記録されなかった実験
記録されなかった実験
地下通路の奥は、奇妙な静けさに包まれていた。
音が、反響しない。
足音も、呼吸も、どこかで吸い取られていく。
「……ここ」
私の声は、やけに小さく聞こえた。
「記録上は、
構造不明につき封鎖ってことになってる」
だが実際は違う。
ここは、
封鎖ではなく、放棄された場所だ。
修復師が、
直せなかった場所。
彼は、周囲を見回していた。
「……何もない」
「そう」
私は頷いた。
「何も残さないのが、
修復師のやり方だから」
妹の事件も、そうだった。
痕跡は消され、
理由は単純化され、
最終的には――
恋をした少女が、世界を壊した
という物語だけが残った。
私は、壁の一部に手を当てた。
そこには、
古い刻印がある。
修復師用の、
非公開符号。
「……まだ、残ってる」
私は、震える指で符号をなぞった。
認証は、まだ生きていた。
修復師R-17。
仮登録。
――私だ。
空間が、わずかに歪む。
壁が、音もなく開いた。
中から現れたのは、
記録保管庫だった。
だが、整然とした棚はない。
代わりに、
無数の断片が、
宙に固定されている。
映像。
音声。
感情の波形。
私は、息を呑んだ。
「……実験記録」
それも、
公式に存在しないはずのもの。
「妹の……?」
彼が、私を見る。
私は、頷いた。
「正確には」
喉が、ひくりと鳴る。
「妹を含む、
感情発生段階の被験者」
彼の表情が、硬くなった。
「被験者……?」
「修復師は、
歪みを恐れていた」
私は、記録に触れながら言った。
「でも同時に、
知りたがってもいた」
――なぜ、恋は世界を壊すのか。
「だから、
切除前の感情を、
観測しようとした」
私は、最初の映像を起動した。
そこに映ったのは、
幼い妹だった。
笑っている。
泣いている。
誰かに恋をしている。
だが。
「……数値が」
彼が、息を呑む。
妹の感情波形は、
安定している。
歪みは、
発生していない。
「……おかしい」
私は、声を失いかけた。
「公式記録では、
妹の恋が、
歪みを引き起こしたはず」
次の映像が、自動で切り替わる。
そこに映ったのは――
修復師たちだった。
白衣。
無表情。
彼らは、
妹に処置を施している。
「……感情刺激、増幅」
冷たい声が、記録に残っている。
「臨界点を超えるか、確認する」
私は、思わず映像を止めた。
呼吸が、荒くなる。
「……実験」
彼が、低く言った。
「ええ」
私は、唇を噛んだ。
「恋が、世界を壊すかどうかを確かめるための」
――だから。
最初は、壊れなかった。
妹の感情は、
自然な形で育っていた。
歪みは、起きていなかった。
それを――
修復師が、壊した。
「……なんで」
彼の声が、震える。
「どうして、そんなことを」
私は、答えた。
「怖かったから」
修復師は、
管理できない未来を恐れる。
恋が、
歪みを生まない可能性。
それは、
修復師制度そのものを、
否定する。
「だから」
私は、次の記録を再生した。
感情刺激が、
急激に上昇する。
妹の表情が、
恐怖に変わる。
そして。
――歪み。
世界が、軋む。
だが、それは。
「……誘発された」
彼が、呟いた。
「ええ」
私は、目を閉じた。
「自然発生じゃない」
修復師が、
意図的に起こした歪み。
だから、
恋は世界を壊すという結論が得られた。
都合のいい結論。
「……じゃあ」
彼が、ゆっくり言った。
「君の妹は」
私は、答えられなかった。
だが、
記録が答えを示している。
妹は、
世界を壊していない。
世界に壊された。
私は、震える手で、
最後の記録を起動した。
そこには、
短い注釈があった。
『実験は失敗。
被験者は、
過剰刺激下でのみ歪みを発生』
『自然状態では、
安定を保つ』
『よって、本実験は封印』
――封印。
つまり。
なかったことにされた。
私は、膝から力が抜けた。
妹は、
事故でも、罪でもない。
都合の悪い結果だった。
彼が、私の肩を支えた。
触れた瞬間、
空間が、強く脈打つ。
だが、崩れない。
「……君は」
彼が、私を見る。
「ずっと、
嘘の上で生きてきた」
「ええ」
私は、涙を拭った。
「修復師として」
――そして。
彼が、静かに言った。
「……それで、
僕は?」
私は、彼を見た。
答えは、
もう、分かっている。
「あなたは」
私は、はっきり言った。
「実験の完成形」
彼の瞳が、見開かれる。
「修復師は、
感情を切除する前に、
安定させる方法を探していた」
「妹の実験は、
途中で潰された」
だが。
「あなたは」
私は、続けた。
「生まれつき、
感情の初期波形が極端に低い」
だから、
歪みを起こさなかった。
「感情がなかったんじゃない」
私は、彼を見つめる。
「最初から、安定していた」
彼の能力の核心。
それは、破壊ではない。
「あなたは、
感情を世界に馴染ませる存在」
――世界と感情の、緩衝材。
「修復師は、
それを恐れた」
なぜなら。
「あなたが存在すると、
恋は世界を壊すという前提が崩れる」
彼は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃあ」
彼は、私を見る。
「僕は、
世界を壊す存在じゃない」
「ええ」
私は、頷いた。
「世界を壊さない証拠」
その瞬間。
保管庫全体が、
大きく揺れた。
修復師部隊が、
近づいている。
「……時間がない」
私は、立ち上がった。
だが、彼は、動かなかった。
「……ねえ」
彼が、静かに言う。
「この記録を、
世界に出したら」
私は、息を呑んだ。
「修復師制度は」
「崩壊する」
彼は、はっきり言った。
「それでも?」
私は、彼を見た。
妹の笑顔が、
脳裏に浮かぶ。
そして。
「……それが」
私は、答えた。
「妹が、殺された理由なら」
もう、迷いはなかった。
「出す」
その瞬間、
世界が、再び大きく歪んだ。
だが、それは恐怖ではない。
真実に触れた揺れだ。
彼は、私を見て、
小さく笑った。
「……君は、
本当に危険な人だ」
「ええ」
私は、笑い返した。
「今さらよ」
修復師が恐れて隠した真実。
妹の名誉。
そして、
彼の存在理由。
第3章は、
完全に戻れない領域へ踏み込んだ。
世界は、
もう一度、
本当の意味で試される。




