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湖底の街に吹く風の音は

作者: 紗妃

 満々と清水を湛えた湖の畔、一人の少女が膝をつき、両手で顔を覆っている。

 泣いているのだ。

 指の隙間から零れた涙が風に舞い、水面へと消えていく。周囲には誰もいないのに、それでも誰かに諫められることを恐れるように押し殺した声。酷く痛々しい。

 余りに哀しくて、人前に決して現してはいけない姿を結んだ。湖の縁から、周囲の光を凝縮するように現れた人影。しかし少女は気付かない。

「どうか、……したの?」

 そっと声を掛けた、……つもりだった。

 少女は、なるで何かに弾かれたかのようにビクッと肩を震わせて顔を上げた。突然に掛けられた声そのものに驚いたのか、そんな場所に人がいたという事実に驚いたのか、その理由はわからない。

 見開かれた瞼は赤く腫れていた。

 青年は、少なくともこれ以上は驚かさないように、両手を後ろに組み、小首を傾げ、小さく微笑みながら返事を待った。

 この姿自体を訝しみはしないだろうか。一瞬、不安になる。極普通の黒に見えているだろう髪と瞳は、陽に透ければ、その真の色である濃い蒼の姿を現す。

 けれどそれは、青年の危惧で終わった。少女に気付いた様子はない。なにか深い哀しみによるものだろう一杯の涙に被われた瞳は、全てを水の底の風景のように映しているらしい。

 ホッと胸を撫で下ろし、青年は彼女から少し離れた木陰に佇んだ。

 始め、窺うように青年を凝視していた少女は、悪さをする目的ではないようだと判断したらしい、小さく安堵の息を吐き、呟くように言った。

「小さい頃、ここに住んでいたの」

「ここ……、に?」

 青年は周囲を見渡した。

 深い森の中、見渡す限り一面の湖だ。心安らぐ風景。楽しげな小鳥の囀りが耳朶を震わせる。

 ただ、遙か遠く、湖の一角にコンクリートの壁が聳えていることを除けば……。

「そうよ」少女は黒い髪を揺らしながらコクリと頷いた。「みんな忘れてしまったけれど、ダムに沈む以前、ここには小さな村があったの。小さいけれど、その分、人の温もりの深い村だった」

 過去の懐かしい景色をその場に見出そうとしているのだろうか、少女は眼を細めて周囲に視線を漂わせた。

「わたしね、哀しいことがあると、ここに来るの。あの頃に戻りたいって思いながら、おもいっきり泣くの。そうするとね、少しだけ気持ちが軽くなって、また頑張れるようになるの」手の甲で頬を伝う涙を拭った。口許が歪む。笑みを作ったつもりらしいが、それは微妙に崩れていた。「でも、……ダメね。どうしても考えてしまう。ここがダムに沈まなければ。あのまま、ここで暮らしていられたら。そう、……思っちゃう。そうしたら私は、もっと幸せになれたんじゃないかって」

 泣き腫らした顔を空へと向ける。涙が一滴、頬を滑っていった。

「もちろん、そんなことわからない。今も村があったって、私が村に住んでいたって、父さんはやっぱり死んじゃったかもしれないし、母さんは今と同じように病気になったかもしれない。それでも、そんなふうに思っちゃうのは、きっとわたしが弱虫だからよね。わかってるの。でも、……でもね」想いが溢れ出し、止まらなくなったのだろう、ポロポロと頬を伝う涙。けれど少女は、膝を抱えたまま真っ直ぐに正面を見据え続けた。睨むように、挑むように……。「ねえ、教えて。ここにダムを造って、いったいなにが変わったの? 私達が、生まれ育った場所を追い出され、見知らぬ土地で苦しんできた分、誰かが幸せになったの? この土地を私達から奪い取った分、私達が流した涙の分、いったい、どれだけの人が笑えるようになったの?」

 膝をくるむ白いスカートの裾を握りしめる手の甲までが、涙で濡れた。

 この少女の心の中には、いったいどれほどの哀しみが隠れているのだろうか。青年は思った。深い深い、……きっと、この湖よりも深いに違いない、と……。

「私達の静かな村、湧き水の豊かだった、あの村を壊さなければ、その人達は笑えなかったの? ここじゃなきゃダメだったの? ねえ、教えてよ……!」

 少女の問いに、けれど青年は答える術を持たなかった。そんな己が、力無い自分が、無性に情けないと思った。


     ※


 ザザッ……。ザザザ……。

 今日はやけに風が騒ぐ。

 梢の間を縫うように軽やかに擦り抜けながら、ハヤテは微かに眉根を寄せた。

 背を押す風の中に、微かに感じる水の香り。

 また、あいつか……。

「あの泣き虫が……」

 呟きと共に一つ深い溜息を漏らしつ、水の香りを辿り、背を押される以上の速度で緑の中を駆け抜ける。

 ザザザッ……。

 森を抜けた瞬間、眼前に広がる穏やかな水面。広々とした一面の湖。

 周囲の山々は、この世の全ての緑を塗り込めたかのような色とりどりのグラデーションを成し、蒼い湖面の四方を囲む。その光を映し込んで、湖面の蒼は深さを一層増しているようだ。

 けれど……。ハヤテは素早く視線を走らせた。蒼の深さの理由は、どうやらそれだけではないようだ。水面に波立つ同心円の中心へと視線を移動させた。

 案の定、湖の中央に、一人の青年が膝を抱えて蹲っていた。

 余りにも蒼が深くて、それが水上であることを一瞬忘れそうになる。が、その場所の奇異さは違えようのない事実。彼が人でないことは明白だ。

 ……否、それがどこであろうとも驚きはしない。風に薫る水の香で、その人物が誰なのか、はるか遠方にいる時からハヤテにはハッキリと解っていたのだから。

「どうした、イズミ」

 自ら起こした微風に弄られるサラリとした銀の髪を片手で掻き揚げながら問う。小柄な体躯と相まって、その姿は一見少女にも見えると評される。けれど、風に揺れる長めの前髪の隙間から覗く深い緑の瞳の鋭さは、一瞬の判断の過ちさえ許さぬ鋭さを孕んでいた。

 イズミの方も、耳に届く少し低めの声音だけで、その主を判断したらしい。ゆっくりと顔を上げた。

「また泣いているのか」ハヤテは確信を込めて呟くと、イズミの顎へと細い指先を伸ばした。

 誘われるままにイズミの顔が上へと向いた。そのはずみで溢れた涙が頬を伝い、ハヤテの指先を濡らした。

「違うよ!」泣き顔を見られたことが恥ずかしいのだろうか、イズミは少し乱暴にハヤテの指を払い除けた。「……違う」

 ハヤテは僅かに眉間に皺を寄せた。

「お前の翼は、水ではなく、お前の涙でできているようだな」

「違うって言ってるだろ!」少しムキになって答える。

 荒々しい口調は決して彼の本心ではなく、恥ずかしさや困惑の裏返しなのだと、ハヤテには解っていた。きっと、冷静になれない自分自身すら恥ずかしいのだろう。そんなことを思う必要などないのに……。

「……今日はどうした?」しかたなく、周囲に響く小鳥の声に耳を澄ます素振りで訊いた。

 一瞬、子供が拗ねたような視線がハヤテを見上げる。

「もう、……イヤだよ」蒼の視線がスッと泳ぎ、次いでイズミは、足許の水面にそっと指を走らせ始めた。「ハヤテはイヤになったりしないの?」

 銀色の髪が風に揺れ、深い碧の瞳が僅かに曇った。

「嫌もなにもない。これが我等に与えられた使命だ。役目を放棄することは、この身の消滅を意味する。それだけのことだ」

 型どおりの返事をした。イズミの疑問はいつも単純で、だからこそ、核心をついている。

「わかってる。わかってるけど……」言ってもどうにもならない愚痴だということは、イズミ本人もよく解っているのだろう。問いの中に、なぜ? や、どうして? が含まれることは、以前と比べて随分少なくなった。それでも彼の頑固さは以前となんら変わらないが……。「智天使様が、ボク等をこの世界に遣わされた理由がわからないよ。ホムラもハガネも天球宮に帰ってしまった。あれだけ怒っていたんだもの、もう二度と戻ってなんかきてくれないよ」

 懐かしい名を耳にして、ハヤテの口許に苦笑が浮かぶ。

 ホムラとハガネ……。

 四人しかいない仲間のうちの二人が、この世界に見切りをつけた形で飛び出していったのは、今から半世紀前。

 あの日の出来事を思い出すと、苦笑にしかならない。

 無口な二人は表情一つ変えずに限界ギリギリまで堪えていたらしが、それが僅かな切っ掛けで暴走し、ついには翼を羽ばたかせて去ってしまった。その怒りの理由が解るからこそ、ハヤテもイズミも、彼等を止めることができなかった。

「生まれて間もない、まだ幼かった人間達に知識を与えるために、私達はこの世界に遣わされた」

 感情を表に出すことは、自身への戒めとして禁じている。風を司る己が感情に支配されれば、いったいどうなるか、その結果を、ハヤテは嫌というほど知っていた。

「そうだよ」イズミが呟くように言う。「だからボク等は、たくさんのモノを彼等に与えてきた。ホムラは他の動物とは異なる生き方を、ハガネは技術という名の利便を、彼等に与えた。けれど、それでどうなったの? 彼等は、それらを遣いこなすことができないばかりか、戦いの道具にしてしまったんだ」

「同じ命を分け合って生まれた者同士が命を奪い合うなど、愚かしいにも程がある。ホムラが怒るのは当たり前だ」

「そうだよ。ボク等はそんなことのために、ここにいるんじゃないのに」

 イズミは湖の水を一掬い掌に取ると、それを空中に投げた。四散した水滴が彼の周囲を包むように被い、それがキラキラと陽の光を反射して美しく輝いている。それがどんな宝石よりも美しいことを、イズミは一番に知っているのだ。

「天が人間に望む知識を与えるなんて、所詮は無理なんだよ。彼等はまだ成熟しきっていないんだもの」

 ボソリと呟く。

 ハヤテは、わざと少し大袈裟に眼を見開いた。

「どうした、イズミ? 今日は随分と批判的だな。批判するのは、いつでも私の役目。そう決まっているのだと思っていたが」

「からかわないでよ!」

 高ぶる感情をもてあますように、握り拳で湖面を強く叩く。

 飛び散った水滴が一粒、ハヤテの正面を掠めたが、一陣の風がそれを払い落とし、水滴は湖面へと返っていった。

「そうじゃないよ。ハヤテだってわかっているでしょう? 水の恵みを得るために、誰かの涙を搾り取るなんて、しちゃダメなんだ。そんなことのために、ボクは彼等に水の知恵を与えたわけじゃない。それなのに、結果はこうだ!」手を広げ、眼の前に広がる、無機質なコンクリートに固められた湖を指し示した。「枯れることのない清涼な水は、それ自体が恵みなんだ。それなのに、その恵み豊かな土地を、こんなふうに傷つけることしかできないなんて……!」

「イズミ」憤慨のあまり、再び泣き出しそうな彼の隣にそっと腰を下ろす。風が渦巻き、椅子代わりをしてくれた。「待つんだ、イズミ。彼等はもう、自らの脚で歩き始めてしまった。私達にできることは、そんな彼等を見守り、待つことだけなんだ。彼らが真の生き方に目覚め、気付く時を……」

 手を伸ばし、柔らかな蒼の髪をそっと撫でる。

「イズミ。お前の慈愛の心は、懇々と湧き出す泉と同じだ。決して枯れることはない。今はこれほどに怒っていても、明日になればまた、お前は人間を好きになり、彼等の味方をするのだろう?」少し意地悪で皮肉な笑みが口許に浮かんだ。

 イズミは、それをどう受け取ったのだろう、膝を抱えたまま、すこし驚いたように顔を上げ、暫し、ハヤテの顔を凝視した。

「……なんだ?」

「ハヤテって、大人だね」

「そんなことはない」

「そんなこと、あるよ」ニッコリと微笑む。「ハヤテは皮肉屋なんだ。いつでもそう。自分の気持ちは上手に隠しちゃう。でもね、ボク、知ってるよ。君は冷静な振りをしているけど、いつだって風の流れのように、みんなを後押しして、全てを包み込んでいてくれるんだ」

 予想外の言葉だった。答えに窮し、そんな己を悟られるのが嫌で顔を背ける。

 イズミには敵わない。どうしてこんなにも、相手を肯定的に視ることができるのだろうか。

 だから……、と思う。だからハヤテは、この世界に留まっているのだ。人間など愚かな生き物だと蔑みながらも、イズミが彼等の味方だから。

 揺れる風の軌跡に、ハヤテの微かな心の動揺までも見抜いてか、イズミは小首を傾げてハヤテの顔を窺うように覗き見た。

「どう、ハヤテ? 久しぶりにホムラの顔でも見に行く?」

「遠慮しておく。奴は私を好かぬようだ」無意識に僅かに口調がきつくなる。

 それを気付かない素振りで通してくれるイズミの優しさが心地よい。

「嫌われているのなら、ボクの方が上手だよ。ホムラはボクが近付くと、凄く嫌そうな顔して逃げるんだ。知ってるでしょう?」イズミは立ち上がりしなハヤテの右腕を取った。「ね? 行こうよ」

 絡めた左腕に少し力を込めると、イズミは空いた右腕を波のようにはためかせた。刹那、湖の水面が揺れ、次の瞬間、無数の水滴が珠となって浮かび上がったかと思うと、それは引き寄せられるようにイズミの背に集まり、見る間に連なって一対の翼を成した。

「ほら、行くよ」

 両手で右腕を引かれ、躰がフワリと浮かび上がる。

 ハヤテは一つ大きな溜息を吐いた。が、その口許には微かに笑みが浮かんでいた。

 久しぶりに、あの二人に逢うのも悪くない。

 無言のまま、空いた左手の指先を軽く動かす。瞬時に、その背で風が渦を巻いた。イズミの翼になりきれなかった水滴が巻き込まれ、キラキラと宝石の輝きを放たねば、そこに創られた無形の翼に気付くことはないだろう。

「ホムラにぼやかれても知らんぞ」

「大丈夫だよ」無邪気な声音。けれど、そこには疑いの欠片すらない。あるのは、むしろ確信。「ボクはね、ホムラのことキライじゃないよ。すぐにカッとして、周り全部焼いちゃったりするけどね。もちろんハガネのことだって好きだ。二人とも頑固なだけ。優しい分だけ、許せなかったんだと思うし。だから、戻ってきて欲しいんだ。ホムラが戻れば、ハガネはきっと一緒に来てくれるよ。彼、面倒見がいいから、いつだって少数側に付くんだ。今度だって、怒ってたのはホムラだもの」

 再び、今度は小さく息を吐くハヤテ。

 そこに肯定の意を確認したのだろう、イズミはニッコリ微笑むと、大きく一振り、翼に風を孕ませた。その流れに誘われ、ハヤテの躰もフワリと舞い上がる。と同時に、二人の姿は掻き消すように宙へと吸い込まれた。

 その直前、ハヤテの視線が微かに動いた。……けれど、それに気付くものなど、そこには誰もいなかった。

 一陣の微風が生まれ、湖面を微かに波立たせた後、滑るように森を下っていった。


     ※


 森の裾野、眼前に広がるのは長閑な田園風景。

 車二台がやっと擦れ違えるだけの幅しかない道路脇に、待合所もなく、丸い看板だけがポツンと立つ小さなバス停。その隣りに少女が独り佇んでいた。

 一日に朝夕の二往復しか運行しないバス。懐かしい村のあった場所を、もう少し眺めていたかったけれど、このバスを逃すわけにはいかない。追い立てられるように、朝降り立ったこの場所に戻ってきた。なのに、もう二十分は待ちぼうけ。腕時計を見遣る。掲示板に手書きで記されている発射時刻を、既に十分は過ぎていた。けれど、バスはまだ来ない。長閑な田舎らしい。

 ホウッと一つ溜息を吐く。また、あの慌ただしい日常に戻るのかと思うと気が滅入る。いっそのこと逃げてしまいたい。けれど……。

 少女の思考に割って入った車の低いエンジン音。

 バスが来た。現実に戻らなければならない。

 頬に掛かった長い髪を耳に掛け、顔を上げる。

 その時……。

 駆け抜けた一陣の風。

 彼女の白いスカートが舞い上がったかと思うと、それは直ぐに収まった。

 とても心地良い風だった。無意識に深く呼吸する。微かだが懐かしい香りを感じた。幼い頃に遊んでいた野山を満たしていた風と水の香りだ。

 ハッとして瞼を開ける。

 けれどそこに、今も彼女の想い出の中に息づいている長閑な森の風景はなかった。

 瞳に映ったのは到着したバスの横腹。ガタンと大きな音を立ててドアが開く。

 なぜか、母の言葉が思い出された。

『良い風と良い水に恵まれさえすれば、人間は幸福になれるのよ』

 口許に、忘れていた笑みが浮かぶ。

 真っ直ぐに顔を上げ、少女はバスに乗り込んだ。今日は何時もよりも少しだけ余計に元気を貰えた気がする。

 少女を乗せ、土煙を上げながらバスは走り去る。

 その後ろで、小さな風が一陣舞った。





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