四室目 羽柴小葉様 小さな初恋と子ども
本日は晴朗なり。羽柴様がご退去の日でございます。
あの一件から半年以上が経ち、元旦那様の島浜様と島浜様のお母様はお元気のご様子です。それにYADOCALIや羽柴様が勤められている会社周辺に姿を現す事は一切なくなりました。お約束を守っておいでのようです。
私は一度だけ、お会い出来そうな時間に行ってみましたが、物々しいセキュリティーのある門構えは撤去され、開放に満ちた家となり、お二人でお庭の手入れなどを行っておりました。その姿が微笑ましく、安堵したものです。
マンション内より羽柴様と蓮織くんが僅かなお荷物を持たれて現れました。あ、YADOCALIは全て家具家電付きとなりますので、お引越しも楽なのでございます。お見送りをと、桜々さん、空生、倭久と共にマンション前で待機しておりました。私どもを見つけ、お二人はすぐに駆け寄られて来ました。本日のお天気のような穏やかな顔をされた羽柴様が、
「一年でしたが、大変お世話になりました。……あの時、皆さんに助け出して貰わなかったら……ッ、私も蓮織もこうして元気で……過ごしている事はなかったと思います。本当に……何とお礼を言ったら良いか……。二人で新たな生活が始められるようになったのも、皆さんのお力添えのお陰です。本当にありがとうございました……」
深々と頭を下げる羽柴様に桜々さんが、
「そんな事ないわ……次の引越先に正社員の仕事、保育園、それに暮らしに必要な物をしっかり揃える事が出来たのは、小葉さん! 貴女の頑張りなのよ!! よくやったわ! でもね、困った事があったら、遠慮なく来るのよ?」
「はい、ありがとうございます! ……桜々さんには育児の事やお下がりの服など、たくさんのご配慮を頂いて……亡くなった母が側にいてくれるようで、とても心強かったです。本当にありがとうございました……」
「そう言って貰えて、嬉しいわ。……蓮織くん、これからもお母さんと一緒に楽しい毎日を過ごしてね。元気でね……」
「あい! ママと僕をたしゅけてくりて、ありがとうございまちた。これからは僕がママを守りまちゅッ」
精神年齢の成長の速さは、そうならないといけない状況が生み出したもの……。幼いながらも勇ましい姿が痛ましくもあり、微笑ましくもあり……そう思いながら私は、
「蓮織くん……頑張り過ぎないようにね。これからたくさん、お母様の胸に飛び込んでいって、いっぱい甘えなさいませ。そして、蓮織くんも必ずギュッと抱きしめ返してあげて下さいね。それがお二人にとって……」
言い掛けたところで、蓮織くんがキリッとした顔付きに変わり、
「僕は男だから、そんな甘えはいけまてんッ」
「おや……そうですか? 私は違うと……思うのですが?」
「どうちて? 男は甘えたいってちたらダメって……」
「男が甘えてはいけないって……本当にそうでしょうか? ……いくつになっても、甘えられる場所があるというのは幸せで嬉しい事なんですよ? 甘えたいと思う時に甘えられる人がいる……それはとても素敵な事なのです。ですから、自分が甘えたいと思って、甘えられる相手がいるのならば、素直に甘えたら良いと私は思うのです」
「……いいの?」
「ええ、勿論! 甘えるという行為は自分の心を癒すための方法を学ぶ機会でもございます。……人というのはすぐに忘れてしまう生き物ですから、そうした経験があまり出来ぬまま大きくなってしまいますと、自身の心が傷付いた時にどう傷を癒したらいいのか分からなくなってしまうのです。そうすると自分が苦しくなっていき、いずれ動けなくなってしまう……それでは困ると思いませんか?」
「うん……」
「それに……甘えられる時間というものにも限りがございます。ずっと甘えてばかりでは何も出来ませんでしょう? ですから、どうか、その時間の使い方をお間違えにならないように、蓮織くんが嬉しいや楽しい、そして幸せだと思う事をたくさんしてみて下さいね。そうすればお母様もきっと素敵な笑顔になられますから」
「うん! ママの笑った顔、ちゅきッ! 泣いたお顔は僕も悲ちくなるから……」
幼い子どもは状況を分かっていないなんて、そんなものは大人の都合の良い解釈でございますね。幼いながらも、蓮織くんは現在に至るまでの事をしっかりと分かっておいでのようです。傷付けられ、痛め付けられた気持ちが早くたくさんの幸せな気持ちへと塗り替えられたらいいと……切に願うばかりでございます。
「ちょらちゃんッッ!!」
「レオーッッ」
なんとッッ!! 二人はギュッと熱いハグを交わしたのでございました。しかも、名前呼びですかッッ!! い、いつの間にッッ! うぬぬぬ……蓮織くん、侮るなかれ。
「ちょらちゃん、いつもありがとう。僕、わちゅれないからね。絶対、また会いに来るからね!」
「うん! いつでもおいで? 待ってるから……」
あぁーん、微笑む空生の横顔が美しいぃぃぃーッ!!
「ちょらちゃん、……僕、早く大人になって、むかえに来るから! 待っててねッ」
すると、子ども相手に嫉妬した倭久が大人気なく、
「ハイ! 残念でしたぁー!! ソラはもう僕の奥さんなんですぅー。レオは迎えに来ても駄目なんですぅー」
俺は認めてねぇッッ!! と、ドスの効いた声が出掛かったところに、
「うるちゃい、ワク! ちょらちゃんは僕と一緒の方が楽ちいって言ったもんッッ。ワクはいつも困ったちゃんだって、ちょらちゃん、言ってたもんッッ!!」
「えッ……嘘。……嘘だよな、ソラ? ……ねぇ、ソ……」
寝耳に水の倭久は空生を見ましたが、ニッコリ笑顔で返事を返され、撃沈したのでした。ザマァ! クククッ……。
「もう蓮織ったら……。じゃあ、そろそろ……。皆さん、本当にありがとうございました」
「ありがとうございまちたッッ」
そう言って、またお二人で深々と頭を下げられ、仲良く手を繋がれ、引越先である隣町を目指し、駅の方へと歩いて行かれたのでした。幼いながらも母を守ろうとする心意気と、人の手を借りずに自分の足で立ち、己の道を切り開いていこうとする羽柴様。お二人はこれで大丈夫のようでございますね。
私たちはお二人の仲睦まじい姿が見えなくなるまで、その場を離れる事はありませんでした。
しんみりとしていた雰囲気に桜々さんが、
「一件落着……かな」
「そうですね……」
「助け出した時にはどうなる事かと思ったけれど、立ち直って踏ん張った小葉さんは、偉いわね……」
「離婚協議もあちらがかなりゴネて、時間が掛かりましたからね。終わり良ければ全て良しです。あ、そういえば、いつの間にソラちゃんと蓮織くんはあんなに仲良くなったのですか?」
すると納得のいっていなかった倭久が、
「そうだよ、ソラー! 酷いじゃん、俺の言いようー……」
お前の事はどうでもイイんじゃぁッッ! 空生が居る手前、口に出せず、心の中で悪態を吐いていると、空生が
「小葉さんが忙しくて、どうしても保育園のお迎えに行けそうになかった時に連絡を貰って、私が迎えに行ってたりしてたし、離婚の話し合いの時とかも預かっていたから……」
「おや、そうでしたか……小葉さんとも仲良くなっていたのですね。……ソラちゃんは小さい子どもが苦手かと思っていましたが……」
「うん、今までは子どもって正直、苦手な部類だったかな……。でもレオは素直だったし、理解も早かったから。私も自分の子どもが出来たら、こんな感じなのかなって……予行練習にもなったかな……」
「はぇッ!? こ、こここ、子どもって……」
「私も一応、家庭を持った身だし、いつかは……って……」
「はっやぁぁあいッッ!! 早いッ、早過ぎるよ、そんな事を考えるのはッッ! こ、ここここ、子どもなんて、まだ駄目でしょうがぁッッ」
「何でよ……。そりゃ今すぐは無理だけど、いつかはって、思ってるだけじゃん……」
「駄目ですよ、ダメダメッッ! 子どもを育てるっていうのはね、そりゃー大変なんですって! すぐに熱は出すし、吐くし、いろんな物を口に入れるし、喋るし、走り回るしッッ……」
「そんなの当たり前じゃん……何言ってんの? 風邪も引かないで、喋らなくて大人しい子だったら、そっちの方が引くわ……」
「でもッ、でもッ!!」
〝子ども〟という単語に混乱し、慌てふためく私を制止するように桜々さんが、
「あーハイハイ。トッキー、落ち着いて? ね? あのね、今すぐの話ではないの。ソラも家庭を持った女性ならば、そうなりたいなっていう願いなわけ。子どもを授かるって、それこそ本当に奇跡なの。そして出産も命懸け。そうした覚悟と準備が出来たら、いつかはっていう事なのよ」
「出産は命懸けッッ! そうですよ、出産は命懸けなんですよッッ!! ソラちゃんに、もしもの事があったりなんかしちゃったら、私はどうしたらいいんですかッッ。泣いて泣いて、泣き明かして、YADOCALIが水浸しになってしまいますよッ! それでも良いんですかッッ!?」
「ハァアアー…………ほんっっとにウザッ!!」
「ウ、ウザって……。あ、ソラちゃん……あの、待って。どこ行くの? ねぇ……ソラちゃん……」
私の呼び掛けをスルーして、スタスタとジムの受付室へと入って行ったのでした。そして、顔を赤くしている倭久は私の横で何かモジモジとしております。何なんだよ、お前はッッ!! すると意を決したように、
「お父さんッ! 俺、ソラがそんな目に合わないように、しっかり支えますからッッ」
「はぁあああ!? 小僧の意気込みなんか聞いてねぇよッッ!! ……お前、空生に手ェ出してみろォ……。絶っっ対に許さねぇからなァー……。触るなよ、触んじゃねぇゾォッ! 分かったかぁああーッッ!!」
「トッキィーッッ!! ちょっと来なさいッ!」
そうして、私は桜々さんに首根っこを掴まれながら自宅へと連れ込まれ、小一時間ほど正座をさせられて、こっ酷く叱られたのでありました。桜々さん、素敵でしたぁ……。
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