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恋をすると、世界がひとつ壊れる  作者: Futahiro Tada


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愛した覚えのない人

愛した覚えのない人


 保護施設は、街の北端――川沿いの湿った風が流れ込む場所に建っていた。

 石造りの外壁は無機質で、窓は細く、光を通すよりも拒むためにあるように見える。門扉の前で足を止めた瞬間、胸の奥がきしむように鳴った。

 ここは、私にとって「修復の現場」ではない。

 現場はいつも外にある。

 空が欠け、道が裂け、誰かの痕跡が消える場所。

 私はそこへ行き、縫い、戻し、去る。それだけのはずだった。

 なのに今回は――「人」に会いに来ている。

 監査官が先に立ち、門番へ身分証を見せた。

 門の金具が重く擦れる音がして、扉が開く。中へ足を踏み入れると、空気が変わった。冷たい。清潔。だけどどこか、消毒液では消せない匂いがする。

 誰かが泣いた匂い。

 誰かが忘れた匂い。

「こちらです。……修復師さん」

 監査官は私をそう呼ぶ。名前ではなく、役割で。

 それが正しい。私にはそれでいい。そう思ってきた。

 廊下を歩きながら、私は指先を手袋の中で握りしめた。

 修復具が腰のケースに重く沈んでいる。まるで、危険物を持ち込むなと言わんばかりに。

「その人物は……どんな状態なんですか」

 声を低く抑える。施設の壁は薄い。言葉は反響して、余計なものまで呼び寄せる。

「落ち着いています。暴れたりはしません。食事も取る。睡眠も。会話も可能です」

「……記憶だけが、ない?」

「恋の記憶が、です。本人の生活に関する記憶は概ね正常。ただし、いくつかの空白がある。具体的には……」

 監査官が書類を開き、淡々と指で追う。

「ここ一週間ほどの行動記録が曖昧です。『気づいたら施設にいた』と述べています。なお、身元は確認済み。近隣の町の出身で、親類も存在する。しかし」

 監査官の声が一段落ちた。

「親類は、彼のことを知らないと言っています」

 私は足を止めかけた。

 背筋を冷たいものが撫で、気づけば呼吸が浅くなっている。

「……知らない?」

「存在の否定ではありません。そんな人はうちにいないと。

 あなたもわかるでしょう。歪みの性質です。世界が壊れたとき、人は時に、そこにいた人間を忘れる」

 忘れる。

 消える。

 妹のことが一瞬、喉までせり上がったが、私は飲み込んだ。ここで感情を出すのは自殺行為だ。

「ただ、今回は妙です」監査官が続ける。「通常、当事者自身の記憶は強く残る。『愛した』という核があるから。

 ところが彼は――その核がない」

 廊下の突き当たりに、金属の扉があった。

 鍵穴が二つ。取っ手は内側へ引くタイプではなく、押すと開く。逃げるための扉ではない。押し戻されるための扉だ。

 門番ではない、制服姿の職員が扉の前に立っていた。表情は硬い。けれど目だけが、どこか疲れた動物のそれに似ている。

「担当の修復師の方ですか」

 監査官が頷く。

「面会の許可は取っています。短時間で」

 職員は小さく息を吐き、鍵を回した。

 扉が開く。中は面会室だった。ガラスの仕切りはない。代わりに、部屋の隅に魔術的な拘束の符が貼られている。古い形式。怖がりの施設ほど、古いものに縋る。

「彼は……中にいます。落ち着いてはいますが、刺激しないようにお願いします」

 職員がそう言って退き、扉が閉じた。

 金属の音が、私の胸の奥で鳴り続ける。

 面会室は小さかった。机が一つ、椅子が二つ。

 窓はあるが、外の景色が見えないよう曇りガラスだ。世界を見せない配慮。いや、世界に見せない配慮。

 そして――椅子に、青年が座っていた。

 最初に思ったのは、静かすぎる、ということだった。

 彼は手を膝の上に置き、背筋を伸ばして座っている。

 拘束符が貼られているのに、力で抗う気配もない。緊張しているようにも見えない。むしろ、ここが面会室であることすら、どうでもいいような顔をしている。

 目が、こちらを向いた。

 黒に近い色の瞳。

 まばたきが遅い。

 人を見ているのに、どこか遠くを見ている。

 監査官が名乗り、形式的な質問をいくつか投げた。

 青年は答える。声は低いが、荒れていない。発音も整っている。教育水準も感じる。だが、言葉の端々に、妙な空白がある。

「名前は言えますか」

「……言えます」

「では」

 青年は一拍置いた。

 その間が、長かった。考えているのか、思い出しているのか、あるいは――確認しているのか。

「……たぶん、これです」

 たぶん。

 私はその言葉に、微かな違和感を覚えた。

 名前は、たぶん、ではない。名前は自分の核だ。そう簡単に揺らがない。揺らぐとしたら、それは世界そのものが壊れているときだけ。

 監査官が帳簿に何かを書き込む。

 そして、私に視線を送った。

「――修復師さん。あなたの番です」

 心臓が、ひとつ遅れて打った。

 私は椅子を引き、青年の正面に座る。机越しではなく、向かい合う距離。近い。嫌になるほど。

 青年は私の顔を見た。

 その目に、恐れはない。好奇心も薄い。

 ただ、確かめるような静けさだけがある。

「あなたは、自分が何をしたのか覚えていますか」

 私はできるだけ平坦な声を作った。

 修復師の声だ。私の声ではない。

「……何を、とは」

「世界が壊れるようなことをした覚えがあるか、です」

 青年の指が、膝の上でわずかに動いた。

 ほんの小さな反応。けれど私は見逃さない。修復師は裂け目を見逃さないのと同じだ。

「壊れた、というのは……この街が?」

「歪みが起こった。欠けた場所がある」

「……それは、恋のせいだと」

 青年は監査官をちらりと見た。監査官は動かない。沈黙は肯定になる。

 青年は再び私を見る。

「なら、僕は誰かを愛したんですか」

 その問いは、驚くほど真っ直ぐだった。

 嘘も誇張もない、ただの疑問。

 私は思わず、言葉を詰まらせた。

「……通常は、そうです」

「通常、という言い方をしますね」

 青年の口元に、ほんの少しだけ笑みの影が浮かんだ。皮肉ではない。観察の結果のような笑い方だ。

「あなたは、通常ではないと思ってる」

 私は返答しなかった。否定すれば嘘になる。肯定すれば余計な扉が開く。

 修復師は扉を開けない。開けた瞬間、世界が壊れる。

 青年は、淡々と言った。

「覚えていません。……誰かを好きになった覚えはない」

「一週間前、あなたは誰と会っていましたか」

「……わからない。仕事には行ったと思う。けれど、その途中から曖昧です」

「恋をしていないのに、世界が壊れた。そう言われています」

「それは……変ですね」

 青年は首を傾げた。

 動きが滑らかで、人形のように無駄がない。

「恋が原因なのに、恋の記憶がない。

 なら、恋は僕の中にはなかった。……外にあった?」

 私は背筋を正した。

「どういう意味ですか」

「たとえば、誰かが僕を愛した。僕はそれを知らない。

 それでも世界は壊れた。

 ……そういうことは、あり得ますか」

 あり得る。

 そして、あり得てしまうことが怖かった。

 恋は相互ではない。

 片想いだけで人は壊れる。世界も。

 けれど通常、それほどの歪みを起こすには、当事者の感情の温度が高い。生半可ではない。命を削るほどの想いだ。

 私は青年を見た。

 この青年が、誰かにそんな想いを向けられるとは思えないほど、静かだ。

 だが――静かだからこそ、危うい。

「あなたに、心当たりは」

「ない。……でも」

 青年は言いかけて止まり、目を伏せた。

 その瞬間、部屋の空気がわずかに歪んだ気がした。

 私は反射的に、机の下で修復具のケースに触れた。

 幻覚ではない。

 この感じは、裂け目の直前の感触に似ている。

「でも、何です」

 青年はゆっくりと顔を上げた。

 曇りガラスの窓の白い光が、彼の輪郭を淡く削っていく。

「……夢を見た」

「夢?」

「誰かの声。僕を呼ぶ声。

 名前を……僕の名前を、何度も」

 喉が渇いた。

 妹の声を思い出しそうになるのを、私は爪で押さえた。

「その声は、誰のものか分かりますか」

 青年は首を振る。

「分からない。男か女かも、曖昧だ。

 ただ、ひとつだけ」

 青年の視線が、私の手袋へ落ちた。

 その視線が、やけに重い。

「その声は言った。

 ――『世界が壊れてもいい。あなたを忘れたくない』って」

 面会室の隅の拘束符が、ふっと薄く光った。

 いや、光ったのは符ではない。符の周りの空間が、微かに揺れたのだ。

 私は息を止めた。

 世界が壊れてもいい。

 あなたを忘れたくない。

 そんな言葉は、恋の最も危険な形だ。

 愛を、世界より上に置く宣言。

 歪みの核になり得る言葉。

 青年は続けた。

「僕は、その夢を見て……起きたら、ここにいた」

「……それを、誰かに話しましたか」

「職員に。監査官にも。信じてもらえないと思ったけど、話した。

 だって、それだけが手がかりに思えたから」

 監査官が咳払いをした。

 私は監査官を見ず、青年を見続けた。

「あなたは、本当に恋をしていないんですね」

「していない。……できない、のかもしれない」

「できない?」

 青年は少しだけ眉を寄せた。表情の変化が少ない彼にとって、その仕草は珍しかった。

「分からないんです。

 好きがどんな感覚か。

 人は、どうして誰かを特別に思えるのか。

 ――僕は、その仕組みを知らない」

 私は胸の奥がざわつくのを感じた。

 恋を避けてきた私が、恋の仕組みを問われる。

 皮肉だ。悪い冗談だ。

「それは、過去に何か」

「過去も分からない」青年は淡々と言った。「思い出せないわけじゃない。

 思い出はある。けれど、そこに感情がない。

 笑ったはずの場面でも、何も湧かない。

 泣いたはずの場面でも、ただの事実だけが並ぶ」

 私は言葉を失った。

 それは病ではない。呪いでもない。

 もっと根の深い、世界の綻びだ。

 ――感情がないのに、世界が壊れた。

 矛盾だ。

 でも世界は、矛盾で壊れる。矛盾で裂ける。

 矛盾を縫い直すのが、修復師だ。

「あなたは、私を見て何か感じますか」

 気づけば、私はそう問うていた。

 修復師としての質問ではない。

 私の中の何かが、勝手に口を動かした。

 監査官の空気が一瞬硬くなるのがわかった。

 だがもう遅い。言葉は出てしまった。

 青年は、私をじっと見た。

 その視線は冷たい。

 けれど不思議と、突き放す冷たさではない。

 深い水の底のように、静かで、逃げ場がない。

「……わからない」

 青年は正直に言った。

「ただ――」

 彼はほんの少しだけ身を乗り出した。

 その瞬間、私の胸の奥が、針で刺されたように痛んだ。

 何かが、私の中で鳴った。

「あなたを見ると、欠けた場所を思い出す」

 私は凍りついた。

「欠けた場所?」

「そう。……あるはずのものがない感じ。

 触れたら壊れそうで、でも放っておけない感じ」

 青年は言葉を選んでいるようだった。

 けれどそれは、私が毎日相手にしている歪みの感触、そのものだった。

 私は無意識に、手袋越しに自分の胸を押さえた。

 そこにあるのは心臓だ。

 だが今は、裂け目の縁のように感じる。

「……あなたは、それを誰にでも感じる?」

「いいえ。職員には感じない。監査官にも。

 外の景色にも。

 ――あなたにだけ」

 空気が薄くなった気がした。

 私は呼吸の仕方を忘れかけ、焦って息を吸った。冷たい空気が喉を刺す。

 危険だ。

 これは危険すぎる。

 恋をすれば世界が壊れる。

 私は恋を避けてきた。

 なのに、目の前の青年は、私の中の欠けた場所に触れようとしている。

 監査官が椅子を鳴らした。

「時間です。これ以上は」

 私は立ち上がろうとした。

 だが、青年の声が私を止めた。

「待って」

 たった二文字。

 それだけで、私は椅子から離れられなくなる。

 青年は、まるで確かめるように言った。

「あなたは修復師だ。世界を縫い直す人だ。

 なら、僕の中の欠けも……直せますか」

 私は答えられなかった。

 修復師が直せるのは、世界の裂け目だけだ。

 人の心は――対象外だ。

 けれど、心の裂け目が世界を壊すのなら。

 心を対象外にすること自体が、間違いなのではないか。

「……わからない」

 私はそう言って、ようやく立ち上がった。

 足が少し震えていた。怒りでも恐れでもない、もっと嫌な種類の震え。

 扉へ向かう。

 背中に、青年の視線が刺さる。

「あなたの名前」青年が言った。「名前を、教えて」

 私は一瞬、振り返りそうになった。

 だが、視線を合わせたら終わりだと分かった。

 名前を与えたら、私は役割から外れる。役割から外れた修復師は、世界の外へ落ちる。

「必要ない」

 冷たく言い放って、私は扉を開けた。

 外の廊下の空気が、まだましに感じた。

 監査官が私の横に並ぶ。

「どう見ますか」

 私は答えなかった。

 答えた瞬間、世界がひとつ壊れる気がしたから。

 廊下を歩きながら、私は腰のケースに触れた。

 修復具の針が、中で微かに震えている。

 まるで次の裂け目の位置を教えるように。

 嫌な予感が、確信に変わり始めていた。

 この青年は、ただの当事者ではない。

 ただの被害者でもない。

 ――歪みそのものだ。

 そして最悪のことに、

 その歪みは、私の名前を欲しがっている。

 世界を守るために恋を捨てたはずの私のところへ、

 恋の形をしていない何かが、静かに近づいてきていた。

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