晴れ着を裂いて追放された嫌われ令嬢、古布の台帳で冬服を取り戻し雪国の家の鍵を得ました
ざまあみろ、と思った。
次の瞬間には、薔薇色の絹が泣いた。
乳白の真珠が百八粒。金糸で縫われた薔薇が裾に十二輪。細い腰を飾る薄桃色のリボンが三本。王都じゅうの祝福を集めて仕立てたようなギゼラ様の晴れ着を、私は踵で踏み、両手で裾をつかみ、力いっぱい引いた。
びり、と。
たいへん景気のよい音だった。
羨ましかったのだ。
クヌート様の隣で笑うギゼラ様が。私には一度も向けられなかった顔で、彼が彼女の真珠を褒めるのが。だから裂いた。誰かに嵌められたのでも、足を滑らせたのでもない。
真珠が床を跳ねた。百八粒あったはずだが、転がる最中のものまでは数えられない。私にも限界はある。
「アガーテ。自分が何をしたかわかっているのか」
「はい。裾をおよそ一尺、故意に裂きました」
「布を傷つける者を、公務に置いておくことはできない」
クヌート様は私の名を呼んだ。あの夜、私に向けて名を使ったのは最初の一度だけだった。
婚約は解消。救援物資調達所の記録係も罷免。私は王都から北へ送られた。
裾一枚、婚約一件、王都での居場所。なくした物だけは、たいへん数えやすい。
雪国の辺境伯邸に着いた日、ゲオルク閣下は玄関先で私を見て、短く告げた。
「雪解けまでに、冬衣不足の理由を出せ」
「出せなければ?」
「さらに北へ行ってもらう」
北。
窓の外はすでに白一色だった。これより北となると、地図の余白かもしれない。
「衣裳庫を調べてもよろしいでしょうか」
「仕事なら」
仕事以外で衣裳庫へ入りたがる者がいるなら、ぜひ一度会ってみたい。きっと靴下と恋に落ちた人だ。
私は青灰の制服の襟を正した。追放者へ貸し与えるには上等、歓迎の服と呼ぶには袖が二寸短い。似合うかどうかは知らない。凍えない。それだけで、この土地では十分に美しかった。
* * *
衣裳庫の鍵は、アントンの腰にあった。
大ぶりの鉄鍵が七本。鍵輪から外された跡が一つ。彼は扉を開けたあとも入口に立ち、私が棚へ触れようとするたび腰をずらした。
「見るだけにしていただきたい。王都で布に何をなさったか、こちらにも話は届いておりますので」
「ええ。布のほうがわたくしを恐れているかもしれません」
「冗談ではない」
冗談ではなかったらしい。布から苦情が来た場合は、ひとまずアントンを窓口にしよう。
帳簿では、霜色の毛織外套が四十八着。現物は三十一着。
青灰の制服は六十四着。現物は五十八着。うち一着は私が着用中。
真鍮の留め具は百二十個。箱の中には八十六個。反対に、同じ番号を刻んだ貸与札が三枚ずつある。
靴下に至っては左右が揃っているだけで褒めたくなった。だが仕事なので褒めない。
「数が合いません」
「古い帳簿です。使用人どもが失くしたのでしょう」
アントンは入口の外にいたエーリカへ顔を向けた途端、声を一段太くした。
「だから受領票へ署名しろと言ったのだ。紛失代は給金から引く。規則だ」
「洗って戻した靴下まで失くしたことにされちゃ、足が何本あっても足りないよ」
エーリカは腕を組んだ。洗濯桶を抱え続けてきた腕は、アントンの規則より太い。
「靴下の恨みは怖いねえ」
「未返却は二十七点です」
「ほらね。もう恨みが数字になってる」
私は棚から落ちかけた霜色の袖を目で追った。肘に葡萄色の継ぎ。裏側には青糸が二針、斜めに走っている。
「これは誰が繕いましたか」
「あたしだよ。青糸二針は、洗濯場を通った印さ。字が読めない子でも見分けられる」
「そのあと、どなたへ返しました?」
エーリカが答え、後ろの洗濯女が日付を言い、使用人が受け取った場所を補った。私は一着につき一行だけ書いた。持ち主、洗浄日、傷、継ぎ糸、返却場所。
それから、帳面の右端に産地欄を作った。
「それ、ここで要るのかい?」
「毛織物は土地によって縮み方が違いますから」
嘘ではない。全部でもない。
古布商人のアルミンさんが訪れたのは、その日の夕方だった。彼は霜色の袖を指で揉み、値をつけるのと同じ顔で私を眺めた。
「北東の織りだね。丈夫だが、洗い方を間違えるとへそを曲げる。布も人も同じだ」
「わたくしは適切に洗えば縮まないつもりです」
「そりゃ残念。商人は少し癖がある品のほうを覚える」
アルミンさんは帳面の余白へ目を留めた。産地、荷車の焼印、納品札の色。辺境の衣裳庫だけを調べるには、たしかに少々細かい。
「細かすぎて商売人にはありがたい」
笑いながら、彼は薄い複写紙を帳面の下へ滑り込ませた。
私は止めなかった。
* * *
三日後、未返却は二十三点になった。
五日後、留め具が六個戻った。
七日後、アントンが同じ霜色の外套を、台所番と厩番と下働きの三人それぞれの紛失品として記録していたことがわかった。
「番号の付け間違いだ」
「三人とも同じ外套を着て、同じ日に失くし、同じ葡萄色の布で肘を繕ったと?」
「貸与品は似るものです」
「青糸の針穴まで?」
「屋敷の規則に従った結果だ!」
「数が合いません」
規則は便利だ。閉じた衣裳庫から服が消え、鍵を持たない使用人の給金だけが減る。ずいぶん足の速い規則である。
ゲオルク閣下が入ってきた。
アントンの肩が下がり、声が半分になった。
「閣下。皆が自発的に古着を買い取った件について、記録に少々乱れがありまして」
「返せ」
「しかし屋敷の支出が」
「給金を返せ」
実務語、二回。逃げ道、零。
アントンは金庫から給金袋を運ばせた。彼は机の上へ並べ、自分が不足を補ったような顔をしたが、袋の封蝋には屋敷の印が残っている。善意を装うなら、せめて封蝋くらい替えてほしい。衣類係としては詰めが甘いと申し上げざるを得ない。
エーリカが一袋ずつ名を呼んだ。
厩番の手へ一袋。台所番の手へ一袋。洗濯女の荒れた指へ三袋。
受け取った者は、その場で封を切って硬貨を数えた。遠慮はいらない。遠慮で暖炉の薪は買えない。
最後の袋が若い下働きの胸へ抱え込まれると、食堂から拍手が起きた。
「アガーテ、飯だよ」
エーリカが顎で空いた席を示した。昨日まで壁際にあった椅子が、長卓の輪の中へ半歩だけ寄っている。
半歩。
給金に換算不能。衣類点数にも換算不能。困る。
私は煮込みを二杯食べた。困ったときは食べるに限る。
そのあいだに、アルミンさんは複写した帳面を外套の内へしまった。
* * *
衣裳庫へ冬の色が戻ってきた。
藍の端布は膝に。葡萄色は肘に。蜂蜜色は子どもの外套の裾に使った。色が違っても、暖かさは喧嘩をしない。
「次の冬の仕入れも任せる」
ゲオルク閣下は帳面を一頁見ただけで言った。
「雪解け前ですが」
「冬支度は冬が終わる前に始める」
「閣下は人使いが荒いと記録しておきます」
「産地欄の隣に?」
見ていたらしい。
私は帳面を閉じた。閣下はそれ以上聞かなかった。ありがたい。聞かれれば答えなければならず、答えると仕事が減るかもしれない。
その日の午後、王都から封書が届いた。
救援物資調達官クヌート様の執務印。内容は三つ。
私の衣類記録を押収すること。
救援布不足は、過去に晴れ着を損壊した私の私怨による再損傷として扱うこと。
検査終了まで追加の救援布を停止すること。
冬は待ってくれないのに、王都の書類は待たせるのが好きだ。
夜半、衣裳庫の裏で火が上がった。
アントンが傷のある外套を焼いていた。葡萄色の継ぎ、取れかけた真鍮留め、青糸の二針。私たちが照合したものばかりだった。
「古着の処分です! 病を防ぐための規則で!」
駆けつけた使用人たちへは怒鳴ったくせに、ゲオルク閣下を見ると両手を下げた。
「王都からの指示もあり、現場として判断を……」
火の粉が雪へ落ちた。赤、黒、白。三色だけなら綺麗だ。中身が証拠品でなければ。
私の前歴を知らなかった使用人が、衣裳庫の小鍵を机へ置いた。一人。二人。四人。
責める気にはなれない。私は一着を裂いた。今度もやったのでは、と考えるには十分な実績である。負の信用だけは満額積み立ててきた。
「公開検査を願います」
私はゲオルク閣下へ言った。
「帳面を渡すのか」
「先に、わたくし自身を記録へ載せます」
* * *
公開検査の日、広間には白い光が満ちていた。
イレーネ監査官の前に、私の帳面。燃え残った霜色の袖。アントンの受領票。クヌート様の執務印。
クヌート様は中央の椅子へ座っていた。ギゼラ様は隣で、真珠色の外套の襟を指先まで閉じている。
あの日の晴れ着とは違う。けれど、裾に金糸。裏地に薄桃。襟の内側から青い糸端が一本だけ覗いていた。
「始めます」
イレーネが言った。
私は立った。
「王都の祝宴で、わたくしはギゼラ様の薔薇色の晴れ着を故意に裂きました」
クヌート様の口元が上がった。
「嫉妬からです。事故ではありません。記録係としても、婚約者としても、信用を失う行為でした。名誉回復は求めません。王都へ戻る権利も放棄します」
広間の端で、小鍵を返した者たちが俯いた。
「以上が、わたくしの罪です」
イレーネは帳面を閉じなかった。
「確認しました。あなたの罪の審理と、この横流しの審理は別です」
「別ではないでしょう」
クヌート様が笑った。
「布を傷つける者が作った記録です。私怨の産物に証拠能力などない。女の帳面遊びに、公務を乱されては困る」
イレーネが彼を見ると、クヌート様はすぐ椅子を引いた。
「無論、監査官の発言順を尊重いたします。私は現場の判断を尊重しただけですから」
「現場の責任者は?」
「個々の輸送担当者までは把握しておりません」
エーリカが受領票を掲げた。受領量の数字には上書きの跡がある。
「不足分を消して署名しろ、とクヌート様に命じられたよ」
クヌート様は彼女を見ず、イレーネへだけ椅子を引いた。声の仕立ても、相手によってずいぶん違う。
ゲオルク閣下が一度だけ帳面へ目を落とした。
「その女の帳面に、あなたの職が負けたようだ」
クヌート様の笑みが薄くなった。
俗な一撃は、上等な刃物ほどよく切れる。
エーリカが燃え残った袖を掲げた。
「これは洗濯場を三度通った。青糸二針はあたしの印だ。最後に返した先は第二倉庫。なくなったって書かれた日は、その翌日さ」
アルミンさんが納品書を置いた。
「辺境へ四十八着。第二倉庫へ十七着移したという控えがある。だが売却先の欄は空だ。布の値ならごまかせても、織り癖はごまかせないね」
兵が第二倉庫から運び込んだ箱を開けた。
霜色の外套。青灰の制服。片方だけの靴下。外された真鍮留め具。
アントンが後ずさった。
「王都の指示だった! 私は屋敷を守るために調整をしただけで、クヌート様の名など——」
言えない名ほど、よく響くものだ。
「鍵を」
ゲオルク閣下が手を出した。
アントンは腰の鍵輪を押さえた。
「閣下、これは代々、衣裳庫番が」
「お前はもう違う」
鉄鍵が一本ずつ外された。七本。最後に、空いた輪だけがアントンの腰へ残った。
エーリカが私の背後へ移った。
洗濯女が続いた。厩番、台所番、下働き。小鍵を返した四人も、床を見たままこちらへ来た。
十二人。二十人。三十一人。
私は数えるのをやめた。
アントンは兵に両腕を取られた。それでも使用人へ向かって、「自分も命令された被害者だ」と訴え続けた。返事をする者はいなかった。
「辺境分はこれで解決ですな」
クヌート様が立った。
「現場の不正は残念ですが、王都との関係はない。ギゼラ、帰ろう」
ギゼラ様が真珠色の外套をかき合わせた。
アルミンさんは扉の前へ進み、各地から集まった布商人へ帽子を取った。
* * *
一人目の商人が、子ども用の藍色の外套を掲げた。
「西の集積所で受け取りました。救援用の織印を削られていましたが、青糸二針と荷車印が複写に合う」
「同じです」
北の洗濯女が蜂蜜色の胴着を掲げた。
「うちで三度洗った。複写では納品先は辺境、売却先はギゼラ様の工房だ」
「同じです」
三人目は葡萄色の袖を掲げた。
「返品を求めたところ、次の注文から外されました。クヌート様の執務印つきです」
「仕入れには関与しておりません」
ギゼラ様は小声で答えた。外套の前をさらに閉じる。閉じれば閉じるほど、襟から青糸が引き出された。
女商人が納品書を開いた。
「こちらが、あなた様の後日署名です。産地印を切り落とした礼装、十二着分」
「余剰布だと説明を受けただけですわ」
「辺境へ黙って運べ、とおっしゃいましたね」
帽子がまた一つ取られた。
広間の左右から、外套、胴着、制服が一着ずつ上がった。全件を読み上げる必要はなかった。傷が違う。色が違う。持ち主が違う。それでも青糸の二針と薄い複写紙が、同じ道を指している。
「同じです」
「同じです」
「同じです」
声が重なるたび、クヌート様のそばから役人が一人ずつ離れた。書記官。輸送官。契約商人。
最初は広間の中央にいたはずの彼が、いつの間にか椅子一脚ぶんの島に取り残されている。
「各地の現場が独自に判断したのです。私は受領総量をまとめただけで、個々の納品先までは——」
アルミンさんが各地の薄い複写を帳面の隣へ重ね、私は照合済みの最後の欄を開いた。
救援布三百着。荷車十一台。納品先七か所。受領印は十四名分。
広間にいる担当役人は十三名だった。
「数が合いません」
クヌート様の唇が止まった。
十四人目の署名は、彼自身のものだった。
数字が合った。
よし。
私の晴れ着一着を盾に、三百着を雪の外へ捨てられると思った、その計算だけが間違いだ。たいへん惜しい。満点まであと三百着。
イレーネが立った。
「クヌート。救援物資調達官の職を解きます。執務印を」
「待ってください。これは一時的な記録上の——」
「執務印を」
護衛が彼の首から職章を外した。書記官が執務印を受け取り、赤い封箱へ収める。蓋が閉まった。
「王都からの退去命令は本日発効。救援財産の損害額は私有財産から差し押さえます」
クヌート様はイレーネに向けて椅子を引きかけ、もう発言順が残っていないと悟ったのか、その手を宙に置いた。
「ギゼラ。工房の救援布取扱契約を剥奪します」
「わたくしは被害者です。婚約者の言葉を信じただけで」
「後日署名が十二件あります」
契約商人がギゼラ様の胸元から工房章を外した。真珠色の外套が開く。
裏地には、削りきれなかった救援用の青い産地印。襟から裾まで、隠すには少々大きすぎた。
ギゼラ様は両手で布地を押さえたまま、護衛に促されて退場した。クヌート様も別の扉へ連れていかれた。二人は最後まで互いを見なかった。
アントンの未払い給金と賠償額が読み上げられた。第二倉庫の売却金、差し押さえられた私財、王都からの公的救援金。それぞれ別の袋へ分けられ、使用人の名札がつけられる。
私の給金袋は、その列に入らなかった。
寝室の貸与札も、取り上げられなかった。
ゲオルク閣下がそう命じたのではない。イレーネが帳面を指で叩き、「被害補償と雇用報酬は別です」と確認したからだ。
別々に数える。
それでいい。
最後の硬貨が最後の袋へ入り、取り戻した冬衣が持ち主の腕へ渡った。
「これで未払いは零です」
声を止めた。
* * *
帰邸すると、食堂の椅子が一脚、長卓の中央へ置かれていた。
壁際へ戻せない距離だった。
「座りな」
エーリカが私の青灰の制服を引っ張った。右袖の短かった部分に、銀糸で細い継ぎが入っている。
「勝手に繕いましたね」
「正式な仕事着を、正式に直したんだよ」
「銀糸は高価です」
「靴下の恨み代さ」
煮込み、黒パン、焼いた根菜。皿が三枚。匙が一本。給金袋が一つ。二階の寝室札が一枚。
それから、衣裳庫の鍵札。
藍、葡萄色、蜂蜜色、霜色。端布を結んだ木札の裏へ、使用人全員の名が記されていた。字を書けない者は指印を押し、その横にエーリカが名を添えている。
ゲオルク閣下は鍵を持っていなかった。
「これは彼女たちが決めることだ」
そう言って、長卓の端に立ったままこちらを見た。
エーリカが鍵札を私の手へ載せる。
重い。
鉄の重さではない。名前の数を数えればいいのに、数えたところで正しい単位がわからない。
「食事と給金はこれまでどおり。寝室も空けてあるよ」
「衣裳庫は明日から、あんたが開けるんだ」
「来年の冬支度も頼みたい」
ゲオルク閣下はそれだけ告げた。
来年。
雪解けの先に、まだ仕事があるらしい。
私は鍵札を握り、青灰の袖に入った銀糸を一針、二針、三針と数えた。途中から針目が細かすぎて追えなくなった。
「鍵は一つで十分です。……皆さま、なぜ合鍵を十二本もお持ちなのですか」
「また触らせてもらえなくなると困るだろ」
エーリカが言うと、食堂じゅうが笑った。
十二本。
食事、一人前。給金、一袋。寝室、一室。仕事、来年分。
そして鍵、十二本。
どうにも数が多すぎる。
私は煮込みをもう一杯よそった。




