオレに払わなければならない」
逆に言えば、代価を払えば、フィアナを助ける事が出来るかもしれない。
「君と契約するための代価は、何?」
アーサーは、真剣に尋ねた。一縷の望みを、捨てるわけにはいかない。
小瓶の魔物が、にやりと笑ったように思えた。
「そうだなぁ……。って、お前、魔力とか全然無いんだな。特別な力とか持ってない、普通の人間じゃないか! どうやって、あの小箱の封印を解いたんだ? ……まあいいや。じゃあ、君の“記憶”で手を打とう」
「き……おく?」
不思議そうに、アーサーが聞き返した。
「そう、記憶だ。カンサのところへたどり着くまで、オレはお前の道標になろう。カンサのところまでたどり着いたら、お前の記憶を貰う。全て、な」
フィアナを助け出したら、記憶を失う。それは、どういう事になるのか。
クリプトのこと、フィアナのこと、リッシュのこと、昔の思い出。それらが全て失われる事になる。道標と引き換えに。
「まあ、途中で死なれたら困るから、ついでに、お前に、魔力を授けてやる。お前が一番使いやすい形で使えるように。その代わり、魔力は使うたびに記憶を喰らっていくし、まあ残ったとしても、最後にオレが貰うだろうな。どうだ? オレと契約するか?」
どちらを選ぶか。アーサーには、選択肢があった。記憶を失っても、彼女とこの国を救うのか。それとも、綺麗な思い出だけを持って、逃げ出すか。どちらにせよ、失うものは大きい。
だが、アーサーは迷わなかった。迷わずに、まっすぐとした瞳で、その小瓶の魔物を見つめた。
「契約します」
リッシュは、アーサーと小瓶の魔物が話している間、ずっと黙ってそれを見ていた。決めるのはアーサーであって、リッシュではない。それに小瓶の魔物は、アーサーだけにその提案を持ちかけてきたのだ。リッシュが手出ししてはならない。
「いいぜ、その眼。気に入った。契約しよう」
ふっと、アーサーの座っている下の舞台に、アーサーを取り囲むように魔法陣が描かれて、一瞬で消えた。そして、宙に浮かんでいた小瓶は、アーサーの首からペンダントのようにかけられた。
「えっと……、終わり?」
吃驚したようにアーサーが胸元の小瓶の魔物に問いかける。
「終わりだ。これで、オレとお前の契約は成立したぜ、アーサー」
「え、何で名前を……?」
「バカか、お前。オレ様はジンニーだぞ? そのくらいのこと、わからなくてどうする」
「そうなの……? じゃあ、君の名前は?」
「ジンニーは、個別の名前を持たないんだ」
「そうか……」
アーサーは、立ち上がった。
「よし、じゃあ行こう! ジンニー、まずどこへ行けばいい?」
「西。ひとまず、カンサがいる城に行けば会えるぜ」
「わかった」
アーサーは、舞台から降りて歩き出す。その後に、リッシュが続く。
「アーサー……」
リッシュが呼びかけると、アーサーは少し驚いた。実のところ、リッシュの存在を忘れていたのだ。
「お前は……?」
小瓶の魔物が、リッシュに問いかける。どうやら、彼はリッシュの存在に気がついていなかったらしい。
「リッシュです」
「それは本名か?」
少し低めの声で、小瓶の魔物は彼に問う。
「だと……思うんですけど。五年前に、座長がつけてくれたんです。ぼく、座長に拾われる前の記憶が全くなくて……」
そう言って、リッシュは背負っていたリュートを指差して、
「このリュートは、拾われたときから持っていたらしくて、これに“リッシュ”と名前が彫ってあったから、そう名付けたといっていました」
リッシュが拾われたとき、彼は衰弱していて、意識が無かった。やっと回復して目覚めたときには、もう記憶は無かったそうだ。
「リッシュも、ジンニーと契約したのかな?」
アーサーがつぶやく。小瓶の魔物はすぐに否定した。何故かと尋ねても、教えてはくれなかったが。
たまたま、リッシュは歌の才能があった。そのため、旅芸人の一員としてやっていけたのだ。
「ここがこうやって、カンサに乗っ取られたってことは、多分、……ここから西の地は全てカンサの息がかかっていると思ったほうが、いいよ。お金と、食べ物を出来るだけ持っていったほうがいいかもしれない。それに……、武器も」
「そうだね。じゃあ、俺、工房に戻って、使えそうなものを取ってくる!」
「じゃあ、ぼくも」
走り出そうとしたアーサーとリッシュに、小瓶の魔物が声を上げる。
「あんまり、取りすぎないほうがいいぜ。明日になれば、皆普通の生活に戻る」
「え? そうなの?」
「カンサが言っていなかったか?」
アーサーはしばらく考え込む。確か、“明日、石の眠りから目覚める”とか言っていたような気がする。
「言っていたかも……」
「そういうわけだ」
ともかく、二人は自分が自由になるものと、武器を持った。アーサーは、己が剣。リッシュは、アーサーの工房から、短剣を一つ借りた。それから、それぞれ自分の育て親に、旅に出ることを置手紙に残す。
準備は整った。
「行こう!」
アーサーとリッシュは、西側の城壁から、国の外へと歩み出た。
「待っていて、フィアナ」
この剣にかけて、君を救うから。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
光よりも、闇のほうが力を持つ地。その中央に位置する大きな城は、全体的に黒に近い灰色で、空は夜のように暗かった。
その中で、一番広い部屋に、玉座がぽつんと置いてある。
その玉座には、一人の人間が座っていて、眼を閉じていた。肩くらいの金髪が、まるで黄金の細い針のように動かない。
やがて、その人間は目を開けた。その瞳は、血よりも深い赤。不健康そうな顔に、笑みを湛え、手を体の前に突き出し、手のひらを閉じた。
よどんだ空気の中に、わずかな風が巻き起こる。
その風が収まったときには、部屋の中央に、丸い鳥籠と、その中にいた茶髪にエメラルドの瞳を持つ少女が現れていた。
「ようこそ、我が城へ。“覇者なる姫君”」
笑みを張り付かせたまま、その人間はフィアナに声をかけた。
幼い少女は、その声には答えない。ただ、その人間をじっと見詰めるだけだった。
「次の満月の夜――、お前は持っている“世界を支配し得る力”を我に渡す事になる。その先は……どうしようか? いっそ、我の嫁にでもなるか?」
ふざけたように笑って、その人間――カンサは立ち上がって、鳥籠に近寄る。
「来ないでッ!」
フィアナが叫んだ。その言葉を聞いて、カンサはピタリと足を止める。
自分がそういう行動を取った事に、カンサは少し不機嫌になったが、そのまま玉座に戻る。
「まあ、よい。“覇者の姫君”よ。そなたの力は、我のものとなるのだから」
再び、笑みを顔に貼り付ける。カンサの笑みは、まるで仮面をつけているかのように、不気味で、無機質だった。
「あなたは……誰なの?」
フィアナは、震える声で尋ねた。何を今更、とカンサは息を吐き自分の名を告げる。
「カンサ。この世の王となるものだ」
フィアナは、恐怖の感情を、懸命に押し殺した。泣いてはいけない。
「何故、私を攫ったの? そして、あの国を壊したの?」
「そなたの力が、我に必要だからだ。この世を治めるには、今、我が持つ力では足りない。それに、あの国を壊したわけではないぞ。ただ、我が国の一部となっただけ。この、素晴らしい我が国の、な。光栄なことだろう?」
「……あなたは、狂っているわ」
「そうかもしれぬ。だが、誰も我を止めないのは何故だ? それは、世界が、神が、我のする事に異議を唱えていないということだ。誰も、我を止められはしない」
満足した笑みを浮かべているカンサに、フィアナはかっとしたように叫んだ。
「違うわ! あなたを倒しに来る人が、いるわよ!」
言ってしまってから、フィアナはハッと口を押さえる。言わないように、と考えていたのに。アーサーが、ここまでたどり着く間に、カンサが刺客を送らないとも、限らない。助けに来て欲しいと思う気持ちはあったが、アーサーが傷つくのは嫌だった。
ほう、とカンサが感心したようにフィアナを見た。
「そうか。“覇者なる姫君”が言うのならば、そうなのだろうな。楽しみだ。その者が、どれだけ我に抗えるのか」
もう、耐えられなかった。フィアナは、手で顔を覆って崩れ落ちた。せめてもの意地で、嗚咽はかみ殺す。
「さて、そのものは次の満月までにたどり着くかな?」
対照的に、カンサは楽しそうにわらった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
アーサーが住んでいた国を出ると、しばらくは森の中の道が続く。広い道で整備が整っているため、歩きやすいし、迷う心配も無い。
「ひとまず、オレについて少し注意しておきたい事がある」
無言で歩き続けていた二人に、|小瓶の魔物《ジンニー》は話しかける。
「まず、絶対にビンを割るなよ? 封印を開けるのもダメ。オレの存在自体が霧散しちまうからな。オレの体はデリケートなんだ」
「デリケートって……」
少し呆れたように、アーサーがつぶやく。
「うるさい。そういう体質なんだよ。封印されたときに、カンサがそういう風になるようにしたんだ。それから、お前は、絶対にオレを体からはずさないこと。はずしたら、契約違反だからな。いいか、アーサー?」
「わかった」
アーサーが頷いた。
「そういえば、二人とも武器は扱えるのか? 疑問だったんだが」
アーサーは腰に下げている己が剣を軽く叩いた。
「もちろんだよ。武器を作る鍛冶屋は、それぞれ武器の扱い方を知り、使えるようにならなくちゃならないんだ。俺のところは剣系専門だから、剣の扱いは、そこそこだ」
「へぇ、そうなのか。オレは今まで鍛冶屋と知り合いになった事があまり無いからな」
小瓶の魔物は、素直に感心した。
「リッシュのほうはどうなんだ?」
リッシュは、その質問を受けて、しばらく困ったように黙った。
「まさか、旅芸人のくせにほとんど武器を持った記憶がない、とか言わないよな? オレは、旅芸人にならたくさん知り合った事があるが、皆、人並み以上の腕だったぜ」
「…………そうなの?」
不安げにリッシュが小瓶の魔物に聞き返す。ジンニーは、機嫌よく肯定した。
「………………」
リッシュは黙り込む。歩きながら、うつむいてしまった。
「リッシュ……?」
アーサーが、リッシュの顔を覗き込んでみると、リッシュは、ばっと顔を上げた。
「わっ」
「ある! ぼくは、実際に盗賊とかと戦ったことは無いけど、用心棒と雑用をしてる人から、すこし短剣の扱いを習った事がある。だから、大丈夫だと、思う……」
始めは自信がありそうだったが、だんだんと言葉が小さくなっていった。
それから、はあっ、と息を吐いて、アーサーに言った。
「ごめん……。後で、剣術を少し教えてもらえるかな?」
小瓶の魔物は、景気よく笑った。
その日は、道の片隅で野宿となった。野宿のときになって、リッシュの力が存分に発揮される。一度も野宿などした事がないアーサーは、どれも初めての経験で、リッシュに頼りっぱなしだったのだ。
リッシュが腕を振るった食事を食べながら、アーサーが、そういえば、と切り出した。
「あの、石になる魔法、なんでオレたちにはかからなかったのかな?」
リッシュも不思議そうに首をかしげる。その質問に答えたのは、小瓶の魔物だった。
「オレの入った小箱を持っていたからだ。箱はオレを封じるため、強い魔よけの力があるからな」
アーサーは納得する。しかし、すぐに別の疑問が湧いてきた。
「じゃあ、リッシュは? あの箱を持っていたのは、俺だけだよ?」
その質問にも、小瓶の魔物はよどみなく答えた。
「リッシュは、そのリュートだろう。そのリュートには、魔力がある。……それに、リッシュ自身にも、強い魔力があるんだ。だから、リッシュには、普通の人を対象とした魔法にかからなかった」
それを聞くと、リッシュは驚いたように目を見開いた。
「ぼくに、魔力が?」
「そうだ。気づいていなかったのか?」
「全然。……魔法なんて、使えたこと、ないよ」
「まあ、それも仕方がないだろうな。今のお前には、魔法は使えない。魔法に対する耐性はあるだろうし、使おうと思えば少しぐらいは使えなくも無いだろうが……基本的には無理だろう」
小瓶の魔物のよくわからない説明に、アーサーとリッシュは首をかしげた。
「どういう意味なの?」
「……………………」
小瓶の魔物は黙り込んだ。小瓶の中の煙が渦を巻く。
「教えろよ、ジンニー」
じれったくなって、アーサーが尋ねる。小瓶の魔物は、先程まで良かった機嫌が、一変して不機嫌になったのがわかる口調で答えた。
「そのまんまの意味だよ。……わかりやすく言えば、リッシュの魔力は、封じられているようなものだからだよ」
小瓶の魔物は適当に答えようとして、アーサーたちの怪訝そうな顔を見てつけたした。
その後、その話は自然と忘れられ、一日のうちに、たくさんの事が起きて疲れた二人は、毛布に包まって休んだ。