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姉の苗字が変わる前に

作者: リフェリア
掲載日:2026/05/15

 派手な事件も、大きなどんでん返しもありません。


 ただ、

「家族だった誰かが、家族のままではいられなくなる瞬間」

を書きたくて描いた短編です。


 少しでも、冬の空気みたいな読後感を残せれば嬉しいです。

 姉ちゃんが帰ってくる。

 その連絡を受けた日から、俺はずっと落ち着かなかった。

 高校受験を控えた冬休みだというのに、勉強なんてほとんど頭に入らない。

 姉ちゃんは大学進学で家を出てから、年に数回しか帰ってこなくなった。

 だから、帰省の日は特別だった。

 家の空気が変わる。

 父さんも母さんも少し嬉しそうになるし、冷蔵庫の中身も増える。

 俺はもっとわかりやすかった。

 駅まで迎えに行こうとして、

「寒いからいい」

と母さんに止められた。

 それでもそわそわして、何度も時計を見た。

 夕方、玄関が開く。

「ただいまー」

 その声だけで、胸が熱くなる。

 久しぶりに会った姉ちゃんは、少し大人っぽくなっていた。

 長い髪を後ろでまとめて、コートの襟元には白いマフラー。

 でも笑い方は昔と同じだった。

「わ、背が伸びたね」

 姉ちゃんはそう言って笑い、俺の頭を撫でた。

 それだけで嬉しくて、情けないくらい顔が熱くなった。

「受験生なんだから、ちゃんと勉強してる?」

「してる」

「ほんとかなぁ」

 からかうみたいに覗き込まれて、俺は視線を逸らした。

 姉ちゃんは昔から、俺を子供扱いする。

 でも嫌じゃなかった。

 むしろ、その時間がずっと続けばいいと思っていた。

 夕飯までは。

    ◇

「大学を卒業したら、結婚したいと思ってるの」

 姉ちゃんがそう言った瞬間、食卓の空気が止まった。

 箸を持ったまま、父さんが固まる。

 母さんも目を丸くした。

「……は?」

 最初に声を出したのは父さんだった。

 姉ちゃんは静かに続ける。

「年明けに挨拶に連れてくるね」

「ちょっと待て」

 父さんの声が低くなる。

「相手はいくつだ」

「四十」

 沈黙。

 次の瞬間、父さんが怒鳴った。

「ふざけるな!」

 テーブルが揺れた。

 母さんも顔色を変える。

「十八も上!? 何考えてるの!」

「ちゃんと考えてるよ」

「考えてるようには見えん!」

 姉ちゃんは俯かなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ真っすぐ父さんを見ていた。

「子供も早く欲しいの。向こうの年齢もあるし、卒業したら専業主婦になるつもり。落ち着いたら在宅で仕事始めて、手が離れたらまた働く」

「そんな話をしてるんじゃない!」

 怒鳴り声が響く。

 俺は、その後の会話をあまり覚えていない。

 ただ、

「認めない」

と繰り返す父さんと母さんの声だけが、頭の中に残った。

    ◇

 夜中。

 すすり泣く声で目が覚めた。

 隣の部屋からだった。

 姉ちゃんだ。

 俺はしばらく布団の中で迷ってから、静かに部屋を出た。

 襖の前に立つ。

「……姉ちゃん」

 泣き声が止まる。

「なに」

「入っていい?」

 少し間が空いてから、

「うん」

と返ってきた。

 部屋の中は暗かった。

 机のライトだけが点いていて、その光に姉ちゃんの横顔が浮かんでいた。

 目元が赤い。

 でも、俺を見ると笑おうとした。

「ごめんね。起こした?」

「別に」

 俺は立ったまま黙る。

 何を言えばいいかわからない。

 結婚するな、なんて言えない。

 でも、おめでとうも言えなかった。

 姉ちゃんは膝を抱えて、小さく息を吐いた。

「お父さん達、ショックだったんだろうなぁ」

「……そりゃそうだろ」

「うん。わたしも普通なら反対すると思う」

 少し笑う。

「十八差だもんね」

 その笑い方を見て、胸が痛くなった。

「でもね」

 姉ちゃんはぽつりと言った。

「わたし、あの人といると安心するんだ」

 その瞬間。

 俺は、すぐにわかってしまった。

 ああ。

 あの人か。

 母さんの弟――叔父さんの親友。

 昔、近所に住んでいた人。

 子供の頃、叔父さんと一緒によく遊んでくれた大人。

 でも、俺にとってはそれだけだった。

 血も繋がっていない。

 親戚ですらない。

 姉ちゃんにはよく会っていても、俺にはたまに顔を合わせる程度の他人。

 それなのに。

 姉ちゃんだけは、昔からあの人を見る時、特別な顔をしていた。

 柔らかくて、安心したみたいな笑顔。

 俺に向ける笑顔とも違う。

 子供ながらに、それが嫌だった。

 叔父さんが転勤してからは、なおさらだった。

 姉ちゃんは、時々あの人と二人で出かけていた。

 買い物帰りのスーパーで見かけたことがある。

 ファミレスから出てくるのを見たこともある。

 姉ちゃんは楽しそうに笑っていた。

 俺には見せない顔だった。

 そのたびに、胸の奥がざらざらした。

 なのに、俺は何も言えなかった。

「……あの人?」

 思わず口から出た。

 姉ちゃんが目を見開く。

 それだけで答えだった。

「あー……そっか」

 姉ちゃんは困ったように笑った。

「わかっちゃうか」

 胸の奥が痛かった。

 嫌だった。

 姉ちゃんを取られるのが嫌だった。

 でも同時に、

 あの人なら仕方ない、

 とも思ってしまった。

 だって俺は知っている。

 姉ちゃんが、どれだけあの人を好きだったか。

「中学の時、一回告白したんだ」

 姉ちゃんが笑う。

「振られたけど」

 俺は何も言えなかった。

「高校でも振られた」

「……え」

「大学入ってからも、逃げられたなぁ。転勤までしちゃったし」

 そう言って、姉ちゃんは少し寂しそうに笑った。

「でも追いかけた」

 静かな声だった。

「わたしね、あの人がいなかったら、多分ちゃんと笑えてなかったと思う」

 俺は黙っていた。

「お母さんが死んだあと、何もわかんなくなっちゃってさ」

 姉ちゃんはぽつりぽつりと話した。

「お父さん再婚して、母さん来て、しばらくして、あんた生まれて」

 そこで少しだけ笑う。

「赤ちゃんのあんた、すっごい可愛かったんだけどね。でも当時のわたし、子供だったから」

 その先を言わなくてもわかった。

 愛情を取られた気がしたんだ。

「でも、叔父さんとあの人が、ずっと遊んでくれてた」

 姉ちゃんの声が柔らかくなる。

「だから、ちゃんとお姉ちゃんになれたんだと思う」

 胸が詰まった。

 ああ、そうなんだ。

 俺が姉ちゃんに愛されていた理由。

 毎日抱きしめられて、

 可愛いって言われて、

 誰より甘やかされて育った理由。

 あれは全部。

 あの二人が、

 姉ちゃんを支えていたからなんだ。

 俺は。

 そのおこぼれで、

 愛されていたんだ。

 そう気づいてしまった。

「……わたしね」

 姉ちゃんは小さく笑った。

「できれば、お父さん達にも祝福してほしかった」

 涙声だった。

「でも、反対されても結婚するよ」

 俺は顔を上げる。

「成人してるし、自分で決めたから」

 静かな声だった。

「もし、どうしても認めてもらえないなら……もう帰ってこない」

 その瞬間、頭が真っ白になった。

 嫌だ、と思った。

 結婚なんかしてほしくない。

 他の男のものになってほしくない。

 でも。

 二度と会えなくなるのは、もっと嫌だった。

    ◇

 翌朝。

 居間には重い空気が残っていた。

 父さんは新聞を読んでいたが、一文字も頭に入っていない顔だった。

 母さんも黙っている。

 姉ちゃんは、朝食を作っていた。

 何事もなかったみたいに。

 でも目は少し腫れていた。

 俺は、しばらく黙ってから口を開いた。

「俺、姉ちゃんの結婚、賛成」

 三人が同時にこっちを見た。

 心臓が痛かった。

「姉ちゃん、本気だから」

 喉が詰まる。

「反対して、帰ってこなくなる方が嫌だ」

 父さんが眉を寄せる。

 母さんも苦しそうな顔をした。

 長い沈黙のあと。

 父さんが深く息を吐いた。

「……一回、会うだけだ」

 母さんも俯いたまま頷く。

「……そうね」

 姉ちゃんが、息を呑んだ。

 次の瞬間。

「ありがと……!」

 抱きつかれた。

 柔らかい匂いがした。

 昔から知ってる姉ちゃんの匂い。

 嬉しかった。

 でも苦しかった。

 胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。

 抱きしめ返したかった。

 泣きたかった。

 でも、どんな顔をすればいいかわからなかった。

 姉ちゃんは嬉しそうに笑っている。

 俺だけが、置いていかれていた。

 その冬。

 姉の初恋が実った。

 そして。

 俺の初恋は、静かに終わった。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 恋愛小説のようで、

 家族小説のようで、

 初恋の終わりの話でもある作品でした。


 誰かを嫌いになって終わるのではなく、

 「相手の幸せを理解できてしまうからこそ苦しい」

という感情を書いてみたくて挑戦しています。


 少しでも何かが残れば嬉しいです。

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