第一夜・下
もう、外は暗くなり始めていた。
明日からは、建国祭だ。あたりは、活気付いた明かりに溢れていた。
「あ…………」
クリプトが、工房の隅で道具の整理をしながら、声を漏らした。
「どうしたんですか、親方?」
クリプトらしからぬことに驚いて、アーサーは工房の掃除をしていた手を休める。
「オレとした事が……。城からの帰りに、葡萄酒を買ってくるのを忘れていた。――アーサー、ちょっと買ってきてくれないか?」
クリプトが立ち上がり、棚から財布を取り出す。
「パラジの店の葡萄酒三本。頼んだぞ」
「はいっ」
アーサーは、財布を受け取って、すぐに駆け出した。掃除道具が残っていることを忘れている。
「やれやれ」
クリプトが苦笑しながら、彼の置いていった掃除道具を片してやる。つくづく自分は甘い師匠だな、と笑った。
アーサーは、パラジの酒屋へと向かっていた。パラジの酒屋は、クリプトたちの家から三十分くらい離れたところにある。近所でも美味しいお酒を取り揃えているお店だ。また、クリプトとは長い付き合いでもあるため、アーサーは彼や彼の奥さんとよく会っていた。二人とも、気さくでいい人だ。
町は、いたるところで明日からに向けての準備が進んでいる。この賑わいは、嫌いではない、とアーサーは思っていた。毎年、この時期になると、祭が楽しみで仕方がなくなるのだ。
そういえば、孤児院にいたときも、一度だけ院を抜け出して、フィアナとこの祭に来たときがあった。孤児院では、祭の日は外に出ず、院の中にある教会でささやかなパーティーをするだけなのだ。いつも、塀のそのから聴こえる賑やかな喧騒の音が気になってしょうがなかった。
でも、あの時はフィアナとはぐれてしまって、大変だった。後で、路地裏でフィアナが泣いているのを見つけて、つられて一緒に泣いてしまった気がする。……いや、ホッとしたからだったかもしれない。ちゃんと、フィアナにあう事が出来て。
そのとき、アーサーは誓ったのだ。
「ぜったいに、きみをまもるから。いつまでも、いっしょにいるから。なにがあっても」
二人で大泣きしながら、なんとか院に戻ってこれたが、当然のようにシスターに見つかって、何時間も説教された。
懐かしいな、とアーサーは笑顔になった。
気がつくと、もうパラジの店の前だった。扉を勢いよく開けると、カラカラと音がする。それも、アーサーがこの店が好きな理由の一つだった。
「おじさん、こんにちはっ!」
元気よくパラジに挨拶をする。パラジも、アーサーを見て笑顔になった。
「よう、アーサーか。元気にしてたか?」
「うん。おじさんは?」
「おう、このとおり、今日も元気だ」
そういって、パラジは腕に力を入れて、力んでみせる。
「クリプトも元気か?」
「とっても。そうだ、葡萄酒を三本、親方から頼まれているんです」
「葡萄酒か。ちょっと待ってな」
在庫の確認のためにパラジが奥の棚へ向かったときに、扉が開いて、次の客が現れた。
二人の視線は、自然とそちらへ向く。
入ってきたのは、十二歳くらいの少年だった。闇のように黒い髪に、アメジストの瞳。おずおずと入ってきて、線が細くて気が弱そうだ。
「いらっしゃい」
パラジが笑顔で声をかける。
「あ、えと……、こんにちは」
少年は、ぺこりとお辞儀をした。その動作は、どこかあどけなさがあった。
それから、少年はパラジの方に歩み寄ってきて、その意外に澄んだ声で用件を言う。
「あ、あの……、林檎酒を十本、ください」
「あいよ。ちょっと待ってな」
「はい」
パラジは、奥の棚で二つの酒の在庫を確認して帰ってきた。
「悪いな。明日から祭だから、棚にあるのがもう無くてなぁ。今、地下室から取ってくるが、ちょっと時間がかかるんだ。すまんが、そこの椅子に座って待っていてくれ」
「判りました」
「はい」
少年とアーサーは、店の隅に一つだけ置いてある長椅子に腰掛けた。
「…………」
すこし気まずい沈黙が流れた。
「……ええっと、俺、アーサーって言うんだ。城の近くの工房で、鍛冶屋の弟子をしてる。君は?」
「え? ぼく、ですか……? ぼくは、リッシュといいます。……旅芸人の一座で、物語を歌っています」
「へぇ……、旅芸人かぁ。すごいね」
アーサーが言うと、リッシュははにかんだように笑った。
「いえ……。鍛冶屋の方が、すごいですよ。もう己が剣を創られたのですか?」
「うん。まあね」
アーサーも、少し誇らしげに笑った。
「それは、すごいです! まだ、ぼくと同じくらいなのに」
「そんなことないよ。――リッシュは、いつ公演をするの? 良かったら、君の物語を聞いて見たいなぁ」
アーサーは、まだ出会ったばかりのこの少年をすでに気に入っていた。気が合いそうなきがするのだ。いい友達になれると思う。
「今日から、祭りが終わるまでの間、お昼過ぎと夜にやります。ぼくがでるのは夜だけですけど」
「今日もやるの?」
「はい。前夜祭、みたいな感じにしたいらしいです」
「へぇ……」
そのとき、パラジが大きな木箱を二つ抱えて部屋に入ってきた。
「待たせたな」
どすん、とその木箱を置く。音からして、お酒の入ったビンがたくさん詰まっているんだろう。
「ほい、アーサー。葡萄酒だ」
パラジは一つの箱を開いて、三つのビンを取り出して、袋に詰めて渡してくれた。
「ありがとうございます」
アーサーは、それを受け取って代金をカウンターの上に置く。
「で、そっちの少年の注文の林檎酒十本だが……、お前、こんなに持てるのか?」
もう一つの箱を開いて、三つほどビンを取り出して言う。
箱ごと持って行っていいということらしい。
「う…………。がんばります」
重そうなその箱を見て、リッシュは苦悶の表情を一瞬だけ浮かべた。そして、お金を先に渡してから、箱に手をかける。
「俺が手伝うよ」
「え……?」
アーサーが反対側から箱に手をかけた。
「で、でも……アーサーさんも、おつかいの途中じゃ……」
「ちょっとぐらい大丈夫だよ。それに、リッシュたちがどこで公演するのかも知りたいし」
リッシュは、少し嬉しそうな顔をして、
「じゃあ、お言葉に、甘えさせていただきます」
二人で酒の入った箱を持つ。丁度三本入るスペースがあったので、ついでにアーサーの荷物も、途中まで入れてもらう事になった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
アーサーが帰ってきたのは、もう日が完全に沈んでしまったころだった。
「ただ今帰りましたッ!」
元気の良いアーサーに、クリプトは微笑んで「おかえり」といった。
「食事ができている」
「はいっ。あ、これ、葡萄酒です」
「ご苦労だったな」
アーサーから受け取った葡萄酒の一つを開けて、グラスに注ぐ。
「セレンさんもどうぞ」
クリプトは、もう一つのグラスにもぶどう酒を注いで、テーブルに料理を並べていた女性に渡す。彼女は、料理があまり上手ではないクリプトの代わりに、料理などの家事をしてくれているお手伝いさんだ。もちろん、給料も払っている。普通の鍛冶屋では、普通そんな人を雇うことは無いのだが、まだ彼が独身なのと、王家や貴族御用達の鍛冶屋な事が重なって、彼女を雇う事になった。クリプトの創る武器は、好評なのだ。繊細な装飾と、強靭で長持ち。そして、それを使うものにぴったり合うものを創る。
人間的にも、鍛冶屋としても素晴らしい人なのだが、なかなか奥さんがいなかった。
ちなみに、セレンにも伴侶はいない。
「…………有難うございます」
彼女は、クリプトの差し出したグラスを受け取った。アーサーは、忍び笑いを漏らす。
表情は変わらないが、今、クリプトは心の中で嬉しくて飛び上がっているはずだ。クリプトが密かに心を寄せているのは、セレンなのである。
食事の準備が終わり、セレンも席に着く。本当は、礼儀に反するからと言って、セレンは一緒に食事を取るのを辞退したのだが、アーサーがぜひと言って、更にクリプトが「君がよければ」と熱望(?)したので、この家では、三人で食事を取るのが常となっていた。
食事の祈りを済ませ、食べ始める。
「いつもの事ながら、セレンさんの食事はおいしいですね」
クリプトが彼女を褒めた。
「有難うございます」
セレンがうっすらと頬を染めて答える。
アーサーはスープを口に運びながら、思い出したようにクリプトに尋ねた。
「親方、今日の夜、第二広場で旅芸人が公演をやるそうなんですけど、俺、行ってもいいですか?」
「旅芸人……?」
アーサーはうなずいて、クリプトの顔色を窺う。クリプトは、少し考えてから、許可を出した。
「ここのところ、そういうのも見たりしてないしな。オレも行くか。セレンさんも、ご一緒にいかがですか?」
「いえ……私は、遠慮させていただきます。今日も、もう夜遅いですし……」
「そ、そうですよね……すいません」
クリプトは残念そうな顔をして、引き下がった。
食事を終えて、セレンはぺこりと頭を下げて家に帰っていった。
「お気をつけて」
それから、アーサーとクリプトも外出の準備をした。
「戸締りは大丈夫か?」
「はい」
最後に、玄関の扉を閉めて、二人は夜の街へと歩みだしていった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
この国の第二広場は、城の南側にある。中央広場よりは小さいが、飲食店が立ち並ぶ場所なので人通りは多い。
そこに、旅芸人たちは舞台を組んで公演を始めようとしていた。
「お集まりの皆様方! ただ今より、このテルル率いる“リューパック一座”の公演を開始いたします! どうぞ、心行くまでお楽しみくださいませ!」
左右に張られた縄の上を、何人もの男女が曲芸をしながら渡り歩く綱渡りや、擬似魔法、剣舞に歌や、他の国の情勢など、観客を飽きさせない公演が続いた。
「さて、お次は我が一座の素晴らしき歌い手、リッシュの“物語”をお楽しみください」
盛り上がった雰囲気の中、拍手が巻き起こり、舞台にリッシュが登場してきた。リュートを持ち、深緑の地味な服を着ていた。他の人々よりも遥かに目立たない服だ。だが、酒屋で見たときとは別人かと思われるくらい、存在感があった。
舞台の中央に立つと、ぺこりと頭を下げ、それからおもむろに座って楽器を構えた。
幾つかの弦をはじき、メロディーを紡いでいく。そのメロディーが観客に馴染んできたころに、彼の水晶のように澄んだ声が響き渡る。
「これから歌うのは 遥か昔の物語―――」
言葉が、水の流れのように押し寄せてくる。
その場にいた者たちが、しん、と静まり返り、彼の物語に耳を傾けていた。
やがて物語は終わり、その余韻を惜しむように弦が幾つかはじかれて、やがてそれも消え、あたりは、しん、と静まり返った。
「すごい……」
アーサーがぽつりとつぶやくのと同時に、あたりを揺るがすほどの拍手が巻き起こる。
アーサーも、手が痛くなるくらいに拍手した。
リッシュは、立ち上がり、堂々と礼をして舞台から去った。
全ての公演が終わり、舞台の裏の彼らの野営地へアーサーは向かう。リッシュはすぐに見つかった。
「リッシューっ!」
アーサーは大きく手を振る。その後ろを、ちょっと呆れたようにクリプトが歩いてきた。
「すごかった! すっごく歌うのがうまいんだね! 俺、感動したよ」
リッシュは、はにかんだように笑って、「有難う」と言った。
「いつの間に知り合ったんだ?」
クリプトが不思議そうに尋ねる。
「酒屋で、ちょっと」
アーサーは説明する。
「お疲れだったな、リッシュ。――おや、そちらの方々は?」
その時、座長のテルルがリッシュにねぎらいの言葉をかけてから、二人に気づいて不思議そうに尋ねた。
「アーサーさんと、えっと……鍛冶屋の……」
「クリプトと申します。いやぁ、とても素晴らしい公演でした」
「それは有難うございます」
「あ、あの……」
その時、控えめにリッシュがテルルに声をかけた。舞台の上とは全く違う。今はとてもおとなしく、地味で目立たない。
「明日の午前中、もし、アーサーと、クリプトさんと、座長がよければ、ですけれど、一緒に祭を回っても……いいですか?」
座長は、すぐにいいよ、と答えた。
「リッシュの出番は夜だけだからね。ここの祭は盛大だから、楽しむといい」
「有難うございます!」
アーサーは、クリプトを見た。
「行ってこい。――別に、城で何か問題を起こしたわけではないからな」
「はいっ!」
話がまとまったところで、彼らは別れた。
夜ももう遅い。
「あ……。フィアナ……様の歌って、明日の何時からでしたっけ?」
思い出したように、アーサーがクリプトに行った。フィアナという名前を呼んだ途端、胸の中に暖かさが広がる。
「姫君の歌は……たしか、中央広場で、午後一番だったはずだ。ああ、オレも行くから、その時間になったら、中央広場の銅像の前に来い」
「判りましたッ!」
アーサーは、嬉しそうに返事をした。
夜が更ける。
明日から、建国祭が始まる。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
朝から上がる花火。あちらこちらで聴こえる楽隊の音楽。たくさんの人々が行きかう喧騒。売り子たちが、ここぞとばかりに自分の店の宣伝をする。街角では、芸人や吟遊詩人たちが、歌や芸を披露している。
「こっち行こうよ!」
「うん!」
元気な少年二人、アーサーとリッシュも、この祭を大いに楽しんでいた。
「あそこの綿飴、美味しいんだ!」
「へぇ……」
二人で綿飴をほおばりながら、あちこちで店をのぞいたり、芸に驚いたり。
そんなことをしているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。
お昼の鐘が、高らかになった。
「あ!」
「……どうしたの?」
「中央広場に行ってもいい? 知り合いが、そこで歌を歌うんだ」
「行こう! どんな人、なの?」
「えーっと、なんていったらいいんだろう。人形みたいにかわいい女の子」
「女の子?」
「……うん」
少し顔を赤らめながら、アーサーが肯定した。それを見て、リッシュが珍しく悪戯っぽい笑顔を向けて、アーサーに問う。
「アーサーの恋人かな?」
「―――――ッ!」
恋人、という予想外の言葉に、アーサーが顔を真っ赤に染める。
「え、そ、そんなことッ!」
「じゃあ、好きな人?」
「…………えーっと」
アーサーは、リッシュに問われて、初めて自分の感情をそちらから捉えて考えてみた。言われてみれば、この暖かい気持ちは“好き”というものなのかもしれない。愛しているとか、恋とかかどうかはわからないけれど、フィアナの事が好きなのは確かだ。“家族のように”なのかもしれないし、“異性として”なのかもしれない。でも、正確にはそれが適切ではない気がした。もっと、この感情に近い言葉あるはずだ。
「アーサー……?」
黙って考え込んだアーサーを、リッシュは不思議そうな顔で覗き込む。
「えっと……、多分、彼女の事が好きだと思う。あ、でも、それが恋とか、異性としてとかじゃない気がするんだ。なんていうか……そう! “魂から惹かれあう”感じなんだ」
「魂、から……?」
「そうだと思うんだけど……、ああもう! わかんなくなってきたッ! 急ごう、リッシュ。始まっちゃうよ」
「うん」
二人は、目的地へと走り出した。
「きっと、いい出会いを、したんだね」
アーサーの顔を見ながら、リッシュはつぶやく。
「ぼくも、君と出会えてよかったよ」
もちろん、このつぶやきは風と喧騒にまぎれて、アーサーの耳には届かなかった。
目的地には、もうすでにクリプトが待っていた。
「お待たせしました、親方っ!」
アーサーが、荒い息を整えながらクリプトに言う。
「あ、どうも、こんにちは、クリプトさん」
それにちょっと遅れて、リッシュがぺこりとお辞儀をする。
「ああ、こんにちは、リッシュ君。二人とも、もうすぐ始まるぞ」
そう言って、クリプトは人ごみを掻き分けて二人のために道を開きながら、真ん中の方に陣取る。
「さて、午後の部でございますが、最初に始まりますのは、フィアナ姫の歌でございます」
この中央広場では、祭の間中、この国に住んでいる人々の発表の場となっている。
「フィアナ姫、どうぞ――――」
中央に、フィアナが立った。一度観客の方を見回して、アーサーと目が合った。
「大好きな人のために―――“道標”」
題名を高らかに告げて、彼女は息を大きく吸い込み、うたいだす。
澄んだ、鈴のような可愛らしい声が、あたりに響く。
皆が、彼女の歌に聞き惚れていた。
アーサーは、その歌に聞き入りながら、リッシュとの会話を思い出す。
好きな人? そうかもしれない。ずっと一緒にいたし、昨日再会した時は、舞い上がるような嬉しさがこみ上げてきた。でも、それは懐かしさかもしれないのだ。自分には、よくわからない。
でも―――。とアーサーは思った。俺はあの日、誓ったんだ。ずっと一緒にいようって。あのときから、俺の気持ちは変わらない。だとしたら、本当に小さいころから彼女に恋をしていたのかもしれない―――。
その時、ふっと太陽の灯りがさえぎられた。先程まで、雲などほとんど見えなかったというのに。上を見上げると、黒い雲が渦巻いていた。
ザワザワと、人々がざわめく。
「何だ……?」
クリプトも、上を見上げてつぶやいた。
国中の喧騒が、だんだんと城壁側から中心へと静まっていく。不気味なほど静まり返った国。唯一まだ人の気配が残っているのは、中央広場のみだった。まるで、その場所のほかにはどこにも人がいないかのように。
そんな中、フィアナは先程よりも必死な形相で、歌を歌い続けていた。その歌声は、闇夜のような静けさの中に響き渡る。
「おい、あれ……ッ!」
誰かが示した先には、石の像が、不自然な格好で立っていた。しかし、それはアーサーやクリプトが知っているものではない。そもそも、あんな象はこの広場にはなかったはずだ。
その石像に近づいたものが、周りの空気がだんだん重くなっていくかのようにゆっくりとした動きになり、やがて完全に止まった。足の先から、色が白っぽくなっていく。そして、その場の者たちが見ている中、その者は、石像と化した。
その場は、次の瞬間にはパニックとなった。遠くへ逃げようとするもの、しゃがみこむもの、怒鳴るもの。
フィアナの歌は、なおも続く。まるで、この場所を守護するかのように。
その時、不意に空から声が響いた。地を震わせるような、低い声。
『無駄なあがきはよすのだな、“覇者なる姫君”よ』
その場は、その迫力に気押されて、しん、と静まり返った。
それでも、フィアナは歌をやめない。
『この国の者に告ぐ。この国は、我が者となった。明日、石の眠りから目覚めたときには、決してお前らは我に逆らうことは出来ぬ。逆らえば、二度と目覚めることが叶わぬぞ』
その言葉の意味を半分も理解できぬまま、人々は、ただ唖然となった。何もかもが、突然すぎて、思考能力が欠落してしまったかのようだ。
そんな中、アーサーは何か本能のようなもので、焦りを感じていた。
自分が何をしようと思っているかも判らぬまま、彼は走り出していた。
「アーサーッ!?」
「ま、待って……ッ!」
クリプトが叫び、リッシュはアーサーの後を追い、人ごみの中を縫うようにして走り出す。
アーサーは、己の行動の意味を、走りながら理解した。
『さあ、“覇者なる姫君”よ。我がもとへ来い。そして、我が計画の助けとなるのだ』
「フィアナっ!」
彼女が危ない。未だ歌い続けている彼女のもとへ、黒い雲が伸びてくる。
「フィアナーっ!」
大声で、彼女の名前を呼ぶ。その声に応えて、フィアナはアーサーの方を見た。その目は、恐怖に見開かれていたが、決して恐怖に屈したものの眼ではなかった。
―――信じている
最後の歌詞を歌い終えたのと同時に、彼女は黒い雲に包まれた。
『我が国へとようこそ、諸君』
全てが、闇に包まれたかのようだった。
闇が消える。一瞬遅れて、アーサーは舞台の上にたどり着いた。
しかし、すぐにその場に座り込んで、放心してしまう。
「守ると、誓ったのに…………」
フィアナの姿は、どこにも無かった。