に底の海、雨い黒 肆
時代は明治、そして大正へと進み、やがて昭和の激動の時代へ。潮は、海の底で静かにその移り変わりを見つめていた。人々の暮らしは便利になり、鉄の塊である船は、もはや海を汚す存在ではなく、人々の生活に欠かせないものとなっていた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
潮は、海の底からその様子を見ていた。彼の「身体」である海の上に、無数の軍艦が行き交い、潜水艦が忍び寄っていた。空からは、爆弾が雨のように降り注ぐ。それは、彼が命を落としたあの戦争だ。
その日、潮は、これまでの歴史の中で見たこともない光景を目の当たりにした。
彼の「身体」である海の上に、巨大な艦隊が集結していた。それは、日本の連合艦隊。真珠湾攻撃へ向かう艦隊だった。静かな海の上を、無数の船が黙々と進んでいく。船の中では、兵士たちが故郷の家族を思い、出陣の歌を歌っていた。彼らの歌声は、潮の心に深く響いた。
「君が代は、千代に八千代に…」
その歌声には、決意と、そして故郷を思う深い愛が込められていた。潮は、彼らの想いを抱きしめるように、静かにその艦隊を包み込んだ。
だが、潮が本当に見ていたのは、その先の光景だった。
昭和二十年。彼が命を落とす、その直前の出来事。
彼の「身体」の上で、一人の少年が小さな木造船を漕いでいた。まだ十歳にも満たない少年だった。少年は、漁師である父親が戦地に赴き、帰ってこないことを知っていた。それでも、少年は毎日、海に出ていた。
「父さん、早く帰ってきて」
少年は、小さな声でそう呟きながら、櫓を漕いでいた。その日の朝も、彼は父が帰ってくることを信じて、小さな船を漕ぎ出していた。
しかし、その日、空から、白い飛行機が飛んできた。
飛行機から、爆弾が投下される。少年は、その爆弾が、自分の小さな船に落ちてくるのを、ただ見ていることしかできなかった。
「父さん……」
彼の声は、爆発音にかき消された。少年は、小さな船ごと海へと消えていった。
潮は、その光景を、ただ見ていることしかできなかった。彼自身もまた、その海で命を落とした。だから、彼の痛みは、潮の痛みでもあった。
潮は、少年が消えた場所を、いつまでも包み込み続けた。
彼の魂は、もう人間ではない。海だ。それでも、人間だった頃の感情が、彼の心に重くのしかかっていた。
「なぜ……なぜ、この海は、こんなにも悲しい歴史を繰り返すのか」
その問いは、答えのないまま、海の底に深く沈んでいった。