選ぶ権利は、誰のものか
第4章
選ぶ権利は、誰のものか
世界は、まだ壊れていなかった。
それが、何よりも不穏だった。
街は機能し、人は眠り、朝になれば仕事へ向かう。
空に揺らぎは残り、建物の輪郭はどこか曖昧なのに、
致命的な欠落は、起きていない。
――まるで、世界そのものが、
答えを保留しているかのように。
「……ねえ」
彼が、低く言った。
「これってさ」
私たちは、今は使われなくなった旧修復局の屋上にいた。
通信が入りにくく、追跡も難しい場所。
「世界が、
僕たちを試してるんじゃない?」
私は、即答できなかった。
だが、否定もできなかった。
「……そうかもしれないわね」
風が、髪を揺らす。
「少なくとも、
排除は選んでいない」
彼は、空を見上げた。
「だったらさ」
少し、子どものような声で言う。
「次は、
誰が選ぶ番なんだろう」
その問いは、
この章全体を貫くものだった。
***
答えは、
思ったより早く、
思ったより正式な形で届いた。
正午。
全公開回線に、一つの通達が流れる。
修復師制度――
正確には、再編暫定評議会名義。
私は、通信端末を開いたまま、
しばらく動けなかった。
「……来たね」
彼が、私の横で呟く。
画面には、簡潔な文面。
だが、その一行一行が、
重すぎた。
【通達】
現在発生している感情起因型空間変動について、
修復師制度は、以下の二案を世界に提示する。
第一案:
感情制御型世界維持(従来制度の強化)
第二案:
感情共存型世界再定義(新制度案)
なお、
特異事例AおよびB
(修復師R-17/感情安定化特異点)を
本判断の参考事例とする。
「……特異事例」
彼が、苦く笑う。
「僕たちのことだね」
「ええ」
私は、目を閉じた。
「世界が、選択を公式化した」
もう、噂でも、暴露でもない。
制度として、
人々に問いが投げられた。
――感情を、管理し続けるか。
――それとも、共に生きるか。
***
反応は、即座だった。
世界は、割れた。
従来案を支持する声は、
恐怖に根ざしている。
「一度壊れ始めたら、止まらない」
「恋は理性を失わせる」
「選べると言っても、
誰かの選択で他人が消えるかもしれない」
彼らは、正しい。
間違ってはいない。
だが。
新制度案を支持する声は、
もっと個人的だった。
「もう、誰かを想うたびに
罪悪感を抱きたくない」
「感情を隠して生きることに、
疲れた」
「世界が壊れるかどうかより、
自分が壊れそうだった」
正しさと、切実さ。
どちらが重いかは、
誰にも決められない。
***
「……ねえ」
彼が、通信を切り、私を見る。
「これ、
僕たちが黙ってたらどうなる?」
私は、すぐに答えた。
「旧制度案が、
安全として採択される」
「だよね」
彼は、頷く。
「だって、
世界は怖がりだから」
胸が、痛んだ。
「……それでも」
私は、言った。
「発言すれば、
私たちは、
完全に象徴になる」
それは、
守られることでもある。
同時に、
消される危険も含む。
「それに」
私は、続けた。
「恋に、
名前を与えることになる」
彼が、静かに息を吸う。
「……名前」
「ええ」
私は、正面から彼を見た。
「共存という制度論じゃない。
私たちが、何なのかを」
彼は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「……それって」
「?」
「君は、
怖くないの?」
私は、少し笑った。
「怖いわよ」
「じゃあ」
「でも」
私は、はっきり言った。
「曖昧なまま守られる方が、
ずっと怖い」
妹の顔が、浮かぶ。
名前を奪われたまま、
世界から消された存在。
もう、あんな思いはしない。
***
夕方。
再編評議会から、
正式な招致が届いた。
――特異事例AおよびBは、
公開審問において
自らの立場を表明せよ。
逃げ道は、ない。
「……行く?」
彼が、確認する。
私は、迷わなかった。
「ええ」
深く、息を吸う。
「行きましょう」
それは、
世界を説得するためじゃない。
世界に、
決定権が誰にあるのか
突きつけるためだ。
***
夜。
屋上から見下ろす街に、
小さな光が灯っていく。
一つ一つは、弱い。
でも、
確かに人の生活だ。
「……ねえ」
彼が、言った。
「もしさ」
少し、言い淀む。
「世界が、
管理を選んだら」
私は、彼を見る。
「そのとき、
君はどうする?」
この問いは、
私に返されてきたものだった。
私は、少し考えてから答えた。
「……世界が、
私たちを選ばなくても」
一拍、置く。
「私は、あなたを選ぶ」
歪みは、起きない。
世界は、
まだ、沈黙を保っている。
彼は、目を伏せ、
それから、静かに笑った。
「……それなら」
彼は、言った。
「僕も、
ちゃんと立つ」
それは、
逃げないという宣言だった。
恋に、
名前を与える覚悟。
世界が選ぶか。
人が選ぶか。
第4章は、
ここから始まる。
次に来るのは、
戦いではない。
公開の場で、
感情が裁かれる瞬間だ。




