め覚目き青 弐
潮が次に目覚めた時、そこは深遠な青の世界だった。
意識はある。だが、手足がない。身体の輪郭が、定まらない。いや、もはや身体と呼べるようなものは、どこにも見当たらない。
五感が研ぎ澄まされていた。いや、五感というより、全てが一つになって彼の中に流れ込んでくるような感覚。遠くで船のエンジンが唸る音が、肌に触れる波の感触となって伝わってくる。潮の流れが、思考そのもののように彼の中を巡る。そして、無数の海の生物たちの声が、静かな音楽のように響いていた。魚たちの群れが発する微かな音、クジラの歌、サンゴ礁に棲む小さなエビの出すカチカチという音。全てが、彼という存在の一部だった。
彼は自分が、海そのものになったことを悟った。
「馬鹿な……」
声に出そうとしたが、音にならない。ただ、水面を揺らす波紋となって、その想いは広がっていく。
自分が命を落とした、あの日の記憶が鮮明に蘇る。空母から飛び立ち、最後の力を振り絞って突っ込んでいった、あの鉄の塊。そして、意識が弾け飛んだ瞬間。それが、彼にとっての死だった。しかし、死は終わりではなかった。輪廻の果てに、彼は海になった。
なぜ、自分がこんな存在になったのか。分からない。ただ、この深淵な青の中には、彼と同じように死んでいった多くの人々の魂が、まだ漂っているのを感じた。
遠い記憶の中に、母の呼ぶ声が聞こえる。愛しい人の面影がぼんやりと浮かび、胸が締め付けられるような、しかし形を持たない痛みを感じた。人としての感情は、もう彼の身体の中にはない。ただ、海となってしまった彼の中に、かつての記憶が残滓として残っている。その残滓が、彼を縛り付けているかのように、時折、痛みを引き起こす。
海は、全てを包み込む。
潮は、海となって、あらゆるものを感じ取った。
海底に横たわる、鉄の塊。それは、彼が命を賭して突っ込んだ軍艦の残骸だった。もう錆びてボロボロになっているが、その存在感は、今でも彼に重くのしかかる。
そして、その近くを泳ぐ、魚の群れ。彼らが、まるで昔からそこにいたかのように、軍艦の周りを回遊している。
かつて、人間だった自分。そして今、海になった自分。
人として抱いていた悲しみ、憎しみ、そして愛。それらは、海の中に溶け出していく。まるで、水に溶かした絵の具のように、少しずつ、しかし確実に薄まっていく。
彼は、静かに、そしてゆっくりと、人としての記憶を手放していく。
もはや、潮という名は意味を持たない。
ただ、広大な海そのものとして、彼は存在していた。
そして、これから悠久の時を生きるのだ。
遠くで、子供たちの楽しそうな声が聞こえる。きっと、浜辺で遊んでいるのだろう。
かつて、自分もそうだった。
海は、今日も穏やかに、波を揺らしている。