恋をすると、世界がひとつ壊れる
恋をすると、世界がひとつ壊れる
世界は、完全には元に戻らなかった。
それは、もう誰も否定しなかった。
空の端には、今も薄い歪みが残っている。
夜になると、星の並びがわずかに狂い、
見慣れたはずの空が、ほんの少しだけ違って見える。
人々は、その違和感に慣れ始めていた。
慣れる、というより――
受け入れる、と言った方が近い。
世界が完璧ではないことを。
失われたものが、二度と戻らないことを。
それでも、
朝が来ることを。
***
私は、丘の上に立っていた。
かつて修復師として、
何度も歪みを塞いだ場所だ。
今は、
何もしない。
ただ、
立って、見る。
歪みは、
風のように揺れている。
塞がれることも、
広がることもない。
まるで、
この世界の一部として
存在することを選んだみたいに。
「……やっぱり、
ここにいた」
背後から、
彼の声がする。
振り返ると、
彼が歩いてきていた。
昔より、
少しだけ、
背中がたくましくなった。
「考えごと?」
「ええ」
「世界の?」
私は、首を振る。
「私の」
彼は、
それ以上訊かなかった。
隣に立ち、
一緒に空を見る。
それが、
今の私たちの距離だった。
***
「……覚えてる?」
彼が言う。
「最初に会ったとき」
私は、
小さく笑った。
「ええ」
忘れるはずがない。
記憶を失い、
恋を知らず、
それでも世界を揺らしていた青年。
彼の存在そのものが、
この物語の始まりだった。
「僕はさ」
彼は、空を見たまま続ける。
「ずっと思ってた」
少し、
間を置く。
「恋をすると、
世界が壊れるなら」
私は、
続きを待つ。
「恋なんて、
最初から
しなければよかったんじゃないかって」
その言葉は、
責めでも、
後悔でもなかった。
ただの、
問いだった。
「……今は?」
私は、
静かに尋ねる。
彼は、
しばらく黙ってから、
笑った。
「今は」
足元の草を踏みしめる。
「世界が壊れたのは、
恋のせいじゃないって思ってる」
私は、
彼を見る。
「世界は、
最初から
壊れやすかった」
彼の声は、
穏やかだった。
「恋は、
それを
見えなくしなかっただけだ」
***
私は、
妹のことを思い出していた。
彼女が消えた日。
恋をして、
笑って、
そして世界から失われた。
あのとき、
私は世界を憎んだ。
恋を憎んだ。
感情を、
すべて封じれば、
世界は壊れないと信じた。
でも。
壊れない世界は、
生きていない世界だった。
「……妹がね」
私は、
久しぶりに口にした。
「恋をしたとき、
すごく嬉しそうだった」
彼は、
何も言わずに聞いている。
「世界が壊れるなんて、
知らなかった」
「……うん」
「それでも」
私は、
空を見上げる。
「私は、
あの笑顔を、
間違いだと思いたくない」
彼は、
静かに頷いた。
***
私たちは、
もう世界を修復しない。
でも、
壊れた場所から
目を逸らさない。
歪みが起きたら、
話し合う。
誰かが失われたら、
名前を残す。
世界は、
少しずつ、
そのやり方を覚え始めている。
失わないためではなく、
失ったあとに、
何を選ぶかを
問うために。
それが、
この世界の新しい形だった。
***
夕方。
太陽が、
歪みの向こうに沈んでいく。
光は、
まっすぐではない。
少し、
曲がっている。
でも、
ちゃんと届く。
「……ねえ」
彼が、
私の手を取る。
「世界が、
また壊れたら」
私は、
その続きを知っている。
「……うん」
「それでも、
選ぶ?」
私は、
迷わなかった。
「ええ」
答えは、
ずっと前から
決まっている。
「何度でも」
彼は、
微笑んだ。
それは、
恋の始まりの顔じゃない。
終わりの顔でもない。
続いていく人の顔だった。
***
世界は、
壊れやすい。
恋をすると、
ひとつ、
確かに壊れる。
場所かもしれない。
仕組みかもしれない。
昨日までの安心かもしれない。
でも。
壊れた世界で、
それでも誰かを選ぶという行為は、
世界を捨てることじゃない。
世界を引き受けることだ。
私は、
彼と歩き出す。
歪みの残る空の下で。
完璧ではない世界で。
それでも。
恋をすると、
世界がひとつ壊れる。
だからこそ――
私たちは、
選び続ける。
壊れても、
ここにいると。
それが、
この物語の、
最後の一行だった。
〈了〉




