第3話 虚飾の結婚式と魔法特許の剥奪
王都の上空は、以前のような澄み切った青空ではなく、どんよりとした薄暗い淀みに覆われていた。セレナが追放されてから数ヶ月。彼女が自身の命を削ってまで維持していた大結界は、新たな魔力供給源を完全に失い、今や風前の灯火のように薄れつつあった。国境付近では既に瘴気が漏れ出し、低ランクの魔物が頻繁に出没し始めている。農作物への被害や街道の封鎖が相次ぎ、王国の物流は麻痺状態に陥っていた。さらに、原因不明の魔法インフラの不調による生産力の低下と、それに伴う税収の激減が、王国の財政をかつてないほど逼迫させていた。
しかし、そんな国家存亡の危機的状況にあってなお、王国の中心である王都の大聖堂だけは、狂ったような熱狂と虚飾に包まれていた。
「おお、なんと美しい……まさに女神の生まれ変わりだ」
「カール殿下とリリア様こそ、この王国を永遠の繁栄に導く真の光であられる!」
大聖堂を埋め尽くす貴族たちは、一様に媚びへつらうような歓声を上げ、万雷の拍手を送っていた。大聖堂の内装は、国の財政難が嘘であるかのように、目も眩むような金銀の装飾と、他国から法外な値段で取り寄せた希少な魔石で溢れ返っていた。祭壇には無数の純白の薔薇が敷き詰められ、天井からは神聖な光の魔法が降り注いでいる。この結婚式たった一日のために、王国の国家予算の数年分に相当する国費が、カールとリリア、そしてノックス伯爵の独断によって横領され、惜しげもなく注ぎ込まれていたのだ。
祭壇の中央で、カールは得意絶頂の笑みを浮かべていた。豪奢な純白の軍服に身を包んだ彼は、自分が世界で最も偉大で、最も愛されている王太子であると微塵も疑っていなかった。地方からの魔物被害の報告書など、すべて「平民の怠慢」として暖炉に放り込んできた。結界が薄れているという魔導士たちの警告も、「私の魔力がある限り国は安泰だ」と根拠のない自信で一蹴していた。
カールの隣には、同じく純白のウェディングドレスを纏ったリリアが立っていた。最高級のシルクと、星の数ほどのダイヤモンドが散りばめられたそのドレスは、彼女の可憐な容姿をこれ以上ないほどに引き立てていた。リリアの胸中を満たしているのは、愛する人と結ばれる喜びなどではない。あの忌まわしい異母姉であるセレナからすべてを奪い取り、自分がこの国の頂点に立ったという、最高に甘美な優越感だけだった。
「愛しいリリア。今日の君は、世界中のどの宝石よりも輝いているよ」
「殿下……。私、本当に幸せですわ。あのような恐ろしい悪女が去って、ようやくこの国に真の平和が訪れたのですね」
リリアが潤んだ瞳で見つめると、カールは満足げに頷き、彼女の細い腰をぐっと引き寄せた。
「ああ、その通りだ。あの魔力ゼロの役立たずの無能女など、今頃は死の森で魔物の胃袋の中だろう。私がこの手で鉄槌を下してやったのだ、王国の歴史に残る偉業として後世まで語り継がれるべきだ」
最前列の席では、ノックス伯爵が我が世の春と言わんばかりにふんぞり返り、周囲の貴族たちから次々と送られる祝いの言葉に鷹揚に頷いていた。次期王妃の父親であり、カールの最大のパトロンとなった彼は、もはや国王すら凌ぐ権力を手に入れたと錯覚していた。
「さあ、誓いの口付けを」
司祭の荘厳な声が大聖堂に響き渡る。
カールがリリアのヴェールをゆっくりと持ち上げ、二人の顔が近づいていく。参列者たちが息を呑み、絶頂の瞬間を迎えようとした、まさにその時だった。
ズドォォォォォォンッ!!
落雷のような轟音と共に、重厚な大聖堂の巨大な木製の扉が、内側に向かって木端微塵に吹き飛んだ。
悲鳴を上げて逃げ惑う近衛兵たちと、粉々になった破片が宙を舞う中、入り口から吹き込んできた強風が、祭壇の純白の薔薇を嵐のように散らした。
「な、何事だ!? 貴様ら、衛兵は何をしている!」
カールが激昂して叫ぶが、吹き飛んだ扉の向こうに現れた「それ」を見た瞬間、大聖堂にいた数千人の人間全員が、文字通り呼吸を忘れて凍りついた。
巻き起こる土煙を割って、ゆっくりと大聖堂に足を踏み入れたのは、二人の男女だった。
一人は、長身で漆黒の軍服を纏った銀髪の青年。その身から発せられる覇気と魔力は、ただそこに存在しているだけで大気そのものが彼にひれ伏しているかのような錯覚を起こさせた。大陸最強の魔導師にして、絶対的な権力を持つドラグノール帝国の皇帝、アレクシス・フォン・ドラグノール。彼がなぜ他国の結婚式に、しかも正面扉を吹き飛ばして現れたのか、誰一人として理解できなかった。
しかし、人々の視線をさらに釘付けにしたのは、アレクシスに恭しくエスコートされて歩を進める、一人の女性の姿だった。
「……あ、ああ……なんと……」
誰かの口から、祈るようなため息が漏れた。
彼女の美しさは、人間の規格を完全に逸脱していた。夜空の星屑を溶かして織り上げたかのような、深い瑠璃色のドレス。流れるような銀色の長い髪は、歩くたびに月光を反射してきらきらと輝き、雪のように白い肌は透き通るような光を放っている。そして何より、その深海のように青く、同時に氷のように冷たい瞳。彼女が一度瞬きをするだけで、周囲の空間そのものが彼女の美しさに平伏し、祝福を与えているかのように見えた。
神話の女神が地上に降臨したかのようなその圧倒的な存在感の前に、先程まで絶賛されていたリリアの姿など、まるでガラス玉の隣に置かれた安物の泥細工のように霞んで見えた。
アレクシスは、彼女の手を自身の腕に絡ませ、まるで壊れやすい国宝を扱うかのように、一歩一歩慎重に、そして狂信的なまでの愛情を込めた瞳で彼女をエスコートしていた。
「だ、誰だ……あの美しい女性は……帝国の皇女か?」
「いや、あのような御方が存在したなど、聞いたこともない……」
貴族たちがざわめく中、祭壇の上で呆然としていたカールは、その女性の顔を凝視し、やがて信じられないものを見るように目をひん剥いた。
「ば、馬鹿な……。貴様、まさか……セレナか!?」
その言葉に、大聖堂の空気が一瞬にして凍りついた。
セレナ・ノックス。数ヶ月前、魔力ゼロの無能として、醜い嫉妬に狂った悪女として、死の森へ永久追放されたはずの女。あの惨めで泥にまみれた令嬢と、目の前にいる神々しいまでの絶世の美女が、同一人物であるなどと誰が信じられるだろうか。
しかし、その顔立ちは確かにセレナのものだった。龍王の魂が覚醒し、内に秘められた強大すぎる魔力が解放されたことで、彼女の本来の姿――ルシエル古王家の正当なる末裔としての真の美貌が完全に顕現していたのだ。
「……お久しぶりですね、カール殿下」
セレナの口から紡がれた声は、まるで冷たい水晶を転がしたように澄み切っていた。しかし、そこにはかつてのような温かみも、怒りや憎しみすらも存在していなかった。路傍の石ころを見るような、完全なる「無」の感情。
「なぜ貴様が生きている! しかも、アレクシス皇帝陛下と共に……! ええい、衛兵! その罪人を今すぐ捕らえろ! 死の森から逃げ出した重罪人だぞ!」
カールの命令に近衛兵たちが武器を構えようとした瞬間、アレクシスの金色の瞳が細められ、絶対零度の殺気が大聖堂を包み込んだ。
「気安く我が主に武器を向けるな、小バエ共。私の愛しい人を視界に入れた罪だけで、お前たちのその汚らわしい眼球を抉り出してやりたいところだが……今日は我が主の舞台だ。命拾いしたな」
アレクシスの言葉に、兵士たちは恐怖で白目を剥き、そのまま武器を取り落として次々と気絶していった。魔法すら使っていない。ただの殺気の放射だけで、精鋭であるはずの近衛兵が全滅したのだ。
「わ、我が主だと……? 皇帝陛下、一体何を狂ったことを! その女は我が王国から追放された、ただの無能な悪女ですぞ!」
「お口を慎まれては、ノックス伯爵」
怯えながら叫ぶ実父に向かって、セレナは氷の微笑を向けた。
「私は今日、ドラグノール帝国の全権特使として、そして……この大陸のすべての魔法の起源である『ルシエル古王家』の現当主として、あなた方に通達をしに参りました」
「ルシエル古王家だと……? 馬鹿な、そんなものは数百年前に滅びたおとぎ話ではないか!」
カールが嘲笑うように叫ぶが、セレナは表情一つ変えない。彼女はゆっくりと手を上げ、白魚のような指先をパチンと鳴らした。
その瞬間、大聖堂の空中に巨大な魔法陣が幾重にも展開され、光り輝く文字の羅列が浮かび上がった。それは、王国が現在使用しているすべての魔法インフラの設計図と、その根源となる「特許契約書」だった。
「あなた方が現在享受している王城の結界、王都を囲む防壁、水道の浄化システム、街の照明、そのすべては、私たちルシエル家が数百年前に構築した魔法陣の完全なる盗用です。そして、その盗用されたシステムに、私が長年、自分の命を削って魔力を供給し、維持して差し上げていたのですよ」
セレナの言葉に、貴族たちはざわめき始めた。結界を維持していたのはカールの魔力ではなかったのか。無能とされていたセレナが、この国の基盤をたった一人で支えていたというのか。
「狂言だ! 貴様のような魔力ゼロの女にそんなことができるはずがない!」
「お姉様、お願いですからもう嘘をつくのはやめてください! 殿下が困っていらっしゃるじゃないですか!」
リリアが涙ぐむ演技をしながら叫ぶが、セレナはその悲劇のヒロインを完全に無視し、ただ冷徹に宣告を下した。
「狂言かどうかは、今から数秒後にご自身で確認されると良いでしょう。――ルシエル古王家当主、セレナ・ヴァン・ルシエルの名において、現王国が不正利用している全魔法陣のライセンス契約を、即時破棄します」
セレナが右手を振り下ろした。
次の瞬間、世界から光が消えた。
「なっ……!?」
大聖堂を照らしていた無数の光の魔法が一斉に弾け飛び、ステンドグラスから差し込んでいた神聖な光も、ドス黒い闇へと変貌した。それだけではない。大聖堂の外からは、王都中をパニックに陥れるような絶叫と爆音の連鎖が響き渡ってきた。
王城を覆っていた半透明の大結界が、ガラスが砕け散るような音を立てて完全に消滅したのだ。さらに、王都を囲む防壁の魔力供給が停止し、巨大な門が重力に従って落下。水道の浄化システムが停止したことで、噴水からは泥水が噴き出し、夜の街を照らすはずのすべての魔力灯がブラックアウトした。
「な、何が起きた!? 結界が……結界が消えたぞ!」
「防壁のシステムが完全に沈黙しました! 魔物が……国境付近の魔物が、街になだれ込んできます!!」
血相を変えた騎士が飛び込んできて報告する声に、大聖堂は阿鼻叫喚の地獄と化した。
数百年間にわたって王国を守り続けてきた無敵の魔法インフラが、セレナのたった一言で、文字通り機能停止に陥ったのだ。
「貴様ぁぁっ! 一体何をした!!」
カールが顔を真っ赤にして怒鳴り散らすが、彼の足元は恐怖で震えていた。自分が頼りにしていた絶対的な安全が、目の前の女の掌の上で弄ばれていたという事実を、彼の矮小なプライドが受け入れることを拒否していたのだ。
「ご自身の無能さを私のせいにするのはおやめください、カール殿下。借り物を返していただいた、ただそれだけのこと。……ああ、そういえば、あなた方は私の陰の努力を『自分たちの実力』だと驕り高ぶっておいででしたね。では、あなた方の『本当の実力』を見せていただきましょうか」
セレナが再び指を鳴らすと、今度は空中に無数の羊皮紙の束が出現し、吹雪のように大聖堂の参列者たちの頭上へと降り注いだ。
「な、なんだこれは……」
一枚の紙を拾い上げた貴族の顔面から、一瞬にして血の気が引いた。
「こ、これは……ノックス伯爵による、復興予算の巨額の横領記録!? しかも、帝国との非公式な密輸ルートの帳簿まで……!」
「こっちには、リリア様が王太子の印章を偽造して、国庫から宝石購入費を無断で引き出した証拠書類があるぞ! 筆跡鑑定の証明書付きだ!」
「ち、違う! それは捏造だ!」
ノックス伯爵が悲鳴のような声を上げ、リリアは顔面を蒼白にして後ずさった。
降らせた書類はすべて、セレナが王城で実務をこなしていた際に密かに収集し、帝国皇帝であるアレクシスの絶対的な情報網を使って裏付けを取った、完璧で言い逃れのできない決定的な証拠の山だった。
「国家予算の横領、公文書の偽造、そして古王家の技術の無断盗用。……カール殿下。ご自身が国政を担い、偉大なる王国を導いていると豪語されていましたね。これが、あなたが導いた王国の真実の姿です。腐敗し、借金まみれで、防衛力すら持たない、ただの泥舟」
セレナの氷のような視線が見下ろす中、カールはついに理性を完全に失った。
「黙れ、黙れ黙れ黙れぇぇぇっ!! 貴様のような悪女の戯言など誰が信じるか! 私が王だ、私が絶対だ! 貴様さえ殺せば、すべて元通りになるんだ!!」
カールは腰の聖剣を引き抜き、目を血走らせてセレナに向かって突進した。
周囲の貴族たちが悲鳴を上げ、アレクシスが面倒くさそうに指先で魔法を発動しようとしたその時。
「アレクシス、手を出さないで」
セレナはアレクシスを制止し、突進してくるカールに向かって、冷たく、そして静かにその蒼い瞳を向けた。
(龍王の威圧)
セレナが体内に宿る規格外の魔力の、ほんの数パーセント。ただの「威圧」として空間に放った瞬間。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
目に見えない超重力の塊が、大聖堂の重力を数十倍に歪ませた。
「あ……がっ……!?」
カールはセレナに数歩の距離まで迫ったところで、まるで巨大な見えない足で踏み潰されたかのように、大理石の床に顔面から激突した。聖剣は粉々に砕け散り、彼の全身の骨がメキメキと悲鳴を上げる。
カールだけではない。祭壇にいたリリアも、最前列にいたノックス伯爵も、そして周囲の貴族たちも全員が、その圧倒的な威圧の前に息をすることすらできず、無様なカエルのように床に這いつくばらされた。
空気が重いのではない。魂そのものが、絶対的な強者の前でひれ伏すことを強制されているのだ。
「あ……がはっ……息が……」
床に顔を押し付けられ、鼻から血を流しながら白目を剥きかけるカール。完璧なドレスを泥と血で汚し、醜く顔を歪めて這いずるリリア。
彼らは今、完全に理解した。自分たちがゴミのように捨てた女が、どれほど巨大で、恐ろしく、そして絶対的な存在であったのかを。自分たちが立っていた頂点は、彼女が善意で用意してくれていた砂上の楼閣に過ぎなかったことを。
絶頂の舞台から、文字通り奈落の底へと叩き落とされた悪役たち。
その無様で滑稽な姿を、セレナは感情の抜け落ちた冷たい瞳で見下ろしていた。かつて自分が流した涙と血の痛みに比べれば、彼らの今の絶望など、まだほんの序の口に過ぎない。
「這いつくばったまま、よく聞いてください」
静まり返り、荒い呼吸音だけが響く大聖堂に、セレナの宣告が死神の鎌のように振り下ろされた。
「明日、ドラグノール帝国軍が、魔法インフラを失い無防備となったこの王都へ進軍します。違約金の支払い能力を持たないあなた方の王国は、本日ただいまを以て国家破産し、帝国に吸収されることになります」
それは、完全なる敗北と滅亡の宣告だった。
「さようなら、私の元婚約者様。せいぜい、ご自分が壊した国のがれきの下で、その惨めな命を長らえてくださいませ」
背を向けたセレナの腰を、アレクシスが愛おしげに抱き寄せる。
「素晴らしい手際でした、我が主よ。ああ……彼らをゴミのように見下ろすあなたのその冷たい視線、ゾクゾクするほど愛おしい。さあ、こんな穢れた場所からはすぐにお立ち去りましょう。私の腕の中へ」
絶望のどん底で這いつくばる愚者たちを後に、絶世の美貌を取り戻した古王家の末裔と最強の皇帝は、瓦礫と化した大聖堂の扉の向こうへと、悠然と消えていった。
後に残されたのは、魔法の光を失い、魔物の咆哮が近づいてくる暗闇の中で、ただただ絶望の涙を流すことしかできない者たちの、みじめなすすり泣きだけだった。




