それでも、手を離さなかった
それでも、手を離さなかった
歪みは、ある日突然、音もなく現れた。
朝、井戸へ水を汲みに行った彼が、
しばらくして戻ってこなかった。
「……遅い」
私は、空を見上げる。
雲の形が、少し不自然だった。
流れているはずの風が、
途中で引っかかっている。
嫌な予感が、胸の奥をかすめる。
修復師だった頃の癖が、
今も身体に残っている。
歪みは、
派手なときより、
静かなときの方が危険だ。
私は、外套を掴んで家を出た。
***
井戸の周囲には、
人だかりができていた。
誰も騒いでいない。
ただ、立ち尽くしている。
「……どうしたんですか」
声をかけると、
年配の女性が振り返った。
「井戸が……」
その先を、
言葉にできずにいる。
私は、人垣をかき分けて前に出た。
井戸は、そこにあった。
けれど――
底がなかった。
水面が、途中で途切れている。
石組みの輪郭が、
途中から消えている。
歪みだ。
だが、
修復師が知っているような、
完全な欠落ではない。
中途半端で、
曖昧で、
それだけに厄介な歪み。
「……彼は?」
私が尋ねると、
誰かが指をさした。
井戸の縁。
彼は、そこに座っていた。
無事だ。
怪我もない。
それだけで、
胸が少しだけ緩む。
「……大丈夫?」
駆け寄ると、
彼は、ゆっくり顔を上げた。
「うん」
でも、
声が少し掠れている。
「水を汲もうとしたら」
彼は、井戸の中を見つめる。
「……途中で、
手応えがなくなった」
私は、井戸を覗き込んだ。
底が、
存在しない。
これは――
恋による歪みではない。
もっと小さく、
もっと生活に近い感情。
不安。
迷い。
積み重なった疲労。
世界は、
感情を禁止しなくなった代わりに、
即座に反応するようになった。
「……修復、できないわ」
私は、そう言った。
昔なら、
迷わず針を取り出していた。
でも、
今の私は修復師じゃない。
それに――
この歪みは、
塞げばいいものじゃない。
「……井戸、使えなくなる?」
誰かが、恐る恐る訊いた。
私は、正直に答える。
「ええ」
人々の間に、
小さなどよめきが走る。
水は、生活だ。
この町にとって、
井戸は命そのもの。
それを失うのは、
小さくて、致命的な喪失だった。
***
その日のうちに、
町の人々は集まった。
代替の水源を探す。
川から引く。
遠くの町と交渉する。
誰も、
「元に戻せ」とは言わなかった。
それが、
この世界の変化だった。
でも。
「……これ、
私たちのせいだよね」
夜、彼がぽつりと言った。
灯りの下で、
彼は手を見つめている。
「感情を解放したから、
歪みが……」
私は、すぐには否定しなかった。
それは、
半分、正しいから。
「ええ」
私は、静かに言った。
「関係は、ある」
彼の肩が、強張る。
「じゃあ……」
「でも」
私は、続けた。
「原因じゃない」
彼を見る。
「感情がなかった頃も、
歪みは起きていた」
ただ、
見えない場所で、
誰かが消えていただけ。
「違いは」
私は、言葉を選ぶ。
「今は、
失う前に、気づける」
彼は、唇を噛んだ。
「……でも」
「ええ」
私は、頷く。
「失うこと自体は、
避けられない」
それが、
選び続ける世界の代償だ。
***
数日後、
井戸は完全に封鎖された。
水は、遠くから運ばれる。
不便になった。
面倒が増えた。
それでも、
町は壊れなかった。
人々は、
話し合い、
役割を分け、
助け合った。
「……前より、
大変だね」
彼が、重い水桶を運びながら言う。
「ええ」
私は、同意した。
「前より、
ずっと」
腕は痛い。
足も疲れる。
でも、
誰かが消えるよりは、
ずっといい。
***
夜。
疲れ切って、
私たちは床に座り込んだ。
「……ねえ」
彼が言う。
「正直さ」
私は、顔を向ける。
「井戸が消えたとき、
一瞬、
怖くて」
息を吸う音。
「手を離そうかと思った」
胸が、きゅっと締まる。
それは、
責める言葉じゃない。
とても、
正直な告白だった。
「……それで?」
私は、ゆっくり訊いた。
「……やめた」
彼は、苦笑した。
「失ったものより」
私を見る。
「離したあとに、
何が残るか考えた」
私は、何も言えなくなった。
「世界は」
彼が続ける。
「壊れてないけど、
完璧でもない」
「ええ」
「それでも」
彼は、私の手を取った。
「君といるとき、
壊れてるのは、
世界じゃない」
胸の奥が、
熱くなる。
歪みは、起きない。
井戸は戻らない。
不便も消えない。
それでも、
恋は壊れなかった。
***
私は、修復師ではない。
だから、
失われたものを
元に戻せない。
でも。
失ったとき、
何を選ぶかは、
一緒に決められる。
それが、
この世界の価値だった。
壊れない世界は、
もうない。
でも。
壊れたあとに、
手を離さない世界は、
確かに存在する。
第5章は、
静かに、
終わりへ向かっている。
選び続けるという行為が、
どれほど不器用で、
どれほど尊いかを、
確かめながら。




