名前を返したあとの世界
名前を返したあとの世界
修復師をやめた翌朝、
世界は、驚くほど普通だった。
空は曇り、
遠くで誰かが咳をし、
街路樹の葉が、季節外れの風に揺れている。
――何も、祝福していない。
――何も、拒んでもいない。
それが、
世界の選んだ態度だった。
「……静かだね」
彼が、窓の外を見ながら言った。
「ええ」
私は、頷いた。
「嵐の前というより、
嵐をやり過ごしたあとの静けさ」
世界は、
答えを出さなかった。
だからこそ、
余韻が、
長く、重く残る。
***
修復師制度の解体は、
一夜で終わるものではなかった。
公式には、
「移行期間」という言葉が使われる。
だが実際には、
多くの修復師が、
職務を失った。
ある者は、
新制度の準備班へ。
ある者は、
観測や記録の仕事へ。
そして、
ある者は――
行き場を失った。
「……あなたの元部下から、
連絡が来てる」
彼が、端末を差し出す。
画面には、
短いメッセージ。
あなたが辞めた理由、
少し分かった気がします。
でも、
私には、まだ怖い。
私は、しばらくその文字を見つめた。
責める言葉ではない。
許しでもない。
ただの、正直な感情。
「……返事は、しない」
私は、端末を返す。
「今は、
答えを出せる立場じゃない」
それが、
修復師を終えた者の
最初の誠実さだった。
***
世界は、
恋を禁止しなくなったわけではない。
ただ、
罰を即座に下さなくなった。
それは、
希望でもあり、
同時に、新しい不安でもある。
「……ねえ」
彼が、ふと訊いた。
「もしさ」
言葉を選ぶように、
一拍置く。
「もし、
僕たちがいなくなったら」
私は、彼を見る。
「世界は、
元に戻ると思う?」
その問いは、
とても現実的だった。
私は、正直に答える。
「……部分的には」
彼は、苦く笑う。
「だよね」
「でも」
私は、続けた。
「完全には戻らない」
名前が、返ったから。
妹の名前。
彼の選んだ名前。
そして、
恋という言葉。
一度、
世界がそれを知ってしまった以上、
なかったことにはできない。
「だから」
私は、彼の方へ向き直る。
「私たちがいなくなっても、
問いだけは残る」
それで、十分だった。
***
午後。
私たちは、
旧修復局の倉庫を整理していた。
私物を回収するためだ。
埃の積もった棚。
壊れかけの修復具。
使われなくなった記録端末。
かつて、
世界を守ると信じられていた道具たち。
「……これ」
彼が、
一冊の古い手帳を手に取った。
「君の?」
私は、頷いた。
「修復師になったばかりの頃の」
彼は、
無断で開いたりしない。
ただ、
表紙を撫でる。
「……重たいね」
「ええ」
私は、笑った。
「罪悪感で、
ぎっしり」
それは、
もう必要ないものだ。
私は、手帳を受け取り、
しばらく考えてから――
棚に戻した。
「置いていく」
彼が、驚いた顔をする。
「いいの?」
「いい」
私は、はっきり言った。
「もう、
あの頃の私には、
戻らないから」
修復師を終えるとは、
記録を持ち出さないことでもある。
***
夕方。
世界の歪みは、
完全には消えていない。
むしろ、
少しずつ増えている。
小さな揺らぎ。
微かな欠け。
だが、
それらはすぐに
破滅へは向かわない。
人々が、
立ち止まり、
話し合うからだ。
「……ねえ」
彼が言う。
「僕、
たぶん完璧じゃない」
私は、少し笑った。
「知ってる」
「感情、
安定させきれない時もある」
「知ってる」
「世界を、
守れないかもしれない」
私は、
彼の言葉を遮らず、
最後まで聞く。
「それでも」
彼が、続ける。
「……君といる」
その言葉は、
宣言ではない。
逃げ道のない、
選択の継続だ。
私は、
彼の手を取った。
「それでいい」
歪みは、起きない。
それは、
奇跡でも、
能力でもない。
ただ、
無理をしていないから。
***
夜。
世界は、
まだ答えを出していない。
でも、
私たちは、
もう待たない。
修復師は、終わった。
制度は、揺らいだ。
恋には、名前が与えられた。
それだけで、
十分すぎるほどだ。
「……ねえ」
私が言う。
「第5章では、
どうなると思う?」
彼が、少し考えてから答える。
「……多分」
「多分?」
「簡単じゃない」
私は、笑った。
「それは、
間違いないわね」
第4章は、
ここで終わる。
次に始まるのは、
革命の続きでも、
制度の再建でもない。
名前を持ったまま、
生き続ける話だ。
世界が壊れなくても、
私たちは揺れる。
揺れても、
選び続ける。
それが、
修復師のいない世界での
最初の一歩だった。




