転生悪道
私が前世の記憶を取り戻し、この理不尽な世界で「絶対悪」になると誓ってから五年が経過した。
ここは私が、生前遊んでいたゲームと相似的な世界だ。
概ねゲームのシナリオ通りに進み、それを阻害しようと行動しても、歴史の強制力のような力が働きもとのシナリオへと戻そうとする。
この世界における私の役割は、チュートリアル的に処理される悪徳貴族。
勇者の幼馴染にちょっかいをかけ恨みを買い、なおかつ横柄な態度と徹底した民への搾取で嫌われた悪役令息。
この役割から脱するため、私は今の今まで対策を講じてきた。
現在、私は十五歳。かつて私を死に至らしめるはずだった「チュートリアルボスの悪役令息」は、今やアストリア公爵家の実権を完全に掌握し、執務室の革張りの椅子で優雅に紅茶を傾けていた。
そして今日は、本来のシナリオであれば勇者に首を切られ生涯を終える日。
「ルシアン様。ご報告申し上げます」
音もなく執務室に現れたのは、執事長のギルバートだ。五年前、私が汚職の証拠を盾に隷属させた彼は、今や一切の無駄な感情を捨て去り、私の手足として機能する完璧な歯車となっていた。
「タリム村より出発した『勇者』アレン一行が、先ほど王都の正門を通過いたしました。まっすぐに当家へ向かっております」
「そうか。随分と早い到着だったな」
私はティーカップを置き、薄く笑った。
この五年間、私は勇者アレンに一切の干渉を行わなかった。刺客を送ることも、ヒロインを奪うこともしていない。システムの強制力によって彼が辺境で聖剣を引き抜き、正義感に燃えて「悪名高きアストリア公爵家を討つ」ために立ち上がるのを、ただ静かに待っていたのだ。
「結局、アレンは私を悪徳貴族と勘違いしたままなのだな」
「種々の対策を講じましたが、どれもルシアン様の印象を悪くする方向へと転じてしまいました」
「王都の民の様子はどうだ?」
「はっ。勇者一行は道中、民衆に『悪徳貴族アストリアを討ちに来た』と宣言したようですが……誰一人として、彼らに賛同する者はおりませんでした。むしろ、怪訝な顔で彼らを遠ざけていたとのことです」
「……そちらは成功したようだな」
私は立ち上がり、窓から王都の街並みを見下ろした。
活気に満ちた大通り。清潔なレンガ造りの屋台。行き交う馬車と、笑い合う平民たち。
五年前、私はこの王都の「歓楽街」「物流」「魔石エネルギー」の三大インフラを、法律の抜け穴と暴力的な資金力を用いてすべて買い占めた。今、この王都で動くすべての金と物資は、私のダミー商会を通らなければ流通しない仕組みになっている。
私は彼らから限界まで搾取している。だが同時に、その莫大な利益のほんの一部を「治安維持」や「雇用の創出」として再分配してやった。
結果として、王都の犯罪率は過去最低となり、孤児院には十分な資金が行き渡り、失業者は姿を消した。
民衆にとって、私は彼らの生殺与奪の権を握る「最悪の搾取者」であると同時に、今日のパンと平和な眠りを保証してくれる「絶対的な庇護者」なのだ。
田舎から出てきた見ず知らずの子供が「あいつは悪い貴族だから殺す」と叫んだところで、誰が賛同するというのか。
『――そこまでだ、悪逆非道のクズ貴族!!』
突如、執務室の重厚な扉が吹き飛ばされ、一人の少年が飛び込んできた。
燃えるような赤髪と、意思の強い瞳。その手には、神々しい光を放つ伝説の「聖剣」が握られている。彼こそが、シナリオの主人公である勇者アレンだ。
護衛の騎士たちが武器を抜こうとするのを、私は片手で制止した。
「よく来たな、アレン。辺境からの長旅、ご苦労だった」
「気取った口を叩くな、ルシアン・ヴァン・アストリア! お前が裏で法外な税を搾り取り、国中の富を独占して私腹を肥やしていることは分かっている! 今日こそ、その悪行に終止符を打ってやる!」
聖剣の切先が、真っ直ぐに私の喉元に向けられる。
シナリオ通りだ。私が十五歳の年、勇者の怒りの刃が私を両断する。世界の強制力は、見事に彼をこの部屋まで導いた。
だが、盤上はすでに私のものだ。
「悪行、か」
私は全く動じることなく、デスクの引き出しから分厚い書類の束を取り出し、彼の実直な顔に向けて投げつけた。
バサリと音を立てて散らばったのは、王都の経済を循環させている流通網の契約書と、各ギルドとの雇用協定書だ。
「な、なんだこれは……」
「私を殺すのは構わない。だが、その前に一つだけ教えておいてやろう。勇者よ」
私はゆっくりと彼に歩み寄り、冷え切った青い瞳でその正義感を射抜いた。
「現在、この王都の食料流通の八割、魔石エネルギー供給の九割は、私の個人資産によって運用されている。孤児院への寄付金も、街の自警団の給与も、すべて私の口座から支払われているのだ」
「それが、どうした……! お前が死ねば、その金は民のものになるはずだ!」
「浅はかだな」
前世で、現場を知らない政治家の理想論を聞いた時と同じ、深い溜め息が出た。
「私が死ねば、契約はすべて白紙だ。物流網は翌日には完全に停止する。ダミー商会に蓄えられた資金は法の壁に守られ、誰にも引き出せなくなる。王都の物価は数時間で十倍に跳ね上がり、暴動が起き、三日後には数万人の民が飢えと凍えで死に絶えるだろう」
「なっ……!?」
「お前が今、その聖剣で私の首を落とした瞬間、この国のインフラは完全に崩壊する。お前が守りたかった『罪なき人々』は、明日から泥水をすすって餓死することになるのだ」
アレンの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
剣を握る手が小刻みに震え、切先が定まらなくなっていた。
「さあ、どうした勇者よ。私の首はここにあるぞ。正義の剣とやらを振り下ろすがいい」
私は両手を広げ、彼に向かって無防備に身を晒した。
「私を斬って、数万人の民を殺す大罪人になるか。それとも剣を収め、私が構築した『搾取という名の平和』を享受するか。選べ」
世界が彼に与えたのは「悪を斬る力」だけだ。「複雑に絡み合った社会システムを管理する知恵」ではない。
物理的な暴力など、インフラという巨大な質量の前では何の役にも立たないのだ。
「あ……ああ……ッ!」
カラン、と。
甲高い音を立てて、伝説の聖剣が大理石の床に転がった。
アレンはその場に膝をつき、両手で顔を覆って絶望の嗚咽を漏らした。世界の強制力が用意した「チュートリアルイベント」が、絶対的なロジックの前に完全崩壊した瞬間だった。
「ギルバート」
「はっ」
「彼らは疲れているようだ。当家のゲストルームへご案内しろ」
「仰せのままに」
膝をつく勇者を冷たく見下ろしながら、私は再び紅茶のカップを手に取った。
善意ではなく、恐怖と依存による完全な管理社会。
霞が関の亡霊が異世界で構築したシステムは、今日、すべての不確定要素を飲み込んだ。
これからだ。
私の人生はここから始まる。




