それでも、縫わない
それでも、縫わない
夜明け前の空は、どこか壊れたままだった。
色があるのに、深さがない。
星は見えるのに、遠さを感じない。
世界がまだ、正しい位置に戻りきっていない証拠だ。
私は施設の医務室の前に立ち、扉に手をかけたまま動けずにいた。
中には、青年がいる。
正確には――収容されている。
記録室での一件の後、彼は完全隔離となった。
拘束符は三重。
空間固定の結界は常時展開。
監視役の修復補助官が二名。
まるで、災厄だ。
彼が何かをしたというより、
彼が存在していること自体が、問題だと判断された。
それが、この世界の結論だった。
扉の横に立っていた監査官が、私を見た。
疲労の色が濃い。
一晩で、彼もまた多くの判断を下したのだろう。
「……中に入りますか」
私は頷いた。
扉が開く。
室内は静かだった。
薬の匂いと、結界特有の冷たさが混じっている。
ベッドに腰掛けた青年は、こちらを見た。
昨日よりも、静かだ。
だが、それは感情が消えたからではない。
――抑えられている。
「おはよう」
彼が言った。
声は穏やかだった。
その穏やかさが、胸に刺さる。
「……おはよう」
私は椅子に座った。
距離は、意図的に取られている。
手を伸ばしても、届かない距離。
沈黙が落ちる。
その沈黙を、監査官が破った。
「正式な判断が出ました」
彼は書類を開いた。
淡々と、感情を排した声で。
「対象――彼については、
世界歪曲の特異点と認定されます」
青年は眉を動かさなかった。
ただ、静かに聞いている。
「今後、外部との接触は禁止。
修復師による単独対応も不可。
最終的な処分は――」
監査官は、一拍置いた。
「永久隔離、もしくは
存在の切除です」
医務室の空気が、凍りついた。
存在の切除。
それは、殺すという言葉よりも残酷だ。
記憶から消し、痕跡を消し、
最初からいなかったことにする。
妹が、そうされたように。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
震えないように、意識的に。
「……彼は、まだ何も壊していません」
「まだです」監査官は即座に返した。
「昨夜の歪みを見ましたね。
修復不能。
しかも、増殖型」
私は視線を逸らした。
否定できない。
「修復師としてのあなたの判断も、記録されています」
監査官は私を見た。
「あなたは、現場で修復を中断した。
規定違反です」
「……分かっています」
「さらに、彼との接触において、
あなたの修復具が反応異常を起こした。
これは――」
監査官の声が、わずかに低くなった。
「修復師自身が歪みの一部になりかけている
ということです」
青年が、初めて私を見た。
視線が、重なる。
私は目を逸らさなかった。
「……あなたは、怖いですか」
青年が、私に聞いた。
唐突な問いだった。
だが、私はすぐに答えられた。
「怖い」
正直な答えだった。
「世界が壊れることも、
あなたが消されることも、
……そして」
言葉を選ぶ。
「私が、修復師でいられなくなることも」
青年は、少しだけ目を細めた。
悲しそうではない。
理解した、という顔だ。
「あなたは、修復師なんですね」
「……ええ」
「それを、捨てるつもりは」
私は、すぐには答えなかった。
修復師でいること。
それは、私が生き残るための形だった。
恋をしないための理由。
妹を失った自分を、正当化する肩書き。
世界を守っている、という免罪符。
でも――
私は、修復師として、妹を救えなかった。
修復師として、目の前の青年を直せない。
なら。
「……修復師として、できないことがあるなら」
私は、静かに言った。
「それをできないと認めるのも、
修復師の責任だと思います」
監査官の表情が変わった。
「それは――」
「私は、彼を修復しません」
言い切った瞬間、
胸の奥で何かがほどけた。
痛みも、恐怖も、ある。
けれど、それ以上に。
嘘をついていないという感覚があった。
「彼は、壊れていない」
私は続けた。
「欠けているだけです。
それは、世界の問題であって、
彼個人の罪ではない」
監査官は黙った。
沈黙の中で、結界が低く唸る。
「……では、あなたはどうするつもりですか」
監査官が問う。
「世界は、彼を許しません。
彼を生かせば、
さらなる歪みが起こる可能性が高い」
私は青年を見た。
彼は、逃げるような目をしていない。
諦めてもいない。
ただ、選ばれるのを待っている。
私は、深く息を吸った。
「彼を、私の管理下に置いてください」
監査官の目が、見開かれる。
「正気ですか」
「正気です」
私は頷いた。
「修復師としてではありません。
個人として、責任を負います」
「それは制度上――」
「分かっています」
私は、言葉を重ねた。
「だから、これは私の選択です。
世界のための判断ではない。
組織のためでもない」
胸が、はっきりと鼓動する。
「彼を処分するより、
彼が何者なのかを知る必要がある」
監査官は、長い沈黙の後、言った。
「あなたが失うものは大きい」
「……はい」
「修復師としての立場も、
信頼も、将来も」
私は、少しだけ笑った。
「それでも」
妹の顔が、脳裏をよぎる。
あの日、手を伸ばさなかった後悔。
「今度は、伸ばします」
青年が、息を呑んだのが分かった。
「あなたは――」
彼の声が、かすれる。
「世界を、選ばないのですか」
私は、首を振った。
「違う」
そうじゃない。
「世界か、あなたか、
そんな選択はしない」
私は、彼を見据えた。
「世界が壊れる理由を、あなたと一緒に探す」
それが、私の答えだった。
監査官は、しばらく目を閉じていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……期限付きです」
彼は言った。
「監視下での管理。
歪みが再発すれば、即時介入。
その場合――」
「分かっています」
存在の切除。
その言葉を、私は心の中で受け止めた。
監査官は立ち上がり、扉へ向かった。
「あなたは、危険な選択をしました」
振り返らずに、そう言った。
「ええ」
私は答えた。
でも、これは逃げじゃない。
扉が閉じる。
結界の音が、少しだけ弱まった。
室内には、私と青年だけが残る。
沈黙。
青年が、ゆっくりと口を開いた。
「……後悔、しますか」
私は少し考えた。
そして、正直に言った。
「するかもしれない」
青年は、驚いたように目を瞬かせた。
「でも」
私は、続ける。
「後悔しない選択なんて、
この世界には、たぶんない」
彼は、小さく笑った。
それは、初めて見る
感情のこもった笑顔だった。
「……あなたは、変わった修復師ですね」
「もう、修復師じゃないかもしれない」
そう言うと、胸が少し軽くなった。
青年は、私を見たまま言った。
「名前を、教えてくれますか」
今度は、逃げなかった。
私は、静かに答えた。
――自分の名前を。
その瞬間、
結界の奥で、微かに空気が揺れた。
だが、歪みは広がらなかった。
世界は、まだ壊れていない。
けれど、確かに。
何かが始まった。
恋かもしれない。
それとも、もっと別の名前の感情か。
いずれにせよ。
私はもう、
縫うだけの人間ではいられない。
世界を守るために恋を捨てた女は、
今、世界の外側へ一歩踏み出した。
それが、
世界を壊す選択だとしても。




