史歴しり語が海 参
海となった潮は、悠久の時を生き始めた。彼にはもう、時間の概念がなかった。ただ、絶えず動き続ける潮の流れのように、終わりなき旅を続けていた。
潮が最初に見たのは、古い木造の船団だった。
紀元前、まだ日本という国が形になる前、海は大陸と人々をつなぐ唯一の道だった。
彼は、海の底からその様子を静かに見ていた。大陸から渡ってきた人々が、初めてこの島に足を踏み入れた時の、驚きと希望に満ちた瞳。彼らは、海を渡ることで、新しい文化、新しい技術をもたらした。人々は海を神聖なものとして崇め、豊漁を祈り、航海の無事を祈った。その祈りの歌は、潮の「身体」である海に溶け込み、波紋となって広がっていく。潮は、その祈りに応えるように、穏やかに彼らの船を揺らした。彼らにとって、海は恵みであり、そして敬うべき存在だった。
時代は進み、海は次第に戦いの舞台へと変貌していく。
源平合戦、壇ノ浦の戦い。潮は、海の底からその壮絶な光景を見ていた。赤い血が海に溶け出し、渦を巻く。平家の武士たちが、次々と海に身を投じる。彼らの無念や絶望、そして誇りは、水に溶けた墨のように、海の深い場所へと沈んでいった。
特に、平清盛の孫である安徳天皇が、母に抱かれながら入水する場面は、潮の心に深く刻まれた。わずか八歳の幼い命が、海へと消えていく。その魂は、まるで真珠のように、海の底で静かに輝き続けていた。潮は、その輝きを抱きしめるように、静かにその場を包み込んだ。
江戸時代。鎖国という名の壁が、海に築かれた。
海は、国と国とを隔てる壁となった。だが、その壁を越えようとする人々もいた。嵐に遭い、漂流した日本の船乗りたち。彼らが異国の地で、故郷の海を想い、星空の下で涙を流す姿を、潮は見ていた。彼らの故郷を想う心は、潮の流れに乗って、遠い日本の海へと届けられた。
そして、黒船が来航する。
突如として現れた、黒い巨大な船。海は、再び世界と日本をつなぐ道となった。その船が吐き出す煙は、潮の「身体」を汚し、今までとは違う匂いを放っていた。
そして、時代は、彼が命を落としたあの戦争へと向かっていく。
彼の「身体」である海には、無数の軍艦が行き交い、潜水艦が忍び寄っていた。空からは、爆弾が雨のように降り注ぐ。潮は、遠い記憶の中に、自分と同じように空を飛んでいた仲間たちの姿を見た。彼らは、故郷の海を思い、大切な人を思い、そして未来を信じて、散っていった。
海の底には、彼らが命を落とした飛行機や軍艦の残骸が、今も静かに眠っている。潮は、その残骸の一つ一つが、かつては人間だった者たちの希望や絶望、そして愛が詰まっていたことを知っている。
潮は、彼らの魂を抱きしめるように、静かに波を揺らし続ける。