壊れたまま、朝は来る
第5章
壊れたまま、朝は来る
世界は、完全には癒えなかった。
それは、誰の目にも明らかだった。
空には、相変わらず細かな揺らぎが残り、
街の輪郭は、場所によって少し歪んでいる。
消えたまま戻らないものも、確かに存在した。
――それでも、朝は来る。
それが、この世界の選んだやり方だった。
「……起きてる?」
彼の声が、静かな部屋に響く。
「ええ」
私は、カーテン越しの光を見つめたまま答えた。
修復局を離れてから、私たちは小さな町に身を寄せていた。
中心から外れた場所。
歪みが多く、管理も行き届かない、
けれど人の暮らしが消えなかった場所。
かつてなら、
修復師が真っ先に切り捨てていた区域だ。
「今日は、どうする?」
彼が、湯を沸かしながら訊く。
「市場に行きたいわ」
私は、そう答えた。
「野菜、残ってる?」
「……少しだけ」
「じゃあ、買い足しましょう」
それだけの会話。
世界の命運を左右した二人の朝としては、
驚くほど、平凡だった。
***
市場は、以前より騒がしくなっていた。
人々は、よく話す。
よく立ち止まる。
そして、よく迷っている。
感情を隠さなくなった分、
衝突も増えた。
誤解も、摩擦も、確実に。
「……前より、うるさいですね」
彼が、苦笑する。
「ええ」
私は、同意した。
「でも、
前より生きてる」
怒鳴り声の向こうで、
誰かが笑っている。
怒った直後に、
謝っている人もいる。
秩序は、崩れた。
でも、
無音ではなくなった。
***
この世界では、
もう誰も「完全な安全」を約束しない。
恋をしても、
歪みが起きないとは言えない。
ただ、
必ず世界が壊れるとも言えなくなった。
それは、
とても不安定で、
とても中途半端な状態だ。
「……ねえ」
彼が、野菜を選びながら言う。
「正直さ」
私は、彼を見る。
「うん」
「この世界、
前よりずっと難しい」
私は、笑った。
「知ってる」
「感情、
出したら出したで、
責任が増える」
「ええ」
「出さなかったら、
それもまた、
選択になる」
彼は、ため息をついた。
「……疲れるね」
私は、しばらく考えてから言った。
「でも」
彼が、こちらを見る。
「誰かの代わりに選ばされるよりは、
まし」
その言葉に、
彼は静かに頷いた。
***
午後、
私たちは川沿いを歩いた。
水面は、ところどころ途切れ、
流れが不自然に止まっている場所もある。
世界は、
完全には繋がっていない。
それでも、
水は流れようとしている。
「……修復しないんですか?」
通りすがりの子どもに、
そう訊かれた。
私の腰に、
もう修復具はない。
「しないわ」
私は、しゃがんで答える。
「どうして?」
子どもは、
純粋な目で見てくる。
私は、少し迷ってから言った。
「ここが壊れてるって、
みんなが知ってるから」
「知ってたら、ダメ?」
「いいえ」
首を振る。
「知ってたら、
気をつけられる」
子どもは、
少し考えてから言った。
「じゃあ、
落ちないようにすればいいんだ」
私は、笑った。
「そうね」
それが、
この世界の新しい答えだった。
***
夜。
部屋に戻ると、
彼が、窓辺に立っていた。
「……今日さ」
振り返らずに言う。
「一瞬、
怖くなった」
私は、黙って近づく。
「もし、
僕が選び間違えたら」
声が、わずかに震える。
「誰かが、
消えるかもしれない」
私は、彼の隣に立つ。
「ええ」
否定しない。
「その可能性は、
ゼロじゃない」
彼は、目を伏せた。
「……それでも?」
私は、ゆっくり言った。
「それでも、
選ばないという選択は、
もうできない」
彼は、苦しそうに笑った。
「残酷だね」
「ええ」
私は、彼の手を取る。
「でも、
人間的」
歪みは、起きない。
完璧に制御されているわけじゃない。
ただ、
無理をしていない。
***
私は、修復師ではない。
世界を、
元通りにする人間でもない。
ただ、
壊れた場所を見て、
「ここは危ない」と言える人間だ。
恋をして、
揺れて、
迷って、
それでも、選ぶ人間だ。
「……ねえ」
彼が、静かに言う。
「この世界、
ちゃんと終わるのかな」
私は、少し笑った。
「終わらないわ」
「どうして?」
「終わらせる人が、
いないから」
世界は、
修復されないまま続く。
でも、
選び続ける人がいる限り、
壊れきらない。
それが、
この世界の結論だった。
第5章は、
ここから始まる。
壊れたまま、
それでも歩く物語。
恋は、
奇跡じゃない。
ただ、
選び続ける行為だ。




