役割が壊れる音
役割が壊れる音
警報音は、夜の街に似合わないほど鋭かった。
それは「危険」を知らせる音ではない。
秩序が崩れたことを知らせる音だ。
私はコートを掴み、まだ履き慣れていない靴を無理やり足に通した。
窓の外では、施設の方角から光が明滅している。魔術的な防壁が起動した証だ。
嫌な予感が、背骨を伝って登ってくる。
「……間に合って」
誰に祈ったのか、自分でも分からないまま、私は夜の街へ飛び出した。
***
保護施設の前は、すでに混乱の渦中だった。
門は半開きになり、職員や警備兵が慌ただしく行き来している。
魔術灯が点滅し、空間固定の紋章が歪んでいるのが見て取れた。
私は身分証を見せる暇もなく、門をくぐった。
「修復師です!」
その一言で、空気が一瞬だけ変わる。
期待と恐怖が、同時に私へ向けられた。
「内側で異常が発生しています!」
「拘束符が破壊されました!」
「対象が――逃走を試みています!」
逃走。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「彼はどこに」
「西棟です! ですが……」
職員の言葉は、最後まで届かなかった。
次の瞬間、施設全体が――軋んだ。
建物が揺れたわけではない。
音が鳴ったわけでもない。
それでも、確かに感じた。
空間そのものが、悲鳴を上げた。
「っ……!」
私は足を止め、即座に修復具を取り出した。
銀の針が、震えている。
これほど激しく反応するのは、初めてだった。
歪みが――増殖している。
恋による歪みは、通常一点に集中する。
だが今、施設内の空間には、無数の微細な裂け目が走っている。
まるで、世界が感情の置き場を失ったかのように。
「修復師さん!」
監査官が駆け寄ってくる。顔色が悪い。
「彼が……何かを見ているようなんです」
「見ている?」
「誰もいない場所に向かって話しかけている。
それも、ひとりやふたりじゃない。
……複数です」
私は息を呑んだ。
それは、歪みが像を結び始めている兆候だ。
しかも、感情を核にしない歪みが、像を。
「彼は今どこに」
「西棟の記録室です」
私は迷わず走り出した。
***
西棟の廊下は、異様な静けさに包まれていた。
警報は鳴り続けているのに、音が遠い。
足音も、呼吸音も、吸い込まれていく。
まるで、世界が一段、奥に引っ込んだような感覚。
壁に貼られた案内板の文字が、ところどころ欠けている。
記録室の文字から、「録」の一部が消えかけていた。
私は唇を噛んだ。
これは、完全な歪みだ。
しかも――
「……記憶、か」
記録室は、人の記憶を保管する場所だ。
報告書、証言書、修復履歴。
この世界が「なかったこと」にしないための、最後の防波堤。
その場所で歪みが起きている。
扉の前に立つと、内側から低い声が聞こえた。
「……違う」
青年の声だ。
「それも違う。……君じゃない」
私は息を殺し、そっと扉を押した。
中は――異様だった。
書架が倒れている。
紙が宙に浮き、ページが勝手にめくられている。
だが、風はない。
青年は部屋の中央に立っていた。
両手を軽く広げ、周囲の何かを受け止めるような姿勢で。
彼の周りに、半透明の人影が浮かんでいる。
ひとつではない。
年齢も、性別も、服装も違う。
誰もが、どこか欠けている。
顔が曖昧だったり、輪郭が途中で途切れていたり。
――存在から削り取られた人たちだ。
「……見えてしまうんだ」
青年は、私に気づかず呟いた。
「世界から落ちた人たちが。
忘れられた人たちが。
……声を、上げてる」
私は喉が凍るのを感じた。
修復師は、歪みを感じることはできる。
だが、見えることはない。
見えるのは――
「……核」
歪みの中心に立つ存在だけだ。
青年は、歪みの受信点になっている。
「彼らは、恋をしたわけじゃない」
青年が言った。
「ただ、誰かに必要とされたかった。
忘れられたくなかった。
それだけで……世界から弾かれた」
人影たちが、ざわめく。
感情のないはずの空間が、確かに揺れた。
「だから、僕は分かる」
青年が、ゆっくりと私の方を向いた。
初めて、彼の目に色があった。
恐れでも、怒りでもない。
共鳴だ。
「あなたも、欠けている」
私は一歩、後ずさった。
「……違う」
「違わない」
青年は、私をまっすぐ見た。
「あなたは、役割で自分を縫い止めている。
修復師という名前で、心の裂け目を塞いでいる」
胸が痛む。
否定したいのに、言葉が出ない。
「それは、修復じゃない」
青年は静かに言った。「ただの固定だ」
その瞬間。
私の腰のケースが――弾けた。
修復具の針が、床に散らばる。
一本が、カラン、と音を立てて転がった。
私は凍りついた。
修復具が、自壊することなどあり得ない。
それは、修復師としての私の延長だ。
「……やめて」
私は震える声で言った。
「あなたは知らない。
修復師でなければ、私は――」
言葉が、続かなかった。
妹を失った自分を、どう説明すればいい。
恋を選んだ自分を、どう正当化すればいい。
青年は一歩、近づいた。
人影たちが、彼の背後で揺れる。
「あなたは、世界を守った」
彼は言った。
「でも、あなた自身は――誰が修復した?」
その問いは、針より鋭かった。
私は、膝から力が抜けるのを感じた。
修復師は、世界を縫う。
人の心は縫わない。
自分の心も、縫わない。
それが正しいと、信じてきた。
でも――
縫わなかった結果、何が残った?
失った妹。
止まった感情。
壊れ続ける世界。
私は、何を守ってきたのだろう。
警備兵たちの足音が、廊下から迫る。
現実が、戻ってくる。
青年は、私に手を伸ばしかけて――止めた。
「……まだだ」
彼は呟いた。
「今、触れたら……あなたは、完全に壊れる」
その言葉に、私は息を呑んだ。
青年は、人影たちに向き直る。
「帰って。……今は、まだ」
人影たちは、名残惜しそうに揺れ、
やがて、空気に溶けるように消えた。
歪みが、わずかに収束する。
警備兵がなだれ込んできた。
拘束具が展開され、青年の周囲を囲む。
だが、彼は抵抗しなかった。
最後に、私を見て言った。
「あなたは、修復師でいられなくなる」
それは予言ではない。
確認だった。
「でも――それは、悪いことじゃない」
青年は静かに微笑んだ。
私は、何も言えなかった。
修復師としての私が、
音を立てて崩れていくのを、
ただ聞いていることしかできなかった。




