自業自得
「自業自得だろ」
そう吐き捨てた人の顔はみんな一緒で冷たい顔をしている。(反対にその時の顔が笑顔だったらぞっとする。)
AさんがやったことでAさんが被害を被る。うん、まさに自業自得だ。AさんがやったことでAさんだけが被害を受けたときなんか特に皆そう言うだろう。特に間違ったことは言っていない、正論だ。
多分自業自得なんて言葉を作ったやつは現実主義者なんだろう。ただの一状況を表現したに過ぎないこの言葉には確かに冷たさを感じる。
だが、自業自得の本来の意味は違う。元々自業自得とは漢字通り、自分の"業"は自分に返ってきて、自分の"得"も自分に返ってくる事を表している。良い行為も悪い行為も良い結果、悪い結果として享受するという意味だ。
そう知ると自業自得という言葉から冷たさはあまり感じない。しかし世間一般では業が返ってくる意味だけで自業自得を使っているから後述の自業自得はその意味で使う。
自業自得と言うのは実に楽だ。自業自得と言えば話をそれで終わらせることができる。ここで自業自得がなぜ冷たく感じるかに言及したい。この自業自得という言葉には自分の業が自分に返ってくるという単純な意味以外にもいくつかそれから派生した他の意味が混ざっている。
その一つが無関係性だ。自業自得な失敗は他人の業が関与していない。つまり、完全にそいつ一人の失敗であり、自業自得という言葉は他人である発言者にとってその対象が無関係であることを表す。
更にこの無関係という意味もただ純粋な無関係という意味ではない。この場合の無関係は簡潔に言うと、その自業自得な行為と結果に対しての無関心さも表している。
無関心って何だ?話題にあげているし少なくとも無関心ではないだろうとの疑問を私は想定したのでそれに対して返すとする。ここで言う無関心さというのは無慈悲さに言い換えることが可能だ。
無慈悲さとは、大抵の人が自業自得な行為をしてその結果を被っている人間に対して何らかの関わりを持ったり、救済をしようとしないことを指す。なぜ助けないか、自業自得からだろうと簡単に答えを出すこともできるが、詳しく言うとそれは無関係であることからくる無関心によるものだ。
自業自得なことは他人である自分にとって無関係だから無関心になる。このプロセスは実際には限定的なものになる。突然だが、例として大学のサークルで温泉旅行を計画していたとする。そしてその温泉旅行の費用は参加する各々が負担し、その費用を徴収、管理する役目をBさんが担っていた。しかし、そのBさんがその徴収した費用を落として紛失、温泉旅行計画が頓挫してしまう。それはBさんの管理不足でBさんが旅行に行けなくなってしまうという自業自得な結果とも言える。だが、このBさんの失敗の被害を被る人はBさんだけではないのは当然だ。この場合の自業自得は他人にとっても無関係では済まない。被害を受けたサークルの人がお金を返してくれと既にお金を失ったBさんに詰め寄るかもしれない。
この例は極端だと思うが分かりやすい。この例の場合、Bさんに対して金を失ったサークルの人が自業自得だなと言えるだろうか。そんな余裕はない。そのサークルに所属していない人は「あーあ、Bの自業自得だな」とか何とか言えるかもしれないが当事者にとったら自業自得では済ませられない、実損が出ているのだから。
この例で示せるのが、自業自得と当事者は言えないことだ。実質、自業自得という言葉は業やそれによる結果全てに無関係である者しか使えない。そして同じく当事者は無関心ではいられない。会社で全く違う課の奴が失敗してもそれは他岸の火事だが、同じ班の奴が失敗したら他人事にできなくなる。しかし、この例では無関係だから無関心の解にはなっていない。そもそも無関係じゃないと自業自得と言えない、言い換えるとこの例は、失敗の影響も自分一人で被らないと自業自得であったとしても一般的にはそれを自業自得とは称しないことを示しているに過ぎないことになる。
なら無関係だと無関心なのか、無関係でも火事の現場に野次馬が現れるように無関係だから無関心は成り立たないのではないかという問いが生まれる。 問いの答えとして、正確には完全には無関心ではないからと答えよう。それはどういう意味か。確かに先述したように僅かばかりでも関心があるからそれを話題にあげ、自業自得だと誰かが締めくくるのであって、完全に無関心なら話題にすら上げないはずだ。しかしその関心の強さには必ず上限がある。その関心の強さの上限は自業自得な人に手を差し伸べない限界値である。なぜなのか。そこには新たな要素、"自己責任"という考えが関係している。
自己責任とは知っての通り、自分の行動の責任は自分にあるという考え方だ。自業自得だと言われる行為は部外者から見ただけは皆等しく愚かであり、その失敗の原因の十割が実行者に起因する。誰が悪いかと言われれば完全に実行者であるAさんが悪い。この悪いことをしたAさんがそれによって起きた損害全て背負えと言うのが自己責任である。自己責任の"責任"にはただ責任があるという意味だけでなく、責任を背負って果たせと言う意味まで入っているということだ。
そしてこの自己責任という考え方にはトリックがある。確かに自分の行動によって起きた損害の責任は自分で背負わなければならない。しかし、どこにも他者が手を差し伸べてはならないとか、必ず自分の力だけで解決しろなどとはなっていない。もし、Aさんの自業自得な失敗でAさんが困っているときにDさんが助けたいと思ってAさんに申し出たとする。そんなときに「いえ、これは私の自業自得。Dさんに助けてもらっては困ります」となるだろうか? Aさんが意固地な人だったらそういうこともあるかもしれないが、助けてくれるなら助けてもらっても構わないだろう。
だが、冒頭で出した「自業自得だろ」という言葉を吐いた者には自業自得、自己責任なのだからという考えで、助けることは微塵も思い浮かんでいないはずだ。"自己責任な行動で起こした失敗"は助ける対象の範囲外になっているからだろう。そして、その行為が愚かであればあるほどその対象から遠ざかっていく。つまり無慈悲になるのだ。
ここであえて言いたいのが、愚かであればあるほど助けたくなくなるが、損害も大きくなることだ。そしてそれは愚かで、自業自得であるから誰も助けはしない。私は万人を救えなど口が裂けても言えないが、立場が変わればどうだろう。もし家族の誰かが愚かな行為をすれば、見ず知らずの人には差し伸べない手を差し伸べる確率は大きくなる。愚か者だから愚かな行為をするとは安直に言い難い。愚かな行為をしたものが社会的に愚か者になるだけで、それだけで愚かさを測れるわけではないからだ。
見ず知らずな人は手が繋がっていないからどうしようもないが、あなたの知り合いや友が愚かな行為をしたとき、ただ単純に愚かさを言い訳にして、自業自得だろと吐いて切り捨てず、自業自得で自己責任である失敗に押し潰されている人に手を差し伸べる優しさを、独りが生きていく上で必要のない優しさを十人のうち一人でも持っていれば社会は優しくなるだろう。ただこれだけが言いたかった。