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第1話 理不尽な断罪と凍りつく心

王都の上空を覆う巨大な半透明の魔法結界。それが微かに明滅しているのを、セレナは王城のバルコニーから疲労に満ちた瞳で見上げていた。

建国祭の夜は空気が冷たい。吐く息は白く、華やかなドレスから露出した肩や背中を、容赦のない夜風が撫でていく。しかし、それ以上に彼女の芯を凍えさせているのは、三日三晩一睡もせずに働き続けたことによる極度の疲労と、生命力そのものが削り取られるような虚脱感だった。


王国第一王子、カール・フォン・バルバトスの婚約者。それがセレナ・ノックスという女に与えられた肩書きだ。だが、その実態は華やかなものとは程遠い。無能で傲慢なカールが本来こなすべき山のような政務、他国との複雑な外交文書の作成、予算の編纂、そして何より、王都を魔物の脅威から守る大結界の維持管理。それらすべてを、セレナはたった一人で裏から支えてきた。

実家であるノックス伯爵家では「魔力ゼロの役立たず」と蔑まれ、一族の恥として地下室のような部屋に押し込められて育った。だが、彼女には並外れた頭脳と、自分でも正体のわからない強大な力があった。表向きは魔力がないとされているため、彼女が結界に力を注ぐたびに激しい疲労に襲われ、時には血を吐くこともあった。それでも彼女は耐えた。いつかカールが立派な王となり、自分を正当な妃として認めてくれる日が来ると信じて。ただ、その純粋な「善意」と「忍耐」だけで、今日まで身を粉にして尽くしてきたのだ。


「……そろそろ、戻らなければ」


手すりから体を離し、セレナは小さく息を吐いた。今日は一年に一度の建国祭を祝う夜会。未来の王太子妃として、カールの隣に立ち、笑顔で貴族たちの挨拶を受けなければならない。重たい鉛のように感じる足を引きずりながら、セレナは豪奢なシャンデリアが輝く大広間へと歩みを進めた。


大広間の扉をくぐると、むせ返るような香水の匂いと、華やかなオーケストラの演奏が押し寄せてきた。色とりどりのドレスや、金銀の装飾が施された軍服が行き交う。しかし、セレナの姿を認めた途端、周囲の貴族たちの目は明らかに冷ややかなものへと変わった。


「見ろ、あのノックス家の『無能令嬢』だ」

「殿下もあのような地味で魔力もない女を、よくいつまでも婚約者にしておられるものだ」

「どうせノックス伯爵が無理やり押し付けたのだろう。殿下が不憫でならないよ」


扇の陰からひそひそと囁かれる悪意の声。セレナはそれを聞かないふりをして、背筋を伸ばし、真っ直ぐにホールの中心を見据えた。

そこに、彼女の婚約者であるカールがいた。金髪に碧眼、絵本から抜け出してきたような見目麗しい青年だ。しかし、彼の隣に立っていたのはセレナではない。カールの腕にすがりつき、甘ったるい声で笑いかけているのは、セレナの異母妹であるリリア・ノックスだった。


ふんわりとしたピンク色のドレスを纏い、可憐で庇護欲をそそる外見を持つリリア。彼女はセレナとは違い、父親のノックス伯爵から有り余る愛情と富を注がれて育った。事あるごとにセレナから物を奪い、セレナが苦しむ姿を見ることに無上の喜びを見出す毒婦。それがリリアの真の姿だった。


セレナが近づこうとしたその時、カールがふとこちらに視線を向けた。その目には、婚約者に向けるような愛情も親愛も、微塵も存在していなかった。あるのは、路傍の汚物を見るような強烈な嫌悪と、下劣な見下しの色だけだった。

不吉な予感がセレナの胸をよぎる。


「音楽を止めろ!!」


カールの怒声が、華やかな夜会の空気を一瞬にして凍らせた。

指揮者が慌ててタクトを下ろし、オーケストラの演奏が不自然に途切れる。数百人いる貴族たちの視線が、一斉にホールの中心、大階段の前に立つカールとリリア、そしてその数歩手前に立ち尽くすセレナへと注がれた。


「セレナ・ノックス! 貴様のその忌まわしい顔を見るのも今日で最後だ!」


ホール中に響き渡る声で、カールはセレナを指差した。周囲が水を打ったように静まり返る中、カールはリリアの細い腰をぐっと抱き寄せ、高らかに宣言した。


「皆の者、聞くがいい! この魔力ゼロの役立たず、セレナ・ノックスは、我が真実の愛する女性であるリリアに対し、数々の陰湿な嫌がらせを行ってきた! 嫉妬に狂い、リリアのドレスを切り裂き、階段から突き落とし、あろうことか先日の茶会では彼女の紅茶に毒を盛ろうとしたのだ!」

「な……っ!?」


セレナは息を呑んだ。ドレスを切り裂いたのも、階段から落ちたふりをしたのも、すべてリリア自身の自作自演だ。毒に至っては全くの事実無根、セレナはその茶会にすら参加していない。徹夜で王国の予算会議の資料を作っていたのだから。


「殿下、お待ちください! それは誤解です。私はそのようなこと、一切……」

「黙れ、この毒婦め!!」


カールの怒号がセレナの言葉を遮った。


「見苦しい言い訳など聞きたくもない! 貴様のような陰湿で無能な女が、次期王妃になるなど到底あり得ないことだ! 私が国政を担い、この偉大なる王国を導いているというのに、貴様はただ私の後ろに隠れて偉ぶっていただけではないか!」


その言葉に、セレナは眩暈を覚えた。カールが国政を担っている? 冗談ではない。彼が承認印を押している書類はすべてセレナが内容を精査し、修正し、完璧に仕上げたものだ。彼はただ、セレナが用意したものを自分の功績として吹聴しているに過ぎない。


「カール殿下のおっしゃる通りです」


群衆の中から歩み出てきたのは、セレナとリリアの父親、ノックス伯爵だった。冷酷な目つきでセレナを睨み下ろす彼は、実の娘に向けるとは思えない氷のような声で言い放った。


「我がノックス家の恥晒しめ。魔力を持たず生まれてきただけでも罪深いというのに、愛らしい妹に危害を加えるとは。私ノックス伯爵は、本日ただいまを以て、セレナ・ノックスを勘当する! 今後、我が家とは一切関わりを持たぬと知れ!」

「お父様……!」


血の繋がった父親からの容赦ない切り捨て。周囲の貴族たちは「当然だ」「あんな悪女、生かしておく価値もない」と口々に罵詈雑言を浴びせ始めた。


カールの腕の中で、リリアが小さく肩を震わせて泣き始めた。


「お姉様……どうしてこんなひどいことを……。私、お姉様に愛されたくて、ずっと我慢してきたのに……ひぐっ、ううっ……」

「泣かないでくれ、愛しいリリア。君はもう何も怯えなくていい」


カールは優しくリリアの涙を拭う。しかし、カールの胸に顔を埋めたリリアは、セレナだけに見える角度で顔を少し上げ、その唇の端を吊り上げた。

声を出さず、彼女の唇だけが動く。


『ざまぁみろ、ゴミ屑』


完璧な嘲笑のリップシンクだった。背筋が凍るほどの悪意。最初から、この断罪劇は彼らが仕組んだ茶番だったのだ。邪魔になったセレナを排除し、カールとリリアが結ばれるための、大衆を巻き込んだ残酷な見世物。


「王族への不敬、および未来の王妃への殺人未遂! 本来ならば死罪に処すべきところだが、私の慈悲により命だけは助けてやろう」


カールは勝利者の笑みを浮かべ、高らかに最終宣告を下した。


「セレナ・ノックス! 貴様との婚約を破棄する! そして、貴様を王国北端の辺境、『死の森』への永久追放とする! 今すぐこの王城から立ち去れ!!」


死の森。それは凶悪な魔獣が跋扈し、まともな装備を持った熟練の騎士団ですら生還が難しいとされる絶対的な死地だ。そこに何の護衛も持たせずに追放するということは、実質的な死刑宣告に他ならない。


「お、お待ちください殿下! 本気でおっしゃっているのですか!? 私は……私はずっと、殿下のために尽くしてきました! この国の結界を裏で維持しているのも、あの山積みの政務を片付けているのも、すべて私なのです! 私がここを去れば、この国は……!」


必死に真実を叫ぼうとしたセレナだったが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。


ゴキッ!!


鈍い破砕音と共に、セレナの視界が大きく横にブレた。

次に気付いた時、彼女は冷たい大理石の床に這いつくばっていた。口の中に広がる生温かい鉄の味。顔面の右半分に、焼けるような激痛が走る。

カールの顎で合図を受けた近衛兵の一人が、鉄の籠手をはめた拳でセレナの顔面を容赦なく殴り飛ばしたのだ。


「あ……がっ……」


痛みと衝撃で呼吸が止まり、耳鳴りがガンガンと頭蓋骨の中で反響する。床に落ちた視線の先で、自分が着ていたドレスに点々と赤い血が染みていくのが見えた。


「口を慎め、狂女が! 貴様のような魔力ゼロの無能が結界を維持しているだと? 狂言も大概にしろ!」


カールの嘲笑う声が、遠くの方で聞こえた。


「すべては私の偉大なる魔力と、有能な文官たちの働きによるものだ! 貴様はただ部屋に引きこもり、怠惰を貪っていただけではないか。己の無能を隠すためにそのような大嘘を吐くとは、本当に救いようのないクズだな!」

「ちが……う……私は……」


血を吐き出しながら、震える手で床を突いて立ち上がろうとする。しかし、周囲を取り囲んだ貴族たちの中から、冷たい液体の塊が次々とセレナの頭上から浴びせられた。


バシャッ! ボトッ!


赤いワインだった。誰かがグラスのワインを投げつけたのを皮切りに、次々と酒や食べかけの料理が、倒れ伏すセレナの背中や頭にぶちまけられていく。


「さっさと消えろ、この泥棒猫!」

「殿下の視界を汚すな、薄汚い無能女!」

「死の森で魔物の餌になるのがお似合いだわ!」


降り注ぐ罵声と、冷酷な嘲笑の渦。

ワインでびしょ濡れになった髪が頬にへばりつき、殴られた傷口から流れる血が視界を赤く染めていく。

全身の痛みよりも、胸の奥底を抉られるような激痛がセレナを襲っていた。


なぜ。

どうして。


私は、ずっと耐えてきた。理不尽な要求にも、心無い言葉にも、いつか分かってくれると信じて微笑みでおさめてきた。自分の寿命を削ってまで、彼が守るべきこの国を、この民を、結界で守り続けてきたのに。

眠る時間すら惜しんで、彼の未熟な政治を裏から支えて、彼が恥をかかないようにすべてを完璧に整えてきたのに。


その結果が、これだ。


愛妹に冤罪をかけられ、実の父親から見捨てられ、命を懸けて尽くしてきた婚約者からは無実の罪で殺されようとしている。誰も彼女の言葉に耳を貸さない。誰も彼女の献身を知ろうとしない。ただ、面白おかしく彼女が地に堕ちる様を酒の肴にして嘲笑っているだけだ。


『私が我慢すれば、いつか報われる』

『真面目に誠実に生きていれば、きっと誰かが見ていてくれる』


そんなものは、くだらないおとぎ話だった。

善意など、この世で最も無価値なものだ。他人に尽くすことなど、自ら進んで奴隷になるのと同じことだったのだ。


床に広がる赤いワインの水溜まりに、無惨な自分の顔が映っていた。

頬は腫れ上がり、ドレスは汚れきり、惨めで、滑稽で、哀れな女の顔。


――その瞬間、セレナの中で、何かが決定的に壊れる音がした。


これまで彼女の心を縛っていた「良心」や「愛情」、「献身」といった温かい感情のすべてが、音を立てて砕け散り、急速に色を失っていく。

激しい絶望や悲しみすらも、一瞬にして通り過ぎた。

残ったのは、ただ果てしなく広がる「無」だった。


冷たい床の感触だけが、異常に鮮明に感じられる。

頭が恐ろしいほどクリアになっていく。怒りすら湧かない。ただ、目の前で下劣な笑い声を上げるカールやリリア、そして嘲笑う貴族たちが、人間ではなく、排除すべき単なる「物体」にしか見えなくなっていた。


「……そうですか」


静まり返ったホールに、氷のように冷たく、ひび割れた声が響いた。

ゆっくりと、血とワインにまみれた体を起こし、セレナは立ち上がった。近衛兵が再び剣の柄に手をかけたが、セレナから発せられる異様な雰囲気に飲まれ、一歩も動くことができなかった。


彼女の顔には、もはや悲壮感も絶望もなかった。

あるのは、一切の感情を切り捨てた、絶対零度の静けさだけ。


「私の言葉を信じず、真実を見ようともしない。……それが、あなたたちの答えなのですね」


カールが微かに眉をひそめ、一歩後ずさった。先程までの惨めな女とは違う、得体の知れない圧力が彼女から放たれているのを本能で感じ取ったからだ。


「何をブツブツと……! 衛兵、そいつをさっさと城からつまみ出せ! そのまま馬車に放り込んで、国境の森へ捨ててこい!」


カールの命令を受け、数人の衛兵が荒々しくセレナの腕を掴んだ。

抵抗はしなかった。する意味がなかった。


引きずられるようにして大広間を出る直前、セレナは一度だけ振り返った。

きらびやかなシャンデリアの下、得意げに胸を張る愚かな王子と、邪悪な笑みを浮かべる妹、冷酷な父親、そして愚鈍な貴族たち。

その光景を、彼女は一切の感情を持たない瞳で網膜に焼き付けた。


(ええ、わかりました)


心の中で、静かに、しかし絶対的な決意の言葉を紡ぐ。


(私があなたたちに与えていたすべてのものを、今日限りで終わらせましょう)


もう二度と、誰にも情けはかけない。

慈悲も、理解も、一切与えない。


(あなたたちが最も誇り、拠り所にしているものをすべて奪い尽くし、絶望の底で這いつくばる姿を……私に見せてくださいませ)


重い樫の扉が閉まる鈍い音が、セレナと王国との完全なる決別の合図となった。

冷たい夜の闇の中へ引きずり出されながら、彼女の瞳の奥深くで、長きにわたり封じ込められていた「何か」が、静かに、そして禍々しく脈打ち始めていた。

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