第三六話 決戦
大変申し訳ないのですが、今回更新分、めちゃくちゃ長いです。
具体的には 文字数(空白・改行含まない):9785字 です。
ただどうしてもこの話は途切れずに読んでいただきたいので、強行します。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
魔王の出現位置は、私と師匠が初めて出会ったあの草原とのことだった。
なんだか、因縁めいた物を感じる。
準備から、実際に現場に行くまでの間。『既に魔王が出現したらしい』だの『魔王の出現は夕刻と聞いたが』だの『いや、魔王がいつどこに出るかなんて、わかるものではないだろう』だの『ずっと動かず自身の周囲に淀みを出し続けた魔王が出た事もあったそうだが……』だの『それにしたって、いつ魔王になるなどはわからなかっただろう』だの、ざわざわと困惑の声が、あちこちから聞こえた。
ですよねー。
風は少し強いが、お日様はよくよく照っている。
こんなあまりに普通過ぎる日に、魔王が出ますよと言われても、ピンとこないというのが正直なところだ。
いや、淀みが出る時だっていきなりだったし、そういうものなのだろうけれど。
でも魔王なんだから、もっとわかりやすく、嵐かせめて暗雲でも背負って雷鳴ぐらいは轟かせながら出てきて欲しい。
しかしまあ、我が師匠は断言しているし、王太子殿下がそれを信じ指揮しているのだ。半信半疑でも、人々は動く。
魔王の対応にあたる戦力が集められ、そして、師匠が示した魔王の出現予定ポイントへと。
「皆さん、生きて帰りましょう。命を大事に。どうぞ、がんばってください!」
私からのそんな声掛け(別に私がやりたがったわけではなく、師匠と王太子殿下に願われたのだ)を受けて、揃って出発したのだった。
ずらり並んだ(ほぼ万に近いと聞いている)数千人の人々の前で、王太子殿下の風の魔法で拡声してもらいながら(王族はまず最初に覚える魔法だとか)挨拶をするのは、非常に緊張した。
それを満足そうに眺め、『これで、こいつらは死なないな』と師匠が頷いていたのだが、謎過ぎる。
いや、私からの激励ごときにそんな力ないし……。言霊が宿れば良いな、とは思うけれど。
さてその数千人だが、チチェスター王国各地から集まってきた人々が1番多く、しかし各国からの援軍も数こそ少ないものの精鋭中の精鋭が寄越されていて馬鹿にはできないと聞いている。
うちの最強は師匠だけれど、彼は一騎当千どころではない。そのクラスが幾人いるかは知らないが、魔法があるこの世界では、そりゃあ馬鹿になどできないだろう。
私が遠距離からと望んだこともあり、チチェスター王国の戦力については遠距離攻撃の手段が多く用意されたようだ。
魔法使いはもちろんのこと、弓やバリスタや投石機を扱う部隊もいるそうな。
チチェスター王国の王族からは、やはり遠距離攻撃が得意なという基準で選ばれた、王妃陛下と王太子殿下、そしてマライア王女が参加するとか。残りの王家の人々は、万が一師匠の予言が外れた時の備えと、王都の守護にあたる、とか。
……女性陣も驚きだけれど、本当に王太子殿下なんて人が前線に出るのかと、びっくりした。一応王か王太子かどちらか片方だけにする理性はあったようだけれど、いやあんまり理性なくない? ダメじゃない? 次の王様前線に出しちゃさぁ……。
なんて、つらつらと考えていたら、草原へと到着した。
到着したというか、他のみんなは馬なり自分の脚なりで決戦地点へと既に到着し陣を形成していたところに、後から出発した師匠とそれにいつものラタンのブランコでぶら下がった私が合流した形だ。
「魔王のなりかけは、どこに……?」
上空から現場を見て、そして地上、先頭に立っていた王太子殿下の近くに降りたたせてもらってもなお見えないその姿に、なんだか嫌な不安を強く感じる。
「リアは、ここで待っておけ。俺が良いと言うまで、動くなよ」
疑問をぼそりと呟いた私を無視して、ブランコをどこかに消した師匠は、一度ぐしゃりと乱暴に私の頭を撫でた。
それから王太子殿下とアイコンタクトを交わすと、何を通じ合ったのか力強く頷き合い、師匠はくるり私に背を向けてしまう。
「し、師匠、どこに行くんです? ……どこまで、行くんです?」
「マライア、母上、こちらへ。聖女様の御身に、私が触れるわけにはいかないので」
私は師匠に呼びかけたのに、返答はなかった。
その上、王太子殿下の呼びかけで前に出て来たマライア王女と王妃陛下にそれぞれ片方ずつの腕に抱き着かれてしまい、彼を追いかける事も難しくなる。
師匠は迷いなく、すたすたと草原の中央へを歩みを進めた。
その背中が、ひどく遠い。どんどんと、遠くなってしまった。
200メートルは、離れただろうか。
そこでようやく、師匠はこちらに振り返る。
赤い赤い、血のように赤い夕陽に照らされた、その姿は。
「なに、なんです師匠、その爪、その手は……?」
私をここまで導いてくれた手だ。さっきだって、私の頭を撫でてくれた優しい手だ。
さっきまでは、そうだった、はず。
彼の手は、禍々しいほどに真っ黒い爪なんて生えていなかったし、皮膚を覆い隠すガントレットを思わせるようなこちらも漆黒の鱗なんて、一つもなかった。男らしく骨ばってはいても、人のそれと比べれば2倍は大きいだろう異形ではなかった。そのはずなのに。
師匠がいつも身に付けている、銀糸で複雑な刺繍の施された濃紫のローブ。その袖の先から覗く手は、すっかりそういうものに転じてしまっていた。
「なあリア、俺は師匠といっても、大した事を教えてはこなかったな」
そんなことない。なんだって教えてくれた。
そう返したいのに、喉が張り付いたようになってしまって、声が出せない。
両腕を支えてくれている彼女たちがいなければ、きっと私は立てていないだろう。
だって、聖女としての本能の部分が叫ぶのだ。
ああ、私の、聖女の敵だ。
魔王がそこにいる、と。
「不甲斐ない師匠だが、最期にもう1つ、教えてやろう。見ておけ。これが、魔王の核だ」
その爪は、見た目の通りに鋭いらしい。それで軽く撫でただけで、特殊な素材でできていてそこいらの金属鎧よりよほど頑丈だと聞いていた師匠のローブが、あっけなく裂けた。
胸元の中央、わずかに左寄り。教科書や人体模型の記憶から考えると、ちょうど心臓の上あたりになりそうなそこ。そこにあったのは、ひどく黒く、暗く、光を吸い込んでいるのではないかという程に黒く黒い、涙のしずくのような形をした、握りこぶし大の石のようなもの。
ああ、ああ、わかる。わかってしまう。確かに、アレこそが魔王の核。
実体が無いとは、何だったのか。いや、既に実体を得てしまったということか。
嫌になるくらいに、はっきりと、くっきりと、確かに。
魔王の核は師匠の肉体に半分埋まるように存在していて、それを中心に腕と同じようなうろこがびっしりと生え、師匠の首の下あたりまでを覆い尽くしていた。
「……魔王」
しんと静まり返ったその場に、ぽつりと響いたのは、誰の声か。
恐怖に震えたようなその声を聞いた師匠は、片手を胸に当て、逆の片腕を大きく広げ胸を張り、あまりにも常と同じの自信満々な笑みを浮かべ、高らかに宣言する。
「ああ、そうだ! 俺が魔王だ! 俺こそが、今代の世界最強、バージル。魔王となる者だ!!」
走る緊張、誰かが唾を飲み込んだ音すら聞こえる、痛いほどの静寂。
「そして、俺は『聖女リア・シキナ及び彼女の命を受けた者、その一切の攻撃に対し、俺は防御も反撃も逃亡も回避も行わない。少しの抵抗もあってはならない。加害も当然に行えない』と、神に誓約した身だ。……お前ら、感謝しろよ? ここまでお膳立てしてやったんだから」
そこに落とされたのは、一転して、泣きたいくらい慈愛に満ちた、彼の声。
ああ、ああ、彼は、あの時から……!
反射的にしてしまった理解と感動を、呑み込みたくない私がいる。
「し、ししょ……、う、うそ、ですよね……?」
ふらり、一歩前へ。なのにしっかりと抱えられた両腕にその場に留められてしまって、震え切った私の声は、それでもどうにか彼に届いたようだ。
師匠は、仕方なさそうに笑う。
「残念ながら、本当だ。俺こそが、魔王だ。これまでにだって、幾度も淀みを発生させてきた邪悪なんだよ、俺は」
「ああ……。師匠の謎精度予想って、そういうことだったんですね。でもそんなのは全部、私たち2人で完璧に対処してきたんですから、問題ないでしょう。誰にもあなたを邪悪なんて言わせません」
あまりにもいつもの調子で返されて、震えの止まった私は、きっぱりと返した。
「お前を異なる世界までさらってきた、大犯罪者だ」
「こっちに来られて良かったです。あなたと出会えて、良かったです。愛するあなたのいない元の世界に未練なんてないので、帰れと言われたって拒否しますよ。あなたは、犯罪者なんかじゃありません」
「……俺なんかの、どこがいいんだ?」
「単純に姿形が私の好みというのもありますけれど、やっぱり内面ですかね。世界のために死のうとしちゃうような良い人ぶりも、ここまで用意周到にできた能力も、惚れる要素しかないですよ」
「おかしいな。良い人なんていうつまらない存在に惚れるやつは、いないものだと思っていたが。俺が優秀過ぎたのが良くなかったか?」
そこまで言葉を交わした所で、私は笑ってしまった。
それを優しく微笑み見つめながら、どこまでも残酷に彼は言う。
「けどな、リア。これから完全に魔王になったら、お前が好きな俺は、いなくなる。俺は、俺でなくなってしまう。だからやっぱり、俺じゃダメなんだよ。王子サマとかにしとけ、な?」
「うるさいうるさいうるっさい! 嫌です絶対に嫌。人の気持ちを理屈でどうこうできるなんて思わないでください! そんなのは、たとえ師匠にだって魔王にだってできっこないんですよっ!!」
「お、おお……」
カッとなって叫んでしまえば、師匠はようやく動揺してくれたようだった。
その勢いのままギッと彼を睨んで、無駄に遠い所にいる彼に、腹の底からの大きな声で問いかける。
「結局師匠は、私のこと嫌いなんですかっ!? 好きなんですか!?」
「え、いや、その……」
「最期だっつーんなら答えてくださいよ! 観念しやがれください! さあ! 師匠は、私のこと、好きなんですか!?」
「……好きだよ。だからこそ、俺なんかのことは忘れて、しあわせになって欲しい。惚れた女に殺されるなら、きっと笑って逝ける。世界のために、お前の手で、ここで死なせてくれ」
師匠の吹っ切れたような笑顔は、あまりにも晴れやかで、美しくて、愛しくて。
「嫌だ、嫌です絶対嫌。やっと、両想いなのに。両想いだって、あなたが認めてくれたのに。そんなの……っ!」
嫌々と首を振り、彼の元へと、私は駆けようとした。
けれど、両腕のぬくもりはますます強く私を抱き留め、そして私をその背に庇うように、王太子殿下が私よりも、5歩ほど前へ。
「……もう下がれ、リア」
師匠のその命令は、絶対に聞きたくない。
「危険です、聖女様。バージル卿の言う通りに」
「いや。やだぁ……」
マライア王女が私に優しく声をかけてきたが、私は拒否した。
ひたすらに嫌だと繰り返す私に焦れたのか、師匠は私から視線を外し、声を張り上げる。
「おい、クリスティアン! チチェスター王国王太子、クリスティアン・エミール・チチェスター!!」
呼びかけられた王太子殿下は、こぼれ落ちそうな涙を飲み込もうとでもしたのだろうか。深呼吸とともに上空を見つめ、3秒。
それからすっと目線の位置を正面に戻すと、常のように、完璧な王子様の声音で友に応じる。私からは見えないけれど、きっと彼は、いつものように微笑んでいることだろう。
「……なんだい? わが無二の友、バージル・ザヴィアー魔導伯」
「なんだよ、俺の名前、もう戻してくれんの?」
ギチギチギチと、うろこが育ってきていた。顎の下までああも覆われてしまっては、呼吸が苦しいのかもしれない。
おそらくそのせいで師匠は息を荒げながらも、皮肉たっぷりに笑った。
「ああ。我が名にかけて、絶対に」
どこまでも静かに答えた殿下に、師匠は満足そうな笑みを浮かべる。
「そっか。ありがとな。それと……、クリスティアン、前に伝えた通りだ。うちの泣き虫な弟子、リアのこと、たのんだ、ぞ」
そう、言い終えたかどうかのタイミングで、魔王の核から黒い炎が吹きあがった。メキメキバキバキバキと、鱗が一気に師匠の肌を覆い隠していく様すら、呑み込んで。
「もちろんだとも。任せてくれ」
そんな殿下の声は、あの人には聞こえたのか聞こえなかったのか。
「ぐ、……ぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
黒い炎が、師匠の全身を覆い隠してしまった。いや炎はそのまま、大きく大きく膨れ上がっていく。その中から、苦し気な彼の声が響いた。
「……バージル・ザヴィアー魔導伯の思いに、わが友の英断に、我々は応えなくてはならない」
その炎が自分たちを、『聖女リア・シキナ及び彼女の命を受けた者』を決して傷つけることはないと確信しているらしい。
おぞましいような炎にあっさりと背を向け、私たちを振り返り、王太子殿下は淡々と言った。
しかしそのサファイアのような瞳には、涙の膜が薄く、けれど確かに張っている。
殿下は一度、きつくきつく、目を瞑った。
それからカッと瞼を開いたその人は、もはや涙など飲み込みきった意志の強い瞳で私たち一同を見渡し、数拍の後に、まっすぐに前へと向き直る。
その視線の先、黒き炎がかき消えた後には、人など軽く踏みつぶせそうな大きさまでになった、黒きドラゴン。
背には、羽ばたき1つでどこまでも飛んでいけそうな大きな翼。
全身の全てが先ほど師匠の体にあったような鱗に覆われていて、その爪や牙どころかどこに触れたって怪我をしてしまいそうな印象を受ける。
ズザリ、尾が地面を撫でたそれだけで、草原だったそこがえぐれ、大地をむき出しにした。印象、ではなくただの事実だろう。
ああ、魔王だ。
そして、私の愛する人の、なれの果て。
そんなのは信じたくなくて、けれど見れば見る程にそうだと確信する私がいて、目を逸らしたくて仕方がない。
けれど王太子殿下はかつての友から少しも視線をそらさずに、右の手をすっと頭上に掲げた。
そしてそれをビシリと前方へと振り下ろすと同時に、彼は王者の威容を纏って、声を張り上げる。
「行け、チチェスター王国の勇士たちよ! この世界の恩人を、我らが英雄を、全力で弔ってやれ!! ……せめて、長く苦しむことのないように」
『せめて』より後は、あまりにも小さな声で、そして殿下の声に応じるように上がった皆々の気合に満ちた雄たけびで、すぐ近くに立つ私たち以外には聞こえなかっただろう。
嫌だ。
遠距離から、と望んだ私のせいで用意された数多の武器が、次々に動き出す。
城門も破壊するような投石機が、壁をも射抜くというバリスタが、スコールのような密度で降る無数の矢が。
嫌だ。
ピタリと揃った、幾人もの人の声。かなり長い詠唱だったはずなのに一度もズレる事のなかったそれによって引き起こされた、大規模な奇跡。
炎が、雷が、氷が、岩が、多種多様な魔法が戦場のあちこちから飛び出でて、そしてまっすぐに一つの所に降り注ぐ。
嫌だ。
どれか1つだって簡単に人の命を奪う力のある万の攻撃が、そのすべてが、私の最愛の人の成れの果てへと一身に降りかかった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
私のせいで、私のせいで、私のせいで!!
魔王は、その全てを、身じろぎ一つせずに受け止める。
嫌だ。
ドラゴンの鱗が吹き飛び身が削られ血が流れ、その瞬間、魔王は確かに、どこか安堵したように笑ったのだった。
それに気が付いた瞬間に、私は。
「やめてぇええええええ!!」
ガガガガガガッガガガガッガガガガガガガガガガガガ……ッ!!
全力の叫びと同時に放った全身全霊のバリア。聖女の絶対の守護魔法。
それは魔王の全身を覆い、そして彼に襲い掛かっていた攻撃の全てを受け止め、打ち消した。
その下で、ボロボロだけど確かに生きてバリアを見つめる、彼がいる。
「……っ!」
私のいきなりの暴挙に、今息を呑んだのは誰か。
そんなのはどうでも良い。
「マライア王女も、あの魔法、できますよね。やってください。私の声を、全員に届けて」
小さな声で命じれば、マライア王女はただ視線を泳がせた。
じゃあ王妃様でも良いと私が言う前に、王妃様が自らぱっと私から手を離し、小さな声で呪文をささやいてくれる。
「もう、やめてください。その人、聖女である私の師匠なんです。私の、大切な人なんです。お願い、誰も、ひどい事をしないで」
王妃様の拡声魔法に乗って、私の声が戦場の全てに響き渡った。はずなのに。
チャリ、と小さな金属音が、どこかから聞こえ、カッとなる。
鎧を着た誰かが、わずかに動いたかのような音。
遠距離攻撃が防がれたならば、直接剣で切ろうとでもするのかともはや言いがかりめいた妄想に捕らわれた私は、ヒステリックに叫ぶ。
「やめてなにもしないでっ!! わ、私の命令を聞かない人は、神への誓約の外、ですよ? そしたら、師匠には勝てませんよね、誰も。あの人は、世界最強なのだから。みなさん、死にたくないですよね死にたくないでしょう……死にたくなきゃ全員引っ込んでろって言ってんだよさがれぇええええええええ!!」
王妃様の拡声魔法に乗って、けれどそんなものは必要なかったかもしれないほどの大声で叫べば、カラリ、カランと何かが落ちたような音が聞こえた。
誰も、声すら発さない。武器をその場に捨て、じりじりと後ずさっていく人たちとは逆方向に、私はマライア王女を振り払って駆け出す。
「聖女様……っ」
「私実は、その、聖女様って呼ばれるの、あまり好きじゃありません。役目で呼ぶのって、親しい関係ではないですよね。様なんて敬われるのも苦手です。……この世界で、あの人だけが私をそこらの小娘として扱って、リアと、呼び捨ててくれました」
「……ああ」
呼び止めでもしようとしたのだろうマライア王女を遮って言えば、彼女はガクリとうなだれた。
それも無視して、私は走る。彼のもとへ。
途中でバリアも解いて、その足元まで。
すると、魔王としての本能のせいか、神に立てた誓約のせいか、彼は大きな図体を窮屈そうなまでに縮こまらせた。私を、恐れているかのように。
「ね、師匠、さっき笑っていましたよね? 誰も傷つけずに死ねるって、安心したみたいに。師匠の意識、まだありますよね?」
「さすがに危険です……!」
「近寄らないでっ!」
師匠の肌に触れながら呼びかけようとすれば、王太子殿下の声が聞こえた。
思ったよりも、近くで。
振り向けば追いかけて来ていた彼に怒鳴って、それから改めて全員を脅す。
「……私にも師匠にも、誰も、何もしないで。同じことを何回も言わせないで。私の指揮下から外れたい、わけじゃないでしょう?」
「け、けれど……」
「……この人は、私を傷つけることができません。私のことは、絶対に傷つけることができません。神に誓ったのだから。危険なんて、少しもありません。……最期だというならば、話くらい、もう少しさせてくれたって良いでしょう……?」
ばたばたばたと、涙が落ちる。あーあ。師匠は、泣かない女が好きだって言っていたのに。
唇を噛み締めすぎて、にじんできた血の味がする。情けない、情けない、情けない。
なのに、もはや私をフってくれさえしない師匠に、涙が止まらない。
そんな有様で訴えた私に、何を思ったか。
とうとう王太子殿下は諦めてくれたらしく、深く一礼をすると、ようやくこちらに背を向け、元の位置へと歩み出した。
それを確認した私は、師匠へと向き直る。
「師匠、痛かったですよね……」
縮こまった巨大なドラゴンの肌を撫でながら、私は治癒の魔法をかけていった。
魔王といえど聖女の魔法が毒になるような事はないらしく、ふさがっていく傷に、安堵する。
触れた部分はあたたかく、感触はざりざりとしているけれど、私を傷つけることはない。
ああ、あたたかい。生きている。この人はまだ、生きている。
そして彼は、身動ぎすらもしない。いやおそらくできない。
こんな全身が凶器のような身体では、なにをしたって少しどころではない抵抗になってしまうからだろう。
「ねえ、これなら、魔王のままでも良いんじゃないですか? どうせ抵抗なんかできないんだから。これからこの世界の人類は、全員私の命令を受けた人ですよ。みんなに命令してまわります。あなたのことを、傷つけないでって。それなら、ね、師匠はだーれも傷つけられませんよね?」
もしそれを破ってあなたを傷つけようとするなら、そんな人はどうでも良い。きっと正当防衛ってやつだ。そこまでは、この心優しい人には聞かせないけれど。
私は、勝手な主張を続ける。
「あなたは優しい人だから、土地や動植物の被害も気になりますか? それなら、2人であなたがどれだけ暴れたって良いような荒野にでも行って、住みましょうか。だからどうか師匠、バージルさん、……死なないでくださいよ……っ!」
いつだって、私を見つけてくれたのはあなただ。
あなたがいてくれなければ、私はとても生きられない。
魔王になった? それがどうした。私は聖女だ。魔王の天敵だ。彼を恐れる必要はない。
魔王だって良い。あなたならばなんだって良い。
あなたさえいてくれるのならば、他にもう何も望まない。
お城も、ドレスも、豪華な食事もいらない。
屋根も壁も家具もなくたってかまわない。
服なんて、誰も見る人がいない土地ならどんなだっていっそなくたって良いのだ。
泥水だって啜り、あなたの破壊のあとに転がった炭でも齧って生きよう。
聖女に治せない病気なんて無いのだから、きっとなんだってどうにかなる。
どうにかしてみせる。
「ああでも、師匠の食べる物が無いのは、困りますね。ねえ、師匠、魔王って何が食べられるのか、何を食べたいのか、教えてくれません? ……師匠の【研究】をまとめた資料とやらに、載っていたりしますか?」
問いかけに答える声は、ない。
大好きなあの人の大好きな声が、聞こえない。
いつもみたいに、呆れたようにあしらってくれたら良いのに。
もし魔王という生き物は人間を食べなければ生きられないということなら、各国を脅して生贄でも出してもらおう。すぐに処刑しようとするような世界だ、たくさんいるのだろう死刑囚でも捧げてもらえばいい。
この心優しい人はそんな事は望まないだろうから、きっと恨まれてしまうだろうな。
それでも、どうしたって、生きて欲しい。
そんな身勝手な事を考える私を、師として叱ってくれたら良いのに。
「ね、師匠、私、あなた以外誰もいなくて良いんですよ。日本の便利な生活も、祖父母の家も、わずかながら縁があった人たちとも、永遠に引き離されたって困らなかったくらいです。あなたと出会えたのだから、あなたさえいてくれれば、それで良いと思っています。心の、底から。この世界の他の誰と会えなくなったってかまいません」
そこまで言っても、巨大なドラゴンは、嫌だとも良いともやめろともそうしろとも、言ってはくれない。
そういえば、ドラゴンは私と同じ喉から魔力派だと前に師匠が言っていたな。この人は元は手から魔力派だったわけだが、今はどうなっているのだろうか。
そう考えながら、そっと彼の手に触れる。
ビクリと硬直したドラゴンは、けれどその鋭い爪や固い鱗に触れては私が怪我をしてしまうとでも考えたのか、そろりと私の手から逃れるように手を裏返す。
それはおそらく誓約による反射のような物なのだろうけど、優しいこの人らしいしぐさだと、私が勝手に思うのは自由だろう。
手のひら側に鱗はなく、人のそれよりはよほど固い皮膚ではあるのだが、ドラゴンの身からすれば柔らかい部分のようだ。思いがけず滑らかで、なによりとても、あたたかい。
それを見ていたら、一つ、思い出した事がある。
「ねえ、師匠、バージルさん。他に、何もいらないんです。本当に、あなたさえいてくれれば、私はそれだけでしあわせです。だから、だからどうか」
手のひらへのキスは、懇願という意味があるらしい。これが、思い出した事。
まずは、彼の右の手のひらに。
「だからどうか、お願いです」
続いて、彼の左の手のひらに。
私は言葉と、キスを落とす。
「……私と、生きてください。これからも、ずっといっしょに」
すると、真っ白なまばゆい光が、魔王であった彼の身の内からあふれ出し宵闇を切り裂き、後から聞けば王都の隅の隅まで照らした程に強く強く、辺り一帯を覆い尽くしたのだそうだ。




