ここは、いつでも、あめのくに。
「ここは、いつでも、あめのくに。」
黒猫に導かれてやって来た、雨の降る図書館で見つけた不思議な本。
日常の中の非日常を描いたファンタジー小説です。
ここは、いつでも、あめのくに。不思議な看板とともに僕の前に現れたのは、傘を咥えた一匹の黒猫だった。
6時50分にセットしたアラームが、じりじりと嫌な音を立てる。どうせ10分後までまた寝るのに、だ。
7時。アラームが鳴った。眠たい目をこすり、カーテンを開ける。
「はあ、今日も晴れているなあ。」
僕は晴れが嫌いだ。じりじりと焼き付けてくるような日差し、ただでさえ外に出るのが億劫なのに、さらに嫌になってしまう。とりあえず外に出ないと…。重たい体を動かし、シャワーを浴びに向かった。
外に出ると、蝉がうるさく鳴いていた。
反響するように響く音に頭が痛くなって、会社に、今日は体調が悪いので仕事を休みます。と連絡を入れた。
今月何回目だと思っているんだ、と怒る上司の言葉も耳に入らず、またやってしまったという感情だけが頭をぐるぐると駆け巡った。
家で少し寝たら頭痛も落ち着いて、いつの間にか外は曇り空だった。少し蝉の声も収まっていたので、帽子をかぶって外に出てみた。
すると、突如強い風が吹き、帽子が飛ばされた。取りに行こうとすると、一匹の黒猫が現れ、咥えて持ち去ってしまった。日差しが苦手な僕は、あれがないととても外になんて出られない。急いで追いかけると、猫がこちらを振り返り、少し待ってから走り出した。
追いかけていくと、来たことのない場所についた。
ここはどこだろう。見渡す限り雨が降っていて、まだ日が出ている時間なのに暗く、しとしとという雨の音しか聞こえない。前を見ると、さっきの黒猫が、傘を咥えて立っていた。傘を受け取り、導かれるままに進むと
「図書館…?」
ここは、いつでも、あめのくに。さびれた、不思議な文の書かれた標識が立っていた。
「お邪魔します。」図書館の中も雨が降っていて、本はひんやりしているが、なぜか濡れていない。それどころか、手に取ってみても濡れないのだ。
「いらっしゃいませ、お客様なんて珍しい。お名前は?」
「伊藤和人といいます。」
「和人さんね。」
突然現れた、鈴のなるような声をした彼女は、杏里と名乗った。
「ここ、不思議な場所ですね、雨が降っているのに本は濡れていないし、そしてなぜかアップルパイの香りがする。」そう言うと、杏里はコトコトと笑った。
「正解、あなた鼻がいいのね。」
そういうと、黒猫が焼き立てのアップルパイの乗ったお皿を咥えてきた。杏里はそれを受け取り、もう一つを戸棚から出すと、にっこりと笑った。「アップルパイはお好きかしら?」久しぶりに客が来たのに、焼き立てのアップルパイを二つ用意していることに驚きつつも、美味しそうな香りを前にどうでもよくなった。
「ここの本はどうやって借りるんですか?」
ずっと気になっていたことを聞くと、「ふふふ、借りるんじゃないのよ、星屑と交換するの。」と言われた。
「星屑と交換?」
「そう。あめのくには、雨だけじゃなく星屑も降る。星屑には、一つ一つ違う物語が含まれているの。ここの本は、それを紡ぎ合わせてできているのよ。」
言われてみれば確かに、本の表紙にはきらきらと装飾が施されていた。暖炉の前にある一冊に手を伸ばす。
「あっ、それまだ乾いてないから触らないでね。」杏里に言われ、パッと手を引っ込める。乾くのに時間がかかるのだろうか…。
「じゃあ、冷める前に食べましょうか。」杏里がフォークとナイフを持ってきてくれたので、座って食べ始める。きらきらと星屑がちりばめられているそれは、とてもおいしかった。「これは…?」食べ終わると、いびつな模様をした本が目に飛び込んでくる。
「それはまだ何も書かれていない物語よ。」杏里はアップルパイから目もそらさず答えた。
「まだ何も書かれていない物語」その響きが胸を突く。「僕、これが欲しいです。」そう言うと杏里はにっこりと笑い、「じゃあ、星屑を集めに行きましょう。」と答えた。
外に出ると、やはり雨が降っていた。差し出された傘をさすと
「危ない!」
杏里に何かが降りかかってきた。
「平気よ、これが星屑。固くなくて、染み込んで溶けちゃうの。」
確かにさっきまでの星屑はどこにもなく、代わりに杏里の手のひらには、きらきらと星の砂のようなものが乗っていた。
「あなたにはこれを集めてもらうわ。」そう言われ、濡れた木々の間から落ちてきた星屑に手を伸ばすと、ほんの少しの冷たさを伴い、皮膚に溶け込んだ感覚があった。それを数度繰り返すと、杏里に
「じゃあさっきの本を取りに行きましょう。」と言われ、取りに向かった。
図書館は相変わらず涼しく、香ばしいアップルパイの香りがまだ残っていた。暖炉の前に向かうと、先ほどの本が並べられている。
「さっきの星屑を渡してちょうだい。」
言われるままに差し出すと、杏里が代わりに本を手渡してくれた。
「ここって図書館ですよね?いつ返せば…そもそもどうやって…。」尋ねると杏里は笑みを浮かべ、
「時が来ればわかるわ。」と答えた。
外に出ると、杏里が傘を手渡してくれた。「今日は来てくれてありがとう。」「こちらこそ、あの、また来られますよね…?」「きっと来られるわ。またその時まで。最後に、うちの猫がごめんなさいね。」手渡された自分の帽子を受け取ろうとして、本を握りしめる。「それ、僕にはもういらないので捨ててください。」
「そうなの、わかったわ。」不思議そうに帽子をしまう杏里と目が合う。「ここをまっすぐ行けば帰れるわ。じゃあね。」まっすぐ行って、木々の間を抜けて振り向くと、もう看板はなく、いつもの世界だった。
「もしもし、伊藤です。体調治ったので明日仕事行けます。ご迷惑おかけしました。」
「珍しく元気だね、どうしたの?体調が治ったのは何よりだけど…。」困惑する上司を後目に電話を切る。
ここから僕の新しい人生が始まる、なんだかそんな予感がした。
私の人生はつまらない。毎日同じことの繰り返しだ。高校に行って、部活をして、塾に行って、家に帰る。家族の仲もいいし、友達も多い。ただ、何かが足りない感じがしていた。孤独感ではニュアンスが違うし、虚無感と言えばなんだか大げさな気がした。
今日も学校に行く支度をして、家を出ると、黒猫が家の前を通った。黒猫がこちらを振り向いて私を呼んでいるような気がして、ふとついて行ってしまう。公園のベンチに座る暇も与えられず、私はついていった。何気ない日常の中、学校をさぼる。たったそれだけの背徳感が心地よかった。
気づいたら私は知らない場所に立っていた。急に雨が降り出して、どこか不気味で帰ろうとしたが、帰り道がわからない。さっきまでいた黒猫を探しに、恐る恐る奥へと進むと、不思議な看板を見つけた。
「ここは、いつでも、あめのくに…?」
そこは古びた図書館のようだった。中をのぞくと、奥には暖炉があり、先ほどの猫がくつろいでいるのが見えた。
中に入ると、雨の香りに混ざって、アップルパイの香りがした。
「わあ、いい香り。」そうつぶやくと、奥からきれいな女の人が出てきた。
「あら、お客さんなんて珍しい、それにとってもかわいいお客さんね。」ニコニコしながら近づいてきた彼女は、
「アップルパイはお好きかしら?」そういうとテーブルに、二つの皿にのせたアップルパイを置いた。
「わあ、おいしそう。」
そこからは世間話をした。杏里と名乗った彼女は私の名前も聞いてきて、警戒も溶けていた私は正直に答えた。
「保科朱莉ちゃんね。ようこそ、雨の国の図書館へ。ここにはいろいろな物語があるわ。まだ製作途中のものもあるけれど、星の紡ぐ物語で埋め尽くされているの。」「そうなんですね。」確かに周りを見ると、一つだけいびつな輝きの本がある。私はそれに目が留まった。
「この本、私みたい。」杏里はそれを聞いて、なぜか少しうれしそうな顔をした。「この図書館には返却期限はないわ。そして、カードの代わりに、星屑を集めてもらう。集めた星屑が、また物語を紡ぐ。この図書館はそうやってできているのよ。」説明と食事を済ませると、杏里は図書館の扉を開けた。
「見ていてね。」そう言って手を差し出すと、杏里の手のひらに星屑が零れ落ち、溶けて星の砂になった。 「わあ、綺麗…。」うっとりとしてつぶやくと、杏里が笑って、
「次は朱莉ちゃんの番よ。」と答えた。見よう見まねで手を差し伸べてみると、手のひらに星屑がひんやりと当たった。「すごい、体に染み込んでいくみたい。」透き通るような感覚に心を奪われた。その瞬間、星屑は星の砂となり、手の上に残った。
「じゃあ、それと本を交換ね。どれがいいかしら。」私は迷わず、さっきの本を指さした。「これを貸してください。」「はーい!」
図書館の中も雨が降っているのに、杏里から渡されたそれは濡れていなかった。しとしとと降る雨の音が心地よくて、私は最初に抱いた気持ちも忘れ、思わず問いかけていた。「これでもう終わりですか?さっき返却期限はないって言ってたけど、じゃあもうここには来れないんですか?」すると杏里は笑っていった。
「きっと、また来られるわ。その時までさようなら、かわいいお嬢さん。」
杏里がほほ笑むと、気づいたら私は私の家の前にいた。時刻は八時十分。
「学校、行こうかな。」
私は今日も変わらない日々を送る、リュックの中にあの本を忍ばせて。
「あなたの指は麻痺で、今後元のように動く確率はきわめて低いです、ピアニストになる夢はあきらめたほうが賢明でしょう。」
そう診断されてから二年がたった。僕は今、アルバイトで何とか食いつないでいる。今日は正社員になるための、大切な面接の日だ。
「あっ!」あろうことか、大切な履歴書がカバンから落ちてしまった。拾おうとすると、黒猫がやってきて、それを拾っていった。
「待て、泥棒猫!」焦って追いかけるが、慣れないスーツでうまく走れない。足を絡ませながら、何とか追いついたと息を吐くと、そこは全く知らない場所だった。
ふと前を向くと、さびれた看板に、ここは、いつでも、あめのくに。と書いている。中をのぞくと、そこは図書館のようだ。なぜだか気になって、時間ならあると自分に言い聞かせ、少し見るだけのつもりで中に入った。
中に入ると、
「建物の中なのに雨が降っている…。」
そう、屋根のある図書館なのに、そこには雨が降っていた。そして、どこからかアップルパイの香りがする。甘い焼きたての香りに鼻をくすぐられていると、中から一人の女性が現れた。「あら、お客様なんて珍しい。」そうにこやかに笑い、「アップルパイはお好きかしら?」と尋ねてきた。杏里と名乗った彼女は僕の名前も聞いてきたので、急いで名刺を差し出そうとすると
「うふふ、そんなにかしこまらないでいいのよ、白石奏さん。」と言われる。名刺はまだ見てないはずなのに、どうして僕の名前を知っているんだろう。少しぞわっとしつつも、言われるがままに腰を下ろす。二つのアップルパイを持ってきた杏里が食べ始めたのを確認して、僕も食べ始めた。
「おいしい…。」
大げさではなく、今までに食べた何よりおいしく感じた。杏里がうれしそうにほほえむ。
杏里は自らを「雨の精霊」と名乗った。この国に雨が降っているのは、杏里の力らしい。魔女なのかと聞くと、あんな自己中心的で短絡的な種族と一緒にしないでほしい、と拗ねられた。ありえない話だと思ったが、なぜだか信じられた。
「ここの本はね、星屑に込められた思いでできているの。思いを込めた人が生まれ変わった時、この本は溶けていくわ。それこそ、雪や星屑みたいにね。」
「え、星屑って溶けるんですか?」
そう言うと杏里はにっこりと笑い、フォークとナイフを置くと
「ついてきて!」
と僕を呼んだ。
「見ててね!」
杏里がそっと手を伸ばすと、星屑が手のひらに零れ落ちて、あっという間に溶けて星の砂になった。キラキラと音を鳴らしながら溶ける星屑は、子供の頃に見た夢のようで。
「微炭酸みたい…。」
目の前のあまりにも幻想的な光景に頭が追いつく前に、声が漏れていた。杏里はふふふと笑うと
「まあ、なんて素敵な表現。じゃあその微炭酸を捕まえてちょうだい。」
と言った。言われるがままに手を伸ばすと、 微炭酸が手のひらでシュワシュワと溶けて星の砂になる。
「冷たくて気持ちいい…。」
「でしょう?じゃあそれと本を交換するわ。ついてきて。」
杏里について図書館に入ると、僕は暖炉の前の一冊に目が留まった。なぜかそこから、ぽつりぽつりと雨の降る音が聞こえた気がしたのだ。近づいてみると、模様は周りと何ら変わらない。けれどなぜだか、それが気になった。
「この本がいいの?」と尋ねてくる杏里にこくりと頷くと、杏里は満足気に本を手渡してくれる。
それを受けとり外に出ると、やはり雨が降り続けていた。
「この道をまっすぐ行けば帰れるわ、いつかまたお会いしましょう。そしてこれ、あなたの大切なものでしょう?」
僕の履歴書を差し出してきた杏里に、ありがとうと受け取りかけた手を引っ込めて、僕は言った。
「それ、もういらないので処分してください。」
「そう、わかったわ。」
なぜだか少し嬉しそうな杏里を横目に、僕は雨の国を後にした。名残惜しくなかったわけではない、ただこれからの人生に夢を膨らませていた。
「この音を、この気持ちを、この世界の美しさを、ピアノに乗せて表現したい。僕は、そのためにピアニストになりたかったんだ。」そっと呟く。
「もしもし。白石です。…御社の面接、行けなくなりました。他にやりたいことが出来たので。…申し訳ごさいません。」
かしこまりましたと業務的に返され、安堵とともに電話を切る。
僕は、ピアニストという夢を全く諦めきれてなんかいなかった。雨の国での不思議な体験が、もう一度そう思わせてくれた。いや、思い出させてくれた。
「雨音ちゃんってなんだか怖くて嫌い。」
聞き飽きた言葉、言われなれた台詞。こんなことを言われるのは、私に霊感があるからだ。今日もランドセルを背負って家を出る。
「どうしたの?元気ないね。」
声をかけてくれる妖精のことも無視してしまう。
周りから一歩外れないように、周りと違うことがばれないように。
ひっそりと隠れて過ごすホームルームも終わり、帰路に就こうとすると、
「転校生さん!一緒に帰ろうよ!」
「帰ろう!」
久しぶりのお誘いにニコニコしていたら、昔の出来事がふとよみがえってくる。
「ごめん、今日用事があるからまた今度でもいいかな?」
「わかった。」
残念そうな顔をしたクラスメイトを前に心が痛む。なんで私って、こんなに普通にできないんだろう。そもそも普通って何だろう。グダグダと考えて、一人肩を落として帰路につく。
「ニイ」
変わった鳴き声の黒猫がそばを通りかかる。気にせず前に進もうとすると、頭を足にこすりつけて前に押された。
「ついて来いってことかな。」
ふと思いなおし、猫についていく。しばらく歩くと、不思議な場所にたどり着いた。さっきまでは晴れていたのに、しとしとと雨が降っていて、なのに濡れることは無い。そこはまさしく看板にある通り、雨の国だった。
猫について図書館に入ると
「わあ、妖精がいっぱい…!」
無地の本を作っている妖精、暖炉の灯をともしている妖精、そして、アップルパイを作っている妖精。
「かわいいお客さん、あなた、この子たちが見えるのね。」
不思議なオーラをまとったお姉さんが前に出てくる。
「アップルパイはお好きかしら?」
その声を合図に、たくさんの妖精が周りに集まってくる。妖精はアップルパイが大好きなのだ。
杏里と名乗った彼女は、私にアップルパイを差し出した。
「いただきます。」妖精と戯れながらアップルパイをほおばると、口の中にふんわりと甘い香りが広がった。
「本の模様、綺麗ですね。これ借りられるんですか?」
「もちろん、図書館だからね。けれど交換よ?星のかけらと交換。」
「星のかけら?」
「そう、流れ星のかけら。今からそれを集めに行って、本と交換しましょう。」
綺麗な響きに、私は目を輝かせた。
「こんな風に、手を差し出してみて。」
言われるがままに差し出すと、妖精が星に乗って落ちてきた。星は手のひらに乗ると、手の温もりでほろりと溶けていった。
「この子は流れ星の妖精。星を記憶と一緒に運んできてくれるのよ。」
「記憶…?」
「そう、記憶。あの一等星にも、見えないような小さい星にも、人々の記憶がこもっているの。私たちはそれを紡ぎ合わせて、本にして、あの図書館ができている。」
杏里の話は難しくてよくわからなかったが、ぼんやりと、杏里が少し悲しげな顔をした気がした。
「じゃあ、さっきとった星のかけらを渡してちょうだい。」
杏里の差し出した手にそっと触れると、星のかけらが香里の手に移り、輝きをまとった。近くにいた妖精がそれを暖炉の前にある本へと運んでいき、紡ぎ始めた。
「あの本は…?」
「あれはやっと、物語が始まったばかりの本よ。あの子の物語は、今やっと動き出した。」
杏里が目を輝かせて答える。あの子っていったい誰なんだろう、そう思いつつ、今やっと動き始めた物語、という言葉に心を躍らせる。
「私、この本がいいです。」
「まだ作成途中だけどいいのかしら?」
「はい。」
「じゃあ、ここの妖精を一人だけ連れて行って。きっと素敵な物語を紡いでくれるわ。」
「分かりました。」
私は迷わず、一人で必死に本を紡いでいる妖精の元に向かった。
「ついてきてくれるかな?」
妖精は品定めするようにこちらを見た後、私の肩に飛び乗った。
「ここをまっすぐ行けば元の世界よ。じゃあ、気を付けて。」
図書館を出ると、杏里に後ろからそう声をかけられ、気づけば私は元の世界にいた。鞄に忍ばせた本と、肩にある私にしかわからない重みだけが、これは夢じゃなかったと、私に教えてくれていた。
彼女と連絡がつかなくなったのはいつからだっただろうか。今日も考える。僕の何がいけなかったのか、いや違うな、僕に何が足りなかったのか。5年付き合った恋人だった希星に「あなたとの将来は見えない」と振られてから、もう3年が経った。風の噂で聞いたが、希星は結婚したらしい。もう、お腹には赤ちゃんだっているらしい。そりゃそうか、もう3年も経っているんだから。むしろ、未だに引きずっている僕の方が未練がましい人間で、彼女が正常なのだ。川沿いを歩く。あてもなく歩く。別れた日、彼女の誕生日、プレゼントするはずだったネックレス。「私、もう27歳になったんだよ。ずっと待ってるのに、こうちゃん、何も言ってくれないもの。もう限界だよ。」彼女の言葉を反芻する。この辺でいいか。ネックレスを川に投げ捨てようと腕を振る。
すると「ニィ」と、変わった鳴き声の黒猫が寄ってきた。希星が飼っていた猫によく似た鳴き声だ。彼女は面白がって、僕にもよく動画を送ってきたっけ。何だか懐かしくなって、動画を撮ろうとスマホを取り出した拍子に、ネックレスを落としてしまう。拾おうとしたが、黒猫はそれを咥えて持ち去ってしまった。元から捨てるつもりだったんだ。これでいいか。そう思いつつ、なぜか追いかけてしまう。取り戻してもどうにもならないのに、追いかける足は止まらない。
気が付くと、見たことのない場所にいた。どこか薄暗くて、しとしとと雨が降っている。雨の音以外は完全な静寂で、別世界という表現がぴったりと当てはまるような、そんな場所だった。寂れた看板には「ここは、いつでも、あめのくに」と書かれている。先ほどの黒猫を見つけて、手を差し伸べると、意外と簡単にネックレスを返してくれた。近くに一つだけ灯りの点った建物がある。寒さを和らげるだけのつもりでそこに入ると、「お客様かしら?」と弾んだ声が聞こえる。「お邪魔します…」中に入って驚いた。建物の中なのに、やはり雨が降っているのだ。1歩前に進むと、暖炉の手前にいる髪の長い女性と目が合う。彼女はやけに大人びた声で「アップルパイはお好きかしら?」と言葉を続ける。シナモンの芳香な香りが伝わってきた。言われるがままに椅子に腰を下ろし、アップルパイを頬張る。「美味しい…。」なんだか、懐かしい味がした。アップルパイなんてあまり食べてこなかったのに、どうしてだろう。そんなことを考えながら、あっという間に完食してしまった。
「ここ、本が沢山あるんですね。」
「もちろん、図書館だからね。」杏里と名乗った彼女が答える。「好きなものを借りていいわよ。」
「じゃあ、せっかくなので。」
目に付いた一冊の本に手を伸ばそうとすると、杏里に止められる。「無償じゃないわよ、星屑と交換。」そう言われ、急いで手を引っ込めた。
「星屑…?」
「そう、星屑。この世界ではそれがお金の代わりなのよ。お手本を見せるから少し着いてきて。」
席を立った杏里に続いて外に出る。外では雪と一緒に流れ星も降っていた。杏里が流れ星に向かって手を伸ばす。すると杏里の手に落ちたそれは、染み込んで、溶けて、粒状になった。魔法みたいだ。
「次はあなたの番よ」言われるがままに手を伸ばすと、星が手の内に染み込んでいく感覚が残る。星の砂だけが手のひらに残ると、杏里に言われてそれを手渡した。「ありがとう、好きな本を選んでね。」館内に戻ると杏里に勧められ、さっきの1冊を手に取る。「これがいいです。」「分かったわ。では交換成立ね。木々の間を真っ直ぐ行けば帰れるわ。来てくれてありがとう。」立ち止まっていると少し名残惜しくなってしまいそうだった僕は、急いでその場を後にした。無心で歩いて、やっと振り向くと、そこは先程の川沿いだった。
「ネックレス、結局捨てられなかったな。」
川に向かって右腕を振りかざして、元に戻す。焦って忘れようとしないでも、しばらくはこのままでいいか。僕のペースで、いつか思い出になるまで、とことん引きずって、向き合っていこう。
目を覚ますとそこは、きらきらと光り輝く世界だった。
「あれ、僕は死んだんじゃなかったのかな。」
家族に看取られ、家の中で幸せな最期を迎えていたはずだった。
「ようこそ、いらっしゃい。ここは、いつでも、晴れの国。」
聞き覚えのある言葉とともに、杏里によく似た人物が、僕の前に現れた。
「杏里さん?」
そう聞くと彼女は笑って、
「私は杏里の母の莉緒。」
と答えた。
「お母さん…?でも失礼ですが、そんなご年齢にはどうも…。」
そう言うと莉緒はまた笑って
「私たち妖精は、人間とは時の進み方が違うのよ。不死に近いといってもいいかしら。」
そう答えた。
「ちなみに、ここは?」
ふと、さっきから疑問に思っていたことを聞く。莉緒は待っていたかのように
「ここは晴れの国。死後の世界よ。あなたには今からちょっとした儀式をしてから、生まれ変わってもらうわ。」
そういうと、おもむろに輝きを集めて、僕の、あの本を取り出した。
「あっ…。」
びっくりしていると、その本は独りでにページをめくり始めた。二章までしかなかった物語が、どんどん書き足されていく。
序章、幸せな幼少期。二章、自分の個性に気が付く。三章、大人になってもうまくできない自分に嫌気がさす。四章、人生の転機が訪れる。五章、そこにある幸せに気付く。
読み終わると本が閉じる。閉じた裏表紙に現れた文字を見て、僕は驚いた。
「著者、伊藤和人...?」
「そう、これはあなたの本。あなただけの物語。雨の国は、人生に生き詰まってどうしたらいいかわからなくなった時に開く、雨宿りの場所なの。その時にお土産として、自分で描く物語を渡されるのよ。」
莉緒は空に向かってその本を掲げる。
「でも、もうあなたは生まれ変わる。晴れの国は、この本とともに全てを乗り越えきた人のための場所、浄化の国よ。あなたにはこの本はもう必要ないわ。さあ、行ってらっしゃい、新しい人生へ!」
そう言うと、莉緒は空へと本を投げた。投げた本はきらきらとした塵に代わり、空へとたどり着くと、空を一層青く見せた。
「もしかして、空が青いのって。」
「そう、みんなゴミが青く見せてる、なんていうけど、意外と綺麗でしょう?」
莉緒はいたずらっ子のように微笑む。
「ここからはあなたの新しい人生よ。さあ、この階段を上がって、振り向かずに前に進むの。」
そう言って、光の中に溶けていった。
「やっとたどり着いた。」
息も絶え絶えになった頃、僕はようやく最上階にたどり着いた。まばゆい光に包まれ、目をつむった瞬間、手に何か重みがかかった。
「こんにちは、ようこそ、生まれ変わるために来られたのですね。ではここから下をのぞいて、なりたい自分を想像してください。」
言われたとおりに想像する。
「あれ、何かが落ちたような?」
「あれは流れ星ですよ。晴れの国の扉が開いた時、それをお知らせするために流れるんです。流れ星に3回願い事を唱えると叶うのは、私たちに願いが伝わりやすいからなんですよ。」
空が青い理由、星が降る理由、全てに意味がある。生きる意味なんて大層なものはまだないけれど、僕が僕である意味を軸に生きて生きたい、なんて、少しクサいだろうか。だから、次生まれ変わるなら……。
「あなたのイメージ、しっかりと伝わりました。これはあなたのための本です。しっかりと見て、覚えてください。この本は雨の国に保管しています。生まれ変わったら今の記憶はなくなりますが、また、辛くなったら雨の国の扉が開きます。雨の国は、いつでもあなたを待っています。それでは、行ってらっしゃい!」
妖精は僕に何も言わせないスピードでしゃべり終え、気づけば僕は病院のベッドにいた。
「おめでとうございます、元気な男の子です!」
この記憶もきっとじきになくなる。その時初めて、僕の新しい人生が始まるんだろう。そう、秘密の図書館は今日も僕を待っている。
「ママ!ここの席だよ!早く早く!」
私は今、はしゃぐ娘と、それを見守る夫とともに、人気ピアニストの講演会に来ている。
「ママおそーい、遅刻だよ!」
「そうだぞ雨音!遅刻だぞ!」
考え事をしながら歩いていると、はしゃぐ二人に文句を言われた。
「ごめんね、今行く!」
そう言って二人の元へ向かった。
「えー、それでは開演となります。本日演奏していただく、ピアニストの白石奏さんです!どうぞ!」
たどたどしいアナウンスとともにステージに現れたのは、スーツを着た初老の男性だった。
「沙月が好きなピアニストさんって、もっと若くてイケメンな人だと思ったわ。」
少し拍子抜けして言う。
「ママ!この人は指が麻痺しても夢をあきらめなかったすごい人なんだよ!」
沙月に少し怒られてしまう。指を麻痺したピアニスト、か。きっとうまく弾けずに諦めたくなった時もあっただろうに。
「ごめんごめん、それは確かにすごい人ね。」
尊敬の意を込めて言うと、沙月が少しどや顔でこちらを見てきた。
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。白石奏です。私は若い頃に指を麻痺し、医者から、ピアニストの夢は諦めるのが賢明だといわれました。それからアルバイトで食いつなぎ、ただやり過ごすだけの毎日が続きました。でも、そんな私に転機が訪れました。特別な出会いが訪れました。その出会いに背中を押され、もう一度ピアニストになるという夢を胸に、奇跡的にリハビリが成功しました。今私がここに立てているのは、紛れもなく、あの出会いのおかげです。詳しいことは言えませんが、もし叶うのなら、もう一度あの人に会って、心からの感謝を伝えたい。これは、僕がその人に向けて作った曲です。曲名は、雨の国。」
私ははっとした。聞き覚えのある言葉。もしかしてこの人も…。
彼の演奏は圧巻そのものだった。技巧はもちろんのこと、見る人に情景を思い浮かばせるような丁寧な演奏。ここは間違いなく、思い出のあの場所だった。そして
「あっ…。」
彼の周りには妖精が飛んでいた。大人になってからは見えなくなった、妖精たちが。彼の周りで、星のかけらを溶かしては紡いでいた。
「…マ!ママってば!」
沙月の呼ぶ声にふと顔を上げると、いつの間にか演奏は終わり、周りの人もちらほらと帰り始めていた。ステージに目をやると、見えていたはずの妖精も、もう見えなくなっている。
「ねえ、沙月、沙月にとって大切な場所ってある?」
「どうしたのいきなり?」
沙月は困惑した風にそう答えた後
「家だよ。あったかくておいしいご飯があって、ママとパパがいる家!」
にこりと微笑んだ沙月が、とても愛おしく思えた。
「ママ!宿題の音読聞いて!」
「お母さん!洗濯物畳めたよ!」
「ママー、服ひっかけて破けちゃったあ。」
「ハハ、朱莉は人気者だなあ。」
今日も騒がしい我が家の日常。代り映えのない毎日。でもそれが、とても幸せ。
「夏希、上手に読めたね。全部に花丸あげちゃう!」
「涼太ありがとう、すごく助かった!じゃあ今度はそれを棚にしまっておいてくれるかな?」
「美亜、縫っておいてあげるけど、今度からちゃんと気をつけるんだよ?」
口々にはーいと答え、元の場所に戻る子供たちを横目に
「もうほんっとに忙しい!」
笑いながら夫に愚痴をこぼす。昔の私ならつまらないと悩んでいたような今の生活。案外、悪くないな。そんな風に思えるのはきっと。
「あー、ママがまたあの本読んでる!」
「美亜、のぞかないの!」
そう、きっと、あの日の雨の国での出会いのおかげ。
辛くなった時、一人きりで寂しい時。何度もこの本を読み直してきて、気づいたことがある。
この本の表紙の星は、毎日少しずつ動いているのだ。明日はどんな星座ができるだろう。きっとそれは、私の紡ぐ今日で変わってくるのだろう。いや、変えていくのだろう。
「よーし、今日もがんばるぞ!」
「いきなりどうしたんだ?」
不思議そうに私を見る夫に背を向け、本棚の上段にこの本を置く。
いつかこの子たちが雨の国に行くことがあったら、その時に私の話もしよう。
「ママ!今日のお昼ご飯はハンバーグがいい!」
「よーし、腕を振るっちゃうぞー!」
「やったあ!」
「にぃ!」
「あ、チロルもハンバーグが食べたいって。」
「駄目だよ、猫にハンバーグは。黒猫は幸運の遣いなんだから、元気に長生きしてもらわないと!」
「そうだね!」
我が家は今日も、にぎやかでとても平和だ。
病院のベッド。私の左手を握りしめている夫が、流れ星と呟く。その時
「元気な女の子です!」助産師さんの笑顔とは対称に、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる赤ん坊と目が合った。「俺と希星も、これからはパパとママだね。」夫が手を握りながら微笑んでくる。「私、ちゃんとママやれるのかな。」元気に産まれてきてくれた安堵と、喜びと、これからへの不安に泣きそうになる。
「願い事、3回言えなかった。」泣き笑いになりながらまた呟く。「大丈夫です。きっと産まれてくる前に赤ちゃんが、パパとママの元に産まれたいって願ってくれてるよ。」助産師さんが微笑みかけてくれる。
「ただいま。」
「おかえり〜」
「あれ、アップルパイの香り」
「あなた、アップルパイ好きだもんね。」
「うん、思い出の味だからね」
「知ってる?アップルパイってね、不思議な世界と繋がる力を秘めてるの。昔、おばあちゃんから聞いたんだ。」
「そうなんだ。」
「あと、アップルパイってね。」
「うん。」
「運命を変えるって意味もあるんだって。」
しとしとと雨の降る不思議な場所。現れた建物の扉をくぐる。
「お邪魔します。」
「ようこそ、あめのくにへ。アップルパイはお好きかしら?」




