第4話 完全なる破滅と極上の溺愛
王都の空を覆っていた大結界が消失してから、わずか数日が経過しただけだった。
しかし、その数日という時間は、数百年の繁栄を誇った王国を根底から崩壊させるのに十分すぎた。
魔法インフラの完全な停止。
それは、夜の闇を照らす光を奪い、人々の喉を潤す清らかな水を泥水へと変え、何よりも、王都を外敵から守る絶対的な防壁をただの巨大な石の塊へと変貌させた。
国境付近から押し寄せた低ランクの魔物たちは、防壁の魔力供給が途絶えた門を容易に突破した。
幸いなことに、ドラグノール帝国の精鋭部隊が迅速に進軍し、王都の住民たちに被害が及ぶ前に魔物を討伐した。
しかし、それは王国軍の力ではない。
違約金の支払い能力を失い、即座に国家破産を宣言せざるを得なかった王国は、もはや一つの独立国家としての体をなしていなかった。
帝国の軍門に降り、無条件降伏を受け入れるしか道は残されていなかったのだ。
王城の地下にある、冷たく湿った牢獄。
かつて反逆者や重罪人を収容するために使われていたその場所に、今、三人の罪人が繋がれていた。
「出せ……! 私をここから出せぇぇぇっ!!」
鉄格子を血まみれの手で掴み、獣のような咆哮を上げているのは、元第一王子のカールだった。
数日前まで彼が身に纏っていた純白の軍服は、泥と血と汚物にまみれ、見る影もない。
美しかった金髪は脂で汚れ、落ち窪んだ眼窩の奥で、碧色の瞳だけが狂気的な光を放っていた。
「私はこの国の王だぞ! 偉大なる王太子カール・フォン・バルバトスだ! 貴様ら、私が誰だか分かっているのか!」
彼の叫びに答える者は誰もいない。
見張りの帝国兵たちは、まるで汚物でも見るような冷ややかな視線を向けるだけで、一言も発しようとはしなかった。
カールの足元には、ぼろ布のようなドレスを纏った女がうずくまっていた。
リリア・ノックス。
かつて可憐な容姿を武器に、他人のすべてを奪い取ってきた底意地の悪い令嬢。
しかし、今の彼女の姿に、かつての面影は微塵も残っていなかった。
彼女が身につけていた『他人の魔力を吸い取る魔導具』のペンダント。
それは、セレナから微量な魔力を奪い、自分を美しく見せるための呪いの品だった。
結界の消失と同時に暴走したその魔導具は、反動としてリリア自身の生命力と若さを根こそぎ奪い取ったのだ。
「あ、ああ……私の、私の美しい顔が……」
ひび割れた老婆のような声で、リリアは床に落ちた水たまりに映る自分の顔を掻き毟っていた。
肌は枯れ木のようにシワだらけになり、輝いていた栗色の髪は白髪となって抜け落ちている。
二十歳にも満たないはずの彼女は、今や八十を過ぎた老婆のような醜悪な姿に成り果てていた。
「お姉様……お姉様、助けて……魔力を、私に魔力をちょうだい……」
焦点の合わない目で虚空を彷徨いながら、リリアはうわ言のように繰り返す。
そして、牢獄の隅で首に重い枷をはめられ、生気を失った目で壁を見つめているのは、ノックス伯爵だった。
横領と公文書偽造、さらには国家反逆罪。
彼に下された判決は、全財産の没収と、明朝の公開処刑だった。
かつて権力の頂点に立ち、我が世の春を謳歌していた三人は、たった数日で地獄の底へと突き落とされたのだ。
コツ、コツ、コツ……。
冷たい石造りの廊下に、静かな足音が響いた。
その足音は、牢獄の前にピタリと止まった。
「……お久しぶりですね、皆様」
鉄格子の向こうから聞こえてきたその声に、三人は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、深紅のドレスを身に纏い、冷たい氷のような瞳で彼らを見下ろす、セレナ・ヴァン・ルシエルだった。
その隣には、漆黒の軍服を着たドラグノール帝国皇帝、アレクシスが、彼女の腰を抱き寄せるようにして立っている。
「セ、セレナ……! セレナァァァッ!!」
カールが鉄格子に顔を押し付け、狂ったように叫んだ。
「お前のせいだ! お前がこんなことをしなければ、私は今頃王として……!」
「まだご自身の現状が理解できていないようですね、カール様」
セレナは、まるで路傍の石ころを見るような、一切の感情が抜け落ちた瞳で彼を見据えた。
「あなたが王になれる日は、永遠に来ません。あなたの身分はすでに平民に落とされました」
「ひ、平民だと……? 馬鹿な、私が……私が平民などと……!」
「ええ。そして、帝国に与えた莫大な損害を賠償するため、あなたは明日から帝国の北端にある魔石鉱山へ送られます」
魔石鉱山。
そこは、致死率が九十九パーセントを超えると言われる、過酷な強制労働施設だ。
一度送られれば、二度と生きて太陽の光を見ることはできない。
「い、嫌だ……! そんなところへ行くくらいなら、死んだ方がマシだ!」
「死ぬことは許されませんよ。あなたが自分の罪の重さを理解し、絶望の中で息絶えるその日まで、泥水をすすってでも生きて労働していただきます」
セレナの言葉に、カールはついに膝から崩れ落ちた。
彼の矮小なプライドは完全に粉砕され、残ったのは死への恐怖と、果てしない絶望だけだった。
「お姉様……お姉様ぁっ!」
今度は、老婆のような姿になったリリアが、鉄格子の隙間から皺だらけの腕を伸ばしてきた。
「私よ、リリアよ! 可愛い妹じゃない! お願い、私を助けて! こんな醜い姿で生きていくなんて耐えられないわ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、リリアはセレナのドレスの裾を掴もうと必死に手を伸ばす。
「私が間違っていたわ! お姉様に嫉妬して、酷いことをした! だから、だから許して! お姉様の力で、私を元の姿に戻してぇぇっ!」
号泣しながら命乞いをするリリア。
しかし、セレナの表情は微塵も動かなかった。
「……気安く触れないでいただけますか。どちら様でしょう?」
氷点下まで冷え切った声が、地下牢に響き渡る。
「お、お姉様……?」
「私に妹はいません。私の家族は、とうの昔に私を勘当して捨てたのですから」
セレナはゆっくりと足を上げると、鉄格子の隙間から伸びていたリリアの皺だらけの手を、硬いヒールの踵で冷酷に踏み躙った。
「ぎぃっ……!? ぁぁぁぁぁっ!!」
骨が軋む鈍い音と共に、リリアの絶叫が牢獄に響き渡る。
「あなたのその醜い姿は、あなたが今まで他人の犠牲の上に築き上げてきた虚飾の代償です。スラムの泥水をすすりながら、己の醜悪さと向き合って生きていきなさい」
「あ……あああ……いやぁぁぁぁっ!!」
リリアは踏み潰された手を抱え込み、床を転げ回って泣き叫んだ。
その光景を、壁際で見ていたノックス伯爵は、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。
もはや言葉を発する気力すらなく、ただ恐怖に顔を歪めてセレナを見上げている。
「ノックス伯爵。明日の公開処刑、楽しみにしておりますよ。あなたが民衆から石を投げられ、蔑まれながら断頭台に上る姿を、特等席で見物させていただきます」
セレナの冷酷な宣告に、ノックス伯爵はついに泡を吹いて気を失った。
「……さあ、帰りましょうか。これ以上、この汚らわしい空気を吸う必要はありません」
セレナは彼らに背を向け、一切の未練もなく歩き出した。
後方から聞こえてくるのは、カールの絶望の泣き声と、リリアの狂ったような叫び声だけだ。
彼らはもう二度と、這い上がることはできない。
社会的に、経済的に、そして魔法的に。
完全なる抹殺は、ここに完了した。
長年、セレナの心を縛り付けていた鎖が、今度こそ完全に消え去ったのを感じた。
数日後。
ドラグノール帝国の中心にそびえ立つ、豪奢な白亜の皇宮。
その奥深くにある、皇帝の私室。
夜の帳が下り、部屋の中は暖炉の柔らかな光と、高価な魔石のランプによって甘く照らされていた。
「……んっ……」
最高級のシルクで設えられた天蓋付きの広大なベッドの上で、セレナは甘い吐息を漏らした。
彼女の華奢な体は、背後から回された逞しい腕によって、逃げ場のないほどしっかりとホールドされている。
「セレナ……私の、愛しいセレナ」
耳元で囁かれる低く熱を帯びた声。
首筋に落とされる、火傷しそうなほど熱い唇の感触。
アレクシスだった。
昼間の冷徹で近寄りがたい皇帝の仮面は、二人きりになった途端に跡形もなく消え去ってしまう。
今の彼は、ただ一人の女性に対する狂気的なまでの執着と、溺れるような愛情を隠そうともしない、一人の雄でしかなかった。
「あんなゴミのような奴らの血で、あなたの美しい靴を汚してほしくはなかった。……あなたのその気高い足は、私が口付けるためにあるのだから」
アレクシスはセレナのドレスの裾をそっと捲り上げ、彼女の滑らかな足首に恭しく唇を落とした。
その異常なまでの執着心に、セレナは頬を赤らめて身じろぎした。
「ア、アレクシス……もう、彼らのことはどうでもいいのです。すべては終わりましたから」
「ええ、終わりました。あなたを害する虫共は、この世界からすべて排除した。……これからは、あなたの時間はすべて私のものだ」
アレクシスの腕の力が強まり、セレナの体をぐるりと反転させて、ベッドの上に押し倒した。
金色の瞳が、獲物を捕らえた肉食獣のように妖しく光っている。
しかし、そこにあるのは暴力的な支配欲ではなく、とろけるような熱烈な愛情だった。
「あなたがどれほど美しく、気高く、そして愛おしい存在か。……言葉だけでは足りない。私のすべてを懸けて、あなたに証明し続けよう」
アレクシスの大きな手が、セレナの銀色の髪をすくい上げ、その一本一本に愛おしげにくちづける。
「あなたをもう一生、どこにも逃がさない。この皇宮の奥深くに閉じ込めて、私以外の男の目に触れることすら許さない。……私の重すぎる愛で、あなたを息が詰まるほど甘やかしてあげます」
彼の狂気じみた、しかしこの上なく甘い愛の言葉に、セレナは小さく微笑んだ。
かつては、誰かに愛されることなど一生ないと諦めていた。
自分のすべてを犠牲にして尽くしても、返ってくるのは裏切りと嘲笑だけだった。
しかし今、彼女の目の前にいるこの男は、彼女のすべてを受け入れ、彼女のためなら世界すら敵に回すことを厭わない。
「……ふふっ。本当に、あなたは皇帝陛下とは思えないほど、独占欲が強いのですね」
「あなたの前では、ただの恋焦がれる一人の男に過ぎませんよ」
アレクシスの顔がゆっくりと近づき、二人の唇が重なり合った。
甘く、深く、魂まで溶かしてしまいそうなほど熱い口付け。
セレナは目を閉じ、彼のがっしりとした背中に腕を回して、その熱を全身で受け止めた。
かつて「役立たず」と追放された令嬢の心は、今やかつてないほどの幸福感と、極上の愛によって満たされていた。
外の世界では、彼女の力によって崩壊した王国が帝国の支配下で再建の道を歩み始めているだろう。
しかし、そんなことはもう、彼女にとってはどうでもいいことだった。
最強の皇帝からの、狂気的なまでの執着と極上の溺愛。
冷酷な復讐を完遂した彼女は、今、彼と共に永遠に続く甘い鳥籠の中で、至上の幸せに酔いしれていたのだった。




