予兆3
ヒルダと黒鬼の戦いが終わって数分経った後だった。
「やはり、遅かったようですね。」
扇子を口に当てた風切りの神は側近を連れて、そこに転がった黒鬼の死体を見つめた。
側近は少し顔を歪ませながら、そっとたえていた。
このご時世、平和の方が勝っている世界だ。血生臭い死体を見れば、現代人ならば誰しも気分を害すだろう。
風切りの神は横目でジロリと視線を動かした。
「…ジーナ、気分が悪いなら下がっていなさい。」
風切りの神は呆れたように、側近のジーナに命じた。
「いいえ!大丈夫です。…私はいずれ貴方様の後を継ぐ者です。…ここで甘えるわけにはいけません。」
ジーナは体をふらつかながら、口を軽く抑えた。
「いいから下がってなさい。第一、こうして人が亡くなることは普通では無い、けっして会っては行けないことです。」
風切りの神は今この場を去ることに対して恥では無いと言う。彼女の顔は無表情なのにとても辛そうな顔をしていた。
「大丈夫。私は長年生きているから慣れた光景だけど、今は戦いの時代では無いわ。だから先に帰りなさい。」
風切りの神はジーナに振り向くと優しくそう言った。
「…わ、分かりました。命令通り一時撤退させてもらいます。」
ジーナはそう言うと一瞬でこの場から去った。
さぞかし負担がかかっていたのだろう。
「さてさて、ようやく二人きりに慣れたわね。…そろそろ出てきたらどう?」
風切りの神は冷たく言うと、側にあった向かい側の大きな石に目を向けた。
そして人影が透明に映り静かにその人物は姿を現した。
「…お久しぶりですね。…ヒルダ。」
風切りの神は目を細めると、それを見た彼女は細く笑った。
彼女はゆったりとした雰囲気を出しながら、足を優美に組んで石の上に座っていた。まるでずっと前からいたように。
「ふふふ、ああ。そうだな、風切りの神は今も健在のようだな。イザベラーナ。」
二人の冷たい視線がぶつかり合い殺気を生んだ。
「貴方が何故こんな所にいるのかしら?」
「私を誰だと思ってる。何千人もの神を殺し世界を滅ぼそうとした悪神だぞ。」
考えて見れば、わかるだろう?と言いながら、ヒルダは微笑んだ。
「確かに、貴方ならあの結界を破ることは不可能では無い。でも、貴方がそんな単純なことをする様には見えません。」
たとえヒルダ自身が結界を破ることが出来たとしても、後々考えればヒルダにとっては多少の打撃を受けることになる。
つまり彼女にとってはマイナス面が増えることになる。
イザベラーナは疑いの目を向けながら結論を出す。
「…協力者、ですか。」
つまり裏切り者がいると言うこと。
ヒルダはその回答に笑みを深くした。
その顔は肯定か。
「貴方は今のこんな世の中にも滅んで欲しいと望むのですか?」
「私からすれば、お前が一番愚かに見えるがな。」
ヒルダは少し不機嫌になりながら、イザベラーナを睨んだ。
「…やはり、貴方とは考えが合わない。」
「一度でも馬があったことは無かっただろ。」
イザベラーナはヒルダの言葉に納得すると死んだ黒鬼の側に寄った。
「酷いものね。こんなになって。」
黒鬼の死んだ目をイザベラーナが静かに閉じてやると頬を撫でた。
イザベラーナは刺された首元に手を持っていくと静かに目を閉じた。
「その女は実に愚かな神だった。」
ヒルダが横から退屈そうに口を出した。
「そうね。でも貴方に似ていた。」
「だからなんだ。」
何千前の話をしていると思ってるだとヒルダは呆れた。
「ヒルダ、忠告よ。このまま、この世界に口を出さないなら貴方が生きていても文句は言わない。…でも私の大切な物にこれ以上手を出すなら、容赦しないわ。」
イザベラーナの言葉にヒルダはその場から立ち上がった。
「お前に何が出来る。ただただ、何千年も平凡に生きていたのか?それこそ時間の無駄使いだな。」
互いに威嚇しながら冷静に見つめ合う。
イザベラーナは死んだ黒鬼の死体に手を伸ばした。腕を首に回してゆっくり抱えた。
黒鬼から流れた血がイザベラーナの服を汚した。
彼女は特に気にすることも無く、ヒルダに背を向けて去ろうとする。
「魂の神でも頼るつもりか?」
「…何?嫌なのかしら?」
イザベラーナの言葉にヒルダは顔をそらした。
「あいつは辞めてとけ、助けてくれない。」
「あら、随分と酷い言い方をするのね。」
彼女はそう言ってクスリとらわった。
「大丈夫よ。彼なら確実によみがえらせてくれる。…交渉次第だけどね。」
ヒルダは彼女が歩き始めると反対方向に進んだ。
犠牲者は一人如きでは無い。封印の領域全てほぼ壊滅的にしたこの事件はすでに覆い隠すことは不可能だった。
予兆はすでに動き始めた。そして、新たな伝説もまた生まれ始めるのである。
封印領域の事件から数日、全領土にその事実と噂は広まっていた。
しかし原因はいまだ公開されないまま、人々の疑心暗鬼だけを強めていた。
神研修を間近に控えていた高等部三年生達の間でも、その話で持ちきりだった。
「あの事件以来、随分と騒がしくなったな。」
食堂のテーブルに食事を置いて、トワイとディアはどこか冷めたように食べていた。
「そうね。でも私にとっては神研修の方が重要ね。」
ディアはパンを片手に持ってのんびりとしたように言った。
今日のメニューは洋食のようだ。定番のパンとスープがお盆の上に並び、朝食を静かに進めた。
「だろうな。…ところで、今回の事件は調査中で処理されている。本当にそう思うか?」
「人それぞれじゃないのかしら?でも黒い炎とそれに巻かれる兵士を見たと言う証言もあれば、人一人の死体すら無くて、自然現象だと言う人もいる。」
矛盾して無い?ディアは横目でトワイの方を見た。
「でも一番馬鹿げているのは、かつての悪神、神殺しの殺神が引き起こしたと言う噂よ。」
ディアはパンを食べ終わると次はスープに手を伸ばした。
「あり得ない話でも無いだろう。」
「確かにそうよ。でも、かつて全精力の神々の力で封印した悪神よ。私はただ信じたくないの。」
今、この世にそんな化け物が解き放たれたらどうなることか。
もし本当にそうなるなら、今から神になろうとしている私がその争いに巻き込まれることは確定している。
だからこそ、信じたくないとディアはここの底から思った。勝ち目など私達見習いにあるはずが無いのだから。
「だが、その可能性が一番高い。なにせ、その悪神が封印された場所で問題は起きているからな。神々の幹部達もいづれかは真実を離さなければならない。」
「きっとそうなれば、私達も駆り出される。神殺しの殺神にとって私達も排除の対象でしか無い。」
神研修を控えた今、その危険はますます上がっていく。秩序維持の六等神達も神投票の大切な行事前に水をさされて厄介なことになっているのだろう。
「まぁ、考えても仕方ないことよ。」
「そうだな。だが、お前は災難だな。封印領域が立ち入り禁止の今、封印の神の研修は出来なくなったんだろ。」
ディアはカップに注がれた紅茶を飲みながら、トワイの話を聞いた。
ディアが適性のあった封印の神の研修は今回の事件で中止となってしまった。
今回は上の連中も余裕が無いのか、特例として私はトワイと同じ魂の神の研修に行くことになったのだ。
「私にとっては喜ばしいことに決まってるでしょう。」
噂は噂を読んで、様々な情報が飛び返りながらも、信じられるのは自分の目だけだ。
そして、トワイ自身はこの神研修をうまく乗り越える事の重大さを感じていた。