姉の苗字が変わる前に
派手な事件も、大きなどんでん返しもありません。
ただ、
「家族だった誰かが、家族のままではいられなくなる瞬間」
を書きたくて描いた短編です。
少しでも、冬の空気みたいな読後感を残せれば嬉しいです。
姉ちゃんが帰ってくる。
その連絡を受けた日から、俺はずっと落ち着かなかった。
高校受験を控えた冬休みだというのに、勉強なんてほとんど頭に入らない。
姉ちゃんは大学進学で家を出てから、年に数回しか帰ってこなくなった。
だから、帰省の日は特別だった。
家の空気が変わる。
父さんも母さんも少し嬉しそうになるし、冷蔵庫の中身も増える。
俺はもっとわかりやすかった。
駅まで迎えに行こうとして、
「寒いからいい」
と母さんに止められた。
それでもそわそわして、何度も時計を見た。
夕方、玄関が開く。
「ただいまー」
その声だけで、胸が熱くなる。
久しぶりに会った姉ちゃんは、少し大人っぽくなっていた。
長い髪を後ろでまとめて、コートの襟元には白いマフラー。
でも笑い方は昔と同じだった。
「わ、背が伸びたね」
姉ちゃんはそう言って笑い、俺の頭を撫でた。
それだけで嬉しくて、情けないくらい顔が熱くなった。
「受験生なんだから、ちゃんと勉強してる?」
「してる」
「ほんとかなぁ」
からかうみたいに覗き込まれて、俺は視線を逸らした。
姉ちゃんは昔から、俺を子供扱いする。
でも嫌じゃなかった。
むしろ、その時間がずっと続けばいいと思っていた。
夕飯までは。
◇
「大学を卒業したら、結婚したいと思ってるの」
姉ちゃんがそう言った瞬間、食卓の空気が止まった。
箸を持ったまま、父さんが固まる。
母さんも目を丸くした。
「……は?」
最初に声を出したのは父さんだった。
姉ちゃんは静かに続ける。
「年明けに挨拶に連れてくるね」
「ちょっと待て」
父さんの声が低くなる。
「相手はいくつだ」
「四十」
沈黙。
次の瞬間、父さんが怒鳴った。
「ふざけるな!」
テーブルが揺れた。
母さんも顔色を変える。
「十八も上!? 何考えてるの!」
「ちゃんと考えてるよ」
「考えてるようには見えん!」
姉ちゃんは俯かなかった。
泣きもしなかった。
ただ真っすぐ父さんを見ていた。
「子供も早く欲しいの。向こうの年齢もあるし、卒業したら専業主婦になるつもり。落ち着いたら在宅で仕事始めて、手が離れたらまた働く」
「そんな話をしてるんじゃない!」
怒鳴り声が響く。
俺は、その後の会話をあまり覚えていない。
ただ、
「認めない」
と繰り返す父さんと母さんの声だけが、頭の中に残った。
◇
夜中。
すすり泣く声で目が覚めた。
隣の部屋からだった。
姉ちゃんだ。
俺はしばらく布団の中で迷ってから、静かに部屋を出た。
襖の前に立つ。
「……姉ちゃん」
泣き声が止まる。
「なに」
「入っていい?」
少し間が空いてから、
「うん」
と返ってきた。
部屋の中は暗かった。
机のライトだけが点いていて、その光に姉ちゃんの横顔が浮かんでいた。
目元が赤い。
でも、俺を見ると笑おうとした。
「ごめんね。起こした?」
「別に」
俺は立ったまま黙る。
何を言えばいいかわからない。
結婚するな、なんて言えない。
でも、おめでとうも言えなかった。
姉ちゃんは膝を抱えて、小さく息を吐いた。
「お父さん達、ショックだったんだろうなぁ」
「……そりゃそうだろ」
「うん。わたしも普通なら反対すると思う」
少し笑う。
「十八差だもんね」
その笑い方を見て、胸が痛くなった。
「でもね」
姉ちゃんはぽつりと言った。
「わたし、あの人といると安心するんだ」
その瞬間。
俺は、すぐにわかってしまった。
ああ。
あの人か。
母さんの弟――叔父さんの親友。
昔、近所に住んでいた人。
子供の頃、叔父さんと一緒によく遊んでくれた大人。
でも、俺にとってはそれだけだった。
血も繋がっていない。
親戚ですらない。
姉ちゃんにはよく会っていても、俺にはたまに顔を合わせる程度の他人。
それなのに。
姉ちゃんだけは、昔からあの人を見る時、特別な顔をしていた。
柔らかくて、安心したみたいな笑顔。
俺に向ける笑顔とも違う。
子供ながらに、それが嫌だった。
叔父さんが転勤してからは、なおさらだった。
姉ちゃんは、時々あの人と二人で出かけていた。
買い物帰りのスーパーで見かけたことがある。
ファミレスから出てくるのを見たこともある。
姉ちゃんは楽しそうに笑っていた。
俺には見せない顔だった。
そのたびに、胸の奥がざらざらした。
なのに、俺は何も言えなかった。
「……あの人?」
思わず口から出た。
姉ちゃんが目を見開く。
それだけで答えだった。
「あー……そっか」
姉ちゃんは困ったように笑った。
「わかっちゃうか」
胸の奥が痛かった。
嫌だった。
姉ちゃんを取られるのが嫌だった。
でも同時に、
あの人なら仕方ない、
とも思ってしまった。
だって俺は知っている。
姉ちゃんが、どれだけあの人を好きだったか。
「中学の時、一回告白したんだ」
姉ちゃんが笑う。
「振られたけど」
俺は何も言えなかった。
「高校でも振られた」
「……え」
「大学入ってからも、逃げられたなぁ。転勤までしちゃったし」
そう言って、姉ちゃんは少し寂しそうに笑った。
「でも追いかけた」
静かな声だった。
「わたしね、あの人がいなかったら、多分ちゃんと笑えてなかったと思う」
俺は黙っていた。
「お母さんが死んだあと、何もわかんなくなっちゃってさ」
姉ちゃんはぽつりぽつりと話した。
「お父さん再婚して、母さん来て、しばらくして、あんた生まれて」
そこで少しだけ笑う。
「赤ちゃんのあんた、すっごい可愛かったんだけどね。でも当時のわたし、子供だったから」
その先を言わなくてもわかった。
愛情を取られた気がしたんだ。
「でも、叔父さんとあの人が、ずっと遊んでくれてた」
姉ちゃんの声が柔らかくなる。
「だから、ちゃんとお姉ちゃんになれたんだと思う」
胸が詰まった。
ああ、そうなんだ。
俺が姉ちゃんに愛されていた理由。
毎日抱きしめられて、
可愛いって言われて、
誰より甘やかされて育った理由。
あれは全部。
あの二人が、
姉ちゃんを支えていたからなんだ。
俺は。
そのおこぼれで、
愛されていたんだ。
そう気づいてしまった。
「……わたしね」
姉ちゃんは小さく笑った。
「できれば、お父さん達にも祝福してほしかった」
涙声だった。
「でも、反対されても結婚するよ」
俺は顔を上げる。
「成人してるし、自分で決めたから」
静かな声だった。
「もし、どうしても認めてもらえないなら……もう帰ってこない」
その瞬間、頭が真っ白になった。
嫌だ、と思った。
結婚なんかしてほしくない。
他の男のものになってほしくない。
でも。
二度と会えなくなるのは、もっと嫌だった。
◇
翌朝。
居間には重い空気が残っていた。
父さんは新聞を読んでいたが、一文字も頭に入っていない顔だった。
母さんも黙っている。
姉ちゃんは、朝食を作っていた。
何事もなかったみたいに。
でも目は少し腫れていた。
俺は、しばらく黙ってから口を開いた。
「俺、姉ちゃんの結婚、賛成」
三人が同時にこっちを見た。
心臓が痛かった。
「姉ちゃん、本気だから」
喉が詰まる。
「反対して、帰ってこなくなる方が嫌だ」
父さんが眉を寄せる。
母さんも苦しそうな顔をした。
長い沈黙のあと。
父さんが深く息を吐いた。
「……一回、会うだけだ」
母さんも俯いたまま頷く。
「……そうね」
姉ちゃんが、息を呑んだ。
次の瞬間。
「ありがと……!」
抱きつかれた。
柔らかい匂いがした。
昔から知ってる姉ちゃんの匂い。
嬉しかった。
でも苦しかった。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。
抱きしめ返したかった。
泣きたかった。
でも、どんな顔をすればいいかわからなかった。
姉ちゃんは嬉しそうに笑っている。
俺だけが、置いていかれていた。
その冬。
姉の初恋が実った。
そして。
俺の初恋は、静かに終わった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
恋愛小説のようで、
家族小説のようで、
初恋の終わりの話でもある作品でした。
誰かを嫌いになって終わるのではなく、
「相手の幸せを理解できてしまうからこそ苦しい」
という感情を書いてみたくて挑戦しています。
少しでも何かが残れば嬉しいです。




