それでも、壊すと決めた
それでも、壊すと決めた
その夜、世界は静かすぎた。
歪みの兆候も、警告音もない。
管理居住区は、完璧な安定状態に保たれている。
――嵐の前の静けさ。
私は、眠れずにいた。
ベッドに横になっていても、目を閉じるたびに、三日後の映像が浮かぶ。
白い処理室。
名前を奪われ、番号だけを残す儀式。
そして、存在切除。
妹のときと、同じだ。
違うのは、今回は――
私が、見送る側ではなく、
止められる立場にいるということ。
私は、ゆっくりと起き上がった。
室内は薄暗い。
彼は、向こうのベッドで目を閉じている。
眠っているように見えたが、
呼吸のリズムが、起きているそれだった。
「……起きてるわね」
私が言うと、彼は目を開けた。
「うん」
短い返事。
私たちは、しばらく黙って向かい合っていた。
この沈黙は、安定を生む。
だが、今夜の沈黙は――
選択の前の沈黙だ。
「……決めた?」
彼が聞いた。
私は、頷いた。
その瞬間、
胸の奥で、何かが確かに折れた。
修復師としての誓い。
世界を優先するという、あの論理。
「私は」
声が、少し震えた。
「明日、正式に修復師資格を放棄する」
それは、逃げ道のない言葉だった。
処分ではない。
剥奪でもない。
自分で捨てる。
彼は、驚かなかった。
ただ、静かに息を吐いた。
「……それは、もう戻れない」
「ええ」
戻れない。
戻るつもりも、ない。
「そうしないと、
あなたを対象として扱い続けることになる」
管理。
数値。
抑圧。
それを、私はもうできない。
「私は、あなたを修復しない」
はっきり言った。
「危険だとしても、
世界が許さなくても」
彼の視線が、私を捉える。
「……君は」
彼は、少しだけ笑った。
「本当に、修復師に向いてなかったんだね」
「ええ」
私は、苦笑した。
「ずっと、そう思ってた」
その瞬間、
天井の装置が、低く鳴った。
――感情変動検知。
警告灯が、淡く点滅する。
だが、私はもう気にしなかった。
「だから」
私は、続けた。
「修復師としてじゃなく、
一人の人間として、あなたと向き合う」
彼は、黙って聞いていた。
そして。
「……それなら」
彼が、立ち上がった。
その動きに、嫌な予感が走る。
「僕も、決めた」
彼の声は、静かだった。
だが、その奥にある決意は、鋭い。
「待って」
私は、立ち上がった。
「それ以上、何も決めなくていい」
「違う」
彼は、首を振った。
「君が、全部背負う必要はない」
その言葉が、
私の胸を、深く抉った。
「僕が特異点なら」
彼は、ゆっくりと言った。
「僕自身が、
世界の外に出ればいい」
意味が、すぐには理解できなかった。
「……何を」
「結界を越える」
血の気が、引いた。
「正気じゃない!」
「正気だよ」
彼は、穏やかに言った。
「修復師がいない状態で、
特異点が結界を越えたら」
「大規模歪みが――!」
「起きる」
即答だった。
世界が、壊れる。
「でも」
彼は、私を見た。
「それは、切除じゃない」
世界を守るために、
一人を消すのではない。
世界自身に、
問いを突きつける行為。
「……それは、自殺行為よ」
「かもしれない」
彼は、微笑んだ。
「でも、君の妹が言った言葉、
覚えてる?」
胸が、締めつけられる。
「世界が壊れてもいい、って」
彼は、続けた。
「壊れていい世界なら、
壊す価値がある」
その瞬間。
床が、大きく軋んだ。
警告灯が、赤く変わる。
警報が、鳴り始める。
「やめて!」
私は、彼の腕を掴んだ。
その接触で、
空間が悲鳴を上げる。
壁に、はっきりとした亀裂が走った。
今までの微歪みとは違う。
誰の目にも分かる、
破壊。
「……始まってる」
彼が、低く言った。
天井から、粉塵が落ちる。
照明が、不規則に点滅する。
管理居住区全体が、揺れている。
「警告。
重大歪み発生。
修復師は――」
アナウンスが、途中で途切れた。
修復師は、いない。
私は、彼を引き寄せた。
抱きしめた。
それだけで、
世界が、さらに大きく歪む。
だが、止めなかった。
「……行かないで」
私は、初めて本音を口にした。
修復師としてではない。
一人の人間として。
「あなたが消えたら、
世界が守られても、
私は、生きられない」
彼の体が、僅かに震えた。
「……それは」
彼の声も、揺れている。
「それは、恋?」
私は、答えなかった。
言葉にした瞬間、
もっと壊れると分かっていたから。
でも。
否定もしなかった。
その沈黙が、
何より雄弁だった。
次の瞬間。
外壁が、音を立てて崩れた。
空が、裂ける。
管理居住区の外側――
世界そのものが、欠け始めている。
誰かの叫び声。
非常灯。
遠くで、修復師たちが走る気配。
もう、隠しようがない。
世界は、壊れている。
「……君は、もう修復師じゃない」
彼が、私に言った。
「ええ」
私は、頷いた。
その答えと同時に、
胸の奥で、奇妙な安堵が広がった。
「だから」
私は、彼の手を握った。
「逃げるなら、一緒に」
その瞬間、
世界が、決定的に悲鳴を上げた。
歪みが、連鎖する。
街の輪郭が、遠くで崩れるのが見える。
――初めて。
誰もが分かる形で、
世界が壊れ始めた。
彼は、私を見た。
その目には、恐怖もあった。
でも、それ以上に。
生きている、という光があった。
「……うん」
彼は、答えた。
短く。
それで、十分だった。
私たちは、壊れゆく世界の中で、
同時に一歩を踏み出した。
それは、逃避ではない。
反抗でもない。
選択だった。
世界か、恋か。
そんな問いは、もう意味を持たない。
この瞬間から。
恋が、世界を壊すのではない。
世界が、恋を拒んでいたのだ。
第2章は、
ここで完全に終わる。
――そして、第3章が始まる。




