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恋をすると、世界がひとつ壊れる  作者: Futahiro Tada


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縫えない裂け目

縫えない裂け目


 施設を出た瞬間、空気が変わった。

 冷たい。

 それも、夜の冷え込みとは違う。

 世界そのものが、息を止めているような冷たさだった。

 私は無意識に足を止め、空を見上げる。

 夕暮れはすでに終わり、夜に向かうはずの空は、なぜか色を失っていた。星も、雲も、月の輪郭さえ曖昧だ。

「……来ている」

 修復師としての感覚が、嫌な方向に尖る。

 監査官も異変に気づいたらしい。足を止め、眉をひそめる。

「歪みの兆候ですか」

「ええ。しかも……近い」

 施設の敷地を出て、石畳の街道を数歩進んだところで、それははっきりした。

 街灯の光が、途中で途切れている。

 影ではない。光そのものが、そこだけ存在しない。

 まるで、夜が一部だけ切り取られたように。

「報告にはなかった……」

 監査官が声を潜める。

「当然です」私は言った。「これは、さっき生まれた歪み」

 しかも――

「恋が原因ではない」

 自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。

 監査官がこちらを見る。

「断定できますか」

「……ええ」

 私は腰のケースから修復具を取り出した。

 銀の針が、何も触れていないのに微かに震えている。

 恋による歪みは、もっと熱を持つ。

 感情の名残が空気に滲み、縫うたびに胸がざわつく。

 だが、この歪みは冷たい。

 感情が、削ぎ落とされている。

「感情の欠落による歪み……?」

 監査官が呟いた。

 私は答えなかった。

 答えたくなかった、という方が正しい。

 こんな歪み、教本には載っていない。

 修復師として訓練された中で、一度も。

 ――心が欠けていること自体が、世界を壊す?

 そんな理屈が成り立つなら、

 この世界はとっくに崩壊しているはずだ。

 私は歪みの縁に膝をつき、針をかざした。

 空間の裂け目は、薄く、鋭い。

 布ではなく、氷を裂いたような感触が指先に伝わる。

 縫える。

 縫えるはずだ。

 私は慎重に針を進めた。

 ――その瞬間。

 針先が、空間に弾かれた。

 金属音が短く鳴り、針が私の指から落ちる。

 あり得ない。修復具が拒まれることなど。

「……っ」

 私は息を詰め、すぐに針を拾った。

 もう一度。今度は角度を変えて。

 再び、弾かれる。

 針が、地面を転がった。

 世界が、修復を拒否している。

「修復師さん……?」

 監査官の声が、遠く聞こえる。

 私は立ち上がり、歪みを見つめた。

 裂け目の奥に、何かが見える気がした。

 ――人影。

 それは一瞬で消えたが、私の胸は強く締めつけられた。

 似ている。

 あまりにも、似ている。

 あの日、妹が消える直前に見た揺らぎと。

「……撤退します」

 私は言った。

「え?」

「この歪みは、今の私では扱えない。

 記録だけ残して、後日――」

 言い切る前に、背中がぞくりと冷えた。

 背後から、声がした。

「お姉ちゃん」

 世界が止まった。

 ゆっくり、ゆっくりと振り返る。

 街道の向こう、歪みの縁に――少女が立っていた。

 長い髪。

 懐かしい仕草。

 忘れるはずがない。

 ――妹だ。

 呼吸が、完全に止まる。

「……そんな、はずは」

 幻覚だ。

 歪みが引き起こす残像。

 過去の記憶が、空間に投影されているだけ。

 わかっている。

 修復師として、何度も見てきた。

 それでも、足が動かない。

 妹は、私を見て微笑んだ。

 あの頃と同じ、無邪気な笑顔で。

「久しぶり。……ねえ、まだ恋、してないの?」

 胸の奥が、音を立てて崩れた。

「……来ないで」

 かすれた声が、自分のものだと理解するまでに時間がかかった。

「世界のために、我慢してるんでしょ?」

 妹は一歩、歪みのこちら側へ踏み出した。

 その瞬間、空気が悲鳴を上げる。

 裂け目が、音もなく広がった。

「やめて!」

 私は叫び、反射的に修復具を構えた。

 針を構える手が、震える。

 妹は首を傾げた。

「どうして? だって、世界はもう――」

 その言葉の続きを、私は聞かなかった。

 強い光が走り、視界が白く染まる。

 次の瞬間、誰かに腕を掴まれ、強く引き戻された。

「下がれ!」

 監査官の声だった。

 私は転ぶように後退し、地面に膝をついた。

 顔を上げると、歪みは縮小していた。

 妹の姿も、そこにはない。

 まるで、最初からいなかったかのように。

 私はその場に崩れ落ち、しばらく動けなかった。

 ――見てしまった。

 修復師が、見てはいけないものを。


 ***


 同じ頃。

 保護施設の中では、静かな異変が起きていた。

 青年は、自分の部屋のベッドに腰掛け、天井を見つめていた。

 相変わらず、心拍は安定。呼吸も乱れない。

 けれど、彼の内側では、確実に何かが動いていた。

 胸の奥。

 そこにあるはずの何かが、ざわついている。

 ――欠けている場所。

 あの修復師を見たとき、はっきりと輪郭を持った感覚。

 今は、それが熱を帯び始めている。

 彼は、無意識のうちに胸に手を当てていた。

「……変だ」

 声に出しても、答えは返らない。

 だが、確かに感じる。

 誰かが、近くにいる。

 部屋の隅。

 拘束符の影。

 そこに、薄い人影が揺れた。

 青年は驚かなかった。

 なぜなら、それは恐怖よりも――懐かしさを伴っていたからだ。

「……君は」

 人影は答えない。

 けれど、確かに見ている。

 青年の胸の奥で、何かがはじけた。

 ――これが、感情?

 初めての衝動。

 理由も、名前も分からない。

 ただ、逃したくないと思った。

「待って」

 青年が一歩踏み出した瞬間、

 拘束符が、音を立てて剥がれ落ちた。

 符が床に散り、光が消える。

 警報が鳴り響く。

 職員たちの叫び声。

 廊下を駆ける足音。

 けれど青年は、それらを気に留めなかった。

 視線は、人影だけを追っている。

 人影は、扉の向こうへ滑るように消えた。

 青年は、扉に手をかけた。

 開けてはいけない。

 そういう理屈は、分かる。

 それでも。

「……壊れてもいい」

 彼は、誰にともなく呟いた。

 その言葉が発せられた瞬間、

 施設全体が、微かに軋んだ。


 ***


 夜。

 私は自室で、修復具を分解していた。

 手は震えている。

 針を磨く布が、何度も指から滑り落ちる。

 あれは幻ではない。

 歪みが、私の記憶を利用して現れたのだ。

 ――妹の影。

 そして、あの冷たい歪み。

 すべてが、ひとつの点に収束し始めている。

 私は、青年の顔を思い出していた。

 感情を持たない瞳。

 欠けた場所を指摘する言葉。

 あの青年が、歪みの中心にいる。

 そして、最悪なことに。

 私の過去も、そこに絡みついている。

 窓の外で、遠く警報が鳴った。

 胸が、嫌な予感で満たされる。

「……始まった」

 修復師としてではなく、

 一人の人間として。

 私は初めて、そう確信していた。

 これは、修復できない歪みだ。

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