正しさの外側で息をする
正しさの外側で息をする
夜は、均等に訪れなかった。
管理居住区の照明は、日没と同時に自動で落とされる。
だがその「夜」は、本物の夜ではない。
暗さは調整され、
静けさは管理され、
夢さえ、抑制される。
――世界が、人の感情を怖れている。
その事実を、私はこの数日で嫌というほど思い知らされていた。
ベッドに横になりながら、天井を見つめる。
白い。どこまでも。
欠けも、歪みも、今はない。
安定している。
それが、正しい状態だと、世界は言う。
「……ねえ」
隣のベッドから、彼の声がした。
私は、返事をするか一瞬迷った。
返事をすれば、感情が動く。
感情が動けば、歪みが生まれる。
――それでも。
「なに」
声を低く抑えて、答えた。
「眠れない?」
「……ええ」
正確には、眠る資格がない気がしていた。
沈黙が落ちる。
数秒。あるいは、数十秒。
この沈黙は、安定を保っている。
世界が望む沈黙だ。
だが、その沈黙を――彼が破った。
「今日、数値を見た」
私は、体を強張らせた。
「……どこで」
「机の引き出し。
君のじゃない。
監視用の端末が、少しだけ開いてた」
規則違反。
明確な。
私は、思わず起き上がった。
「それは――」
「怒らないで」
彼の声は、静かだった。
「ただ、知りたかった」
何を?
そう聞こうとして、やめた。
彼は、続けた。
「僕が、どれくらい危険なのか」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
私は、言葉を探した。
けれど、正しい言葉が見つからない。
「……三週間」
彼が言った。
「猶予。
臨界値。
切除の可能性」
淡々とした声。
感情を込めないよう、慎重に選ばれた言葉。
「君は、それを知ってて、
毎日、僕に話しかけてた」
私は、否定できなかった。
「それは……」
「責任?」
彼が、首を傾げる。
「それとも、同情?」
違う。
どちらでもない。
でも、それを言葉にした瞬間、
歪みが生まれると分かっていた。
私は、拳を握りしめた。
「……私は」
声が、少し震えた。
「世界が正しいと信じてきた」
彼は、黙って聞いている。
「恋をすれば壊れる。
感情は危険。
だから、抑えなければならない」
それが、修復師として教えられてきた論理。
「でも」
私は、言葉を続けた。
「あなたを見ていると、
その論理が、
誰のためのものか分からなくなる」
彼が、ゆっくりとこちらを見た。
暗がりでも、視線が合うのが分かる。
「世界のため?」
「……ええ」
「それとも」
彼は、静かに言った。
「世界を管理する人たちのため?」
その一言が、
私の中で、何かを確かに壊した。
修復師は、中立であれ。
世界の論理を疑うな。
そう教えられてきた。
けれど。
管理される世界は、
誰かの正しさで作られている。
それが、本当に世界なのか。
「……君は、どう思う?」
私が聞いた。
問い返すのは、卑怯だと分かっていた。
でも、聞かずにはいられなかった。
「この世界は、正しい?」
彼は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、安定を生まなかった。
むしろ、空気が微かに震え始める。
――歪みの前兆。
私は、息を止めた。
だが、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……分からない」
その言葉に、
空気の揺れが、止まった。
「でも」
彼は、続けた。
「少なくとも、
感じないことを正しさにする世界は、
僕には、息苦しい」
その瞬間。
床の端に、微かな揺らぎが走った。
欠けない。
だが、確実に歪んでいる。
私は、思わず笑ってしまった。
「……ね」
彼も、小さく笑った。
「今の、記録されたかな」
「ええ。確実に」
「それでも、言いたかった」
その言葉は、
恋の告白ではない。
けれど。
存在の肯定だった。
***
翌日。
監視が、一段階厳しくなった。
食事中の会話制限。
就寝前の接触禁止(視線も含む)。
感情変動が検知された場合、即時分離。
理由は、明確だった。
昨日の微歪み。
私は、補助官から通達を受けながら、
奇妙な冷静さを保っていた。
以前なら、恐れていたはずだ。
世界が壊れる。
彼が処分される。
でも今は。
この世界が、何を壊そうとしているのか
それが、見え始めていた。
夜。
私は、机の引き出しを開けた。
そこには、本来あるはずのないものがあった。
紙切れ。
小さく折り畳まれたそれを、
私は、しばらく見つめていた。
――規則違反。
明確な。
それでも、私は、手に取った。
紙には、彼の文字があった。
『今日は、君が笑った
それで、世界が少し揺れた
でも、壊れなかった』
息が、詰まった。
続きがある。
『もし、感じることが罪なら
僕は、その罪を知りたい』
私は、紙を握りしめた。
修復師としてなら、
即座に報告すべき内容だ。
だが。
私は、紙を破らなかった。
代わりに、
机の奥にしまった。
――小さな反抗。
世界にとっては、
取るに足らない行為。
けれど、私にとっては。
論理の外側へ出る、一歩だった。
その夜、
歪みは発生しなかった。
感情は、動いている。
だが、世界は壊れない。
その事実が、
静かに、確かに、
私の中の正しさを書き換えていく。
世界か、彼か。
そんな二択は、
もう、成立しない。
世界の定義そのものを、
問い直さなければならない。
私は、暗闇の中で、
小さく息を吸った。
管理されていない呼吸。
それだけで、
生きていると感じられた。
恋の始まりではない。
けれど。
革命の、前触れだった。




