五室目 天沢五郎様 心の疲れと倭久の間の悪さ
――体が重い……行かなきゃ……。どうしてこんな事に……――
「ヴ、ヴェッ……グゥッ……」
体のキツさと苦しさの中で吐き気を催し、慌ててトイレへと駆け込んだのでした。一頻り吐き終え、前日から食べれる状態になかった為、胃の内容物も殆ど無く、胃液だけが苦しく上がってくるのでした。そうした状況の中でも会社へと向かい、仕事をこなしていたのでございました。数日過ごしたある朝、とうとう吐血してしまい、それを見て張り詰めていた心の糸が切れ、
「……ウッ……ウッ……苦しぃ……誰か……助けて……」
そう言いながら意識を失い、自宅のトイレで倒れてしまったのでございました。一人暮らしであった為、助けも呼べず、私はすぐさま桜々さん、空生、倭久に協力を求め、倒れている方の家へと移動し、病院へと運び込んだのでした。比較的軽い症状であったものの、入院が必要とのこと。手続きを代わりに行おうとした矢先に意識を戻され、最初に仰られた事は「年老いたご両親と兄弟に心配を掛けたくない」でございました。ですので、一週間の入院を経て、退院後はこのYADOCALIへのお引っ越しをご提案させて頂いたのでございました。
◆◆◆◆◆
本日は抜けるような青さが気持ち良い朝でございます。
日課の掃除をしていますと、スーツを着た男性が弱々しい足取りで、出て来られました。すると私を見つけ、
「あ……おはようございます、管理人さん」
「これは天沢様。おはようございます。……お出掛けでございますか?」
「……ハイ……」
「どちらへ行かれるのか……お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……会社に」
「それは……何をしに行かれるのでしょうか?」
「辞表を出しに行こうかと……」
「天沢様……。それはなりません……」
「でも、かなり休んでしまったし! それに、もう僕がいたってッ……」
「天沢様は病気休暇を使ってお休みになられているのです。体調がまだ思わしくありませんのに、無理はいけません。それに病気休暇とは天沢様が使って良い権利なのでございます。疲れた体と心を……どうか癒す事を優先にお考え下さい」
「……情け無いですね、僕……」
「いいえ。必死に走り、喰らい付いて頑張って来た証でございます」
「みんなは……こんなふうにならないで頑張っているのに……。僕だけ……」
「人には人のペースがございます。それも状況によりますから。……天沢様、次から次へと考えなければならない事は多くあるかとは思いますが、一旦、それは置いておきましょう。どうか……まずはご自分のお身体の健康を取り戻す事だけを考えましょう」
「……はい」
この優しい顔をした甘いマスクのお方は天沢五郎様、二十六歳でございます。新卒すぐに大手総合広告代理店に入社されました。成績優秀者として営業部へ配属となり、精力的に動かれていました。
しかし、上司の配置換えを堺に、陰湿なイジメに合うようになっていったのでございます。打ち合わせの会議や出張日を間違えさせたり、取引先の電話を繋がないよう指示したり、破られた領収書をゴミ箱から見つけたり、はたまた営業で回っていた所へ有りもしない噂を流し誤解を与えたりと、証拠も残らぬよう手の込んだ足の引っ張り方をして、孤立させるよう仕向けられていたのであります。全く……その能力は違うようにして活かしなさいと思うばかりでございますね。
周りの同僚たちも最初こそ声を掛けてくれていたそうなのですが、そのうち見て見ぬふりとなり、一人また一人と天沢様に対して嫌がらせや聞こえるような陰口を叩いたりする方へと転じていったそうでございます。しかし、そうした状況にも負けず、ミスのないように万全を整え、考えながらお仕事をされていたようなのですが、重要な取引先のイベント日に発注していた物が届かないようすり替えられてしまい、イベントが台無しとなってしまった事が……体調を崩すキッカケだったと後に話をして下さいました。
「あ、そうだ! 天沢様が宜しければ、桜々さんの〝ヒールフォレスト〟をお受けになられませんか?」
「ヒール……フォレスト?」
「所謂、森林浴のような心地を味わう癒しの時間と申しましょうか。とても安らぐんですよ?」
「森林浴……。山なんて……もう何年も行ってないなぁ……」
「以前は、山によく行かれていたんですか?」
「私の田舎は山ばかりだったので、よく兄や弟と遊んでいたんです。三兄弟でしたから、元気が有り余ってて……。ほんとド田舎でしたから、他に遊ぶ所もありませんでしたし。……でも川も透明度が高くて、木々も綺麗な気持ちの良い所なんです……」
故郷を思い出されるように懐かしむ顔と寂しさが入り混じったお顔をされました。
「……左様ですか。でしたら、尚更、桜々さんの〝ヒールフォレスト〟をお受けになりませんか? あ、料金は発生致しませんよ。YADOCALIにお住まいの方ですので……」
「……じゃあ、少しだけ……」
「ハイ! 宜しゅうございました。では、準備が整いましたら、ご連絡致しますので、お部屋にてお待ち下さいませ」
「はい……」
そう言って部屋へとお戻りになられたのでございました。足取りは重いようでありましたが、故郷を思い出され、気持ちが少し落ち着かれたように思います。
ヒールフォレストとは、桜々さんの悩み相談解決法のひとつでして、悩み相談所という名目で小さなお店を自宅の一室で開いておるのです。勿論、資格を取り、届けを出して、許可も頂いている正式なお店ですが、広くは宣伝しておりません。本当にお困りの方やお悩みがある方は自然とお知りになり、引き寄せられるようなっておりますので……。また症状の重い方にはコントロールボールを使い、ヒールフォレストやシーリラクゼーション、それにサウンド・オブ・インセクトなど、受けられる方々の必要性に応じて、様々な癒しの空間をご提供しているのであります。素晴らしいでしょ、桜々さんはッ! 私の奥さんですッ、ムンッ!!
桜々さんを想うと私の気分は急上昇しますので、日課の掃除をマッハで終わらせてしまい、すぐさま自宅へと戻ったのでございました。
「桜々さん! 申し訳ありませんが、ヒールフォレストをすぐにお願い出来ますでしょうか?」
「えぇ?! もー! トッキーはいつも急に言うんだからぁ……。どうしたのよ、突然……」
「天沢様の……」
「あぁ、そういうこと! えぇーと、……午前中の予約は入ってないからOKよ! でも、どうしてヒールフォレストを?」
「その方が有効的だと予知しましてね。天沢様の故郷は山々の綺麗な所なんです。……豊かな木々に、とても清らかな川も流れておりました……」
「なるほどね……。少し待って貰ってもいい? 準備を……」
「準備は私も手伝います。桜々さん……すみません、突然お願いをして……」
「ふふっ。トッキーのお願いなんて、いつも突然じゃない! ……五郎くんが元気になれそうなら、いくらでも手伝うわ」
「桜々さん……」
「なぁーにぃー、心配そうな顔をして! そんなに気にしなくても……」
「い、い、いつから名前呼びにッッ……!?」
「へっ?」
「ご、五郎くんって……」
「はぁ?! そっち?!」
「だって! だって! そんなに親しくなってないじゃないですかッッ!! なのに、何で名前呼びをッッ……」
「……トッキー。……私を怒らせたいの?」
「ち、違います! でもッッ……」
「あのね、トッキー。五郎くんは空生の一つ年上で、自分の子どものようなものなの。それに五郎くんが退院して暫くは、幸慈と一緒に買い物とか身の回りのお世話をしていたでしょう? 合鍵で入る事も許可して貰っていたから、必要な物を買い揃えて部屋にお邪魔したら、ちょうどリビングのソファーで寝ていたのよ。……でもすごく泣きながら、〝母さん……〟って呼んでいてね。幸慈が一緒に手を握ってあげようって言い出して、それで一緒に手を握ってあげていたら、泣き止んで穏やかな顔になったの」
「て、ててて、手をッッ……」
「少ししたら、五郎くんもすぐに目を覚ましてね。恥ずかしそうに慌てて謝っていたから、私も部屋に入った事や手を握っていた事を謝っていたら、幸慈がね、「恥ずかしい事じゃないんだよ? お母さんの手はね、とっても優しいから僕が貸してあげてって言ったんだよ」ってフォローしてくれて。それで五郎くんもお礼を言ってくれたりして……」
「そんな事があったのですね……。すみません、取り乱して……」
「……時士さん……」
名を呼ばれ、驚いた。桜々さんが私の名をちゃんと呼ぶ時は心から真剣に伝えたい何かがある時だ……。
「私は家族もとても大事だけど、一番大切な方は……時士さん、貴方です。恩があるからとかではなくて、……一緒に険しい道を進んできた心強いパートナー……そして決して離れる事のない強い絆で結ばれたパートナーだと私は思っています。それは生涯、絶対に変わりません……。ですから、そんな心配は……しないで欲しいです……」
馬鹿か、私はッ!! ……そう、己を殴りたい気持ちになりました。桜々さんに悲しげな顔をさせ、私の疑いを晴らすような、そんな言葉を言わせてしまった事に申し訳無さと愛おしさが溢れ、抱き締めようとそっと手を伸ばした瞬間、
「かっえりまーしたッ! いやぁー、なんかお腹減っ……」
そう言いながら、部屋に入ってきた倭久。すると状況と雰囲気を察知して、黙って固まってしまいました。悉く私の邪魔ばかりをしてくるタイミングの悪い奴でございますッッ!!
「あ、あのッ……なんか、お邪魔を……」
「本っっ当になッッ!」
「いや、あのッ、お父さんッ! そんなつもりは全くッ……」
「小僧にお父さんと呼ばれる筋合いはねぇええーッッ!」
「ハ、ハイーッ! なんか、もう、ほんとすみません、俺ッッ!! お腹が減っちゃっ……」
「お前の腹に入れるもんはねぇッ! 外の草でも食ってろやァアアーッッ!!」
「トッキィーッッ!!」
そうして私はまた桜々さんに怒られ、抱き締める事も叶わず、お説教を喰らうのでありました。いけずな桜々さん……でもッ、それも良いッッ!!
作らなくてもいい倭久の間食を桜々さんが作っている間に、私は一人寂しくヒールフォレストを行えるように準備を整えたのでございました。ぴえん……。
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