壊れたまま、朝は来る
壊れたまま、朝は来る
朝は、普通に来た。
世界が裂けた夜のあとでも、
空は白み、
鳥は鳴き、
人は目を覚ます。
それが、少しだけ不思議だった。
何かが決定的に変わったはずなのに、
何も変わっていないようにも見える。
私は、窓を開けた。
風が入る。
少し、冷たい。
空の端に、
まだ歪みは残っていた。
夜空を裂いていた亀裂は、
今は薄い影のようになって、
雲の向こうに沈んでいる。
完全には消えていない。
でも、
広がってもいない。
それが、この世界の現在地だった。
***
彼は、台所にいた。
水を汲み、
火を起こし、
鍋をかけている。
動作は、まだ少しぎこちない。
それでも、
昨日よりは慣れていた。
「……おはよう」
「おはよう」
それだけで、
胸の奥が、少しだけ落ち着く。
言葉は、
特別じゃない。
でも、
「今日もいる」という事実が、
何よりの証明だった。
「外、どう?」
彼が尋ねる。
「……残ってる」
私は正直に答えた。
「歪みは」
「うん」
彼は頷く。
「消えてないよね」
「ええ」
沈黙。
それは、
気まずさではなかった。
確認だ。
私たちは、
都合のいい希望を
持たないと決めている。
「……それでも」
彼が言った。
「壊れてない」
私は、頷いた。
「ええ」
壊れてはいない。
でも、
治ってもいない。
それでいい。
***
町は、少しずつ動き始めていた。
歪みの影響で、
通れなくなった道。
形が曖昧になった建物。
完全には修復されないまま、
人々は、別の動線を作り、
仮の支えを置き、
暮らしを続けている。
「……不便だな」
誰かが言う。
「前の方が、
楽だった」
それは、
否定できない事実だった。
感情が抑制されていた頃、
世界は、
もっと安定していた。
人は、
失わなかった。
正確には、
失っていることに
気づかなかった。
今は違う。
小さな喪失が、
日常に現れる。
でも、
誰が、
どこで、
なぜ失われたのか。
それが、
見える。
「……ねえ」
町の子どもが、
空を指さす。
「まだ、割れてるね」
母親が、
少し考えてから答えた。
「ええ」
「こわくない?」
「……こわいわよ」
正直な答え。
「でもね」
母親は、
子どもの肩に手を置く。
「こわいって言える世界の方が、
ずっとましなの」
私は、
それを聞いて、
少しだけ息を吐いた。
***
夜になると、
彼と私は、
外に出ることが多くなった。
空を見るためだ。
歪みは、
昼より夜の方が、
はっきり見える。
星の配置が、
微妙にずれている。
世界は、
完全な秩序を
失っている。
「……もしさ」
彼が、
ぽつりと言った。
「あのとき、
離れてたら」
私は、
答えを急がなかった。
「世界は、
もっと安定してたと思う?」
私は、
正直に考える。
「……一時的には」
「やっぱり」
彼は、苦笑した。
「でも」
私は続ける。
「その安定は、
選ばなかった結果よ」
彼は、
黙った。
「壊れない代わりに、
進まない」
私は、
夜空を見る。
「それを、
世界が選ぶなら、
私たちは、
ここにいない」
彼が、
小さく息を吸う。
「……後悔、してる?」
その問いは、
何度も、
胸の中で
繰り返されてきた。
私は、
ゆっくり首を振る。
「怖いし、
不安だし、
全部を背負えるわけじゃない」
一度、
言葉を切る。
「でも」
彼を見る。
「後悔だけは、
してない」
彼は、
しばらく黙ってから、
笑った。
「……よかった」
それは、
恋の言葉ではなかった。
でも、
これ以上ない
確信だった。
***
世界は、
少しずつ変わっていく。
急激ではない。
革命でもない。
ただ、
感情を理由に
排除する仕組みが、
機能しなくなった。
修復師は、
もう存在しない。
代わりに、
「観測者」と呼ばれる人々が、
歪みを記録する。
直さない。
消さない。
ただ、
起きたことを残す。
失われたものを、
なかったことにしない。
その積み重ねが、
世界の形を
少しずつ変えている。
***
私は、
針を持たなくなった。
でも、
何もしていないわけじゃない。
歪みの近くで、
人の話を聞く。
怒り。
悲しみ。
喜び。
それらが、
世界にどう作用するのかを、
一緒に考える。
かつての私は、
「守る側」だった。
今は、
引き受ける側だ。
彼も、
変わった。
自分の能力を、
特別視しなくなった。
世界に影響を与える存在だと
理解した上で、
それに溺れない。
「……普通に生きたいな」
彼が言う。
「それ、
いちばん難しいわよ」
私が返すと、
彼は笑う。
普通は、
奇跡より難しい。
***
夜。
灯りを落とした部屋で、
私は思う。
世界は、
完全には癒えない。
歪みは、
これからも起きる。
失われるものも、
出てくる。
それでも。
壊れたまま、
朝は来る。
選び続けた結果として。
そして、
また選ぶ。
今日も、
明日も。
第5章は、
静かに、
最後の扉の前に立っている。
答えは、
もう出ている。
残るのは、
それを生き続けることだけだ。




