サムデイ・イン・ザ・レイン
梅雨は明けてしまったけれど、楽しんでいただければ幸いです。
「あー、また今日も雨かあ」
白の丸いローテーブルに上半身を投げ出し、だらりとうなだれながら美久が言う。普段からもっちりとしているほっぺたをさらにリスのように膨らませ、まるで機嫌を損ねた子どもみたいにくちびるをとがらせている。
「しょうがないよ、梅雨なんだから」
窓を少しだけ開け、網戸越しに外を眺めながら侑加子が呟いた。
今朝の天気予報によると、しとしとと降り続くこの雨はどうやら明後日までやまないらしい。もしそれが本当になれば、一昨日から数えて五日連続の雨ということになる。太陽の光があまり得意ではない侑加子でも、さすがに陽射しが恋しくなってくる。
とはいえ天気についてどうこう言ったところでどうにもならない。雨でも雪でも嵐でも、いつだって侑加子は「そんなものはしょうがない」で終わらせる。実際しょうがないのだからしょうがない。
しかし美久はなかなか諦めがつかないようで、「そうは言うけどさー」と不満げに眉をしかめた。
「こんなに雨ばっかりじゃ嫌にもなるよ。だって湿気で髪はうねるし、肌はべたつくし、いいことなんてひとつもないもの」
ふむ、と鼻を鳴らす。それもそうかもしれないと侑加子は思った。
言われてみれば確かに侑加子の毛先も湿気のせいで少しだけ跳ねているし、制服のスカートも腿にぺたぺたとくっついている。
とはいえそこまで気にならないのも本音だ。自分は美久ほど見た目にこだわりを持っていない。だからどうだっていい。一応女子だから少しは気を使わないと、と思っているだけだ。
「せっかくちゃんとセットしてるのに、これじゃ意味ないよ」
美久はさっきからしきりに髪を指先で巻いていじっている。侑加子から見ればいつもと差はほとんどないのだけど、本人的にはかなり違っているらしい。なかなかのこだわりがあるみたいだ。
侑加子は美久のこげ茶色の髪を見つめた。
「でもさ、美久、いつも髪巻いてるじゃない」
そう。美久はいつも綺麗に巻かれた髪を頭の横でふたつに結っている。小さな頃の写真を見る限りでは元はストレートヘアのようなので、どうやら毎朝早起きしてカールアイロンをしているらしかった。
美久はちらと侑加子を横目で見た。
「巻いてるけど、それがどうかした?」
「その髪型、湿気関係ある?」
まっすぐにした髪がうねってしまうのは嫌というならわかるけど、自らくるくると巻いておいて毛先がうねるのを湿気のせいにするのはどうかと思う。
「あるよ、超あるよ。侑加子にはわからないかもしれないけれど、私はこの髪型の細部までこだわってるんだからね。そもそもコテで髪を巻くのって結構難しいんだよ。慣れないと綺麗に巻けないし、ちょっと間違えると火傷しちゃうかもしれないし、それに……」
「へえ、そうなんだ」
軽く相づちを打ち、美久の隣に腰掛ける。
美久は再びむっとくちびるをとがらせた。
「適当すぎる返事」
「適当ってことは適切ってことだ」
「違う、いい加減って意味だよ」
「『ちょうど』いい加減ってことだね」
「もういい」
ふんと鼻を鳴らして机に突っ伏してしまう美久。本当に子どもみたいだ。スーパーでお菓子を買ってもらえずにごねて床に寝そべる幼稚園児に見える。小学生の子どもたちのほうがよっぽど大人らしい。
「でもさー、こうも毎日雨続きだと気分もじめじめしてくるよ。本当はもっといろんなところに出掛けたいのに」
「例えば?」
「動物園とか遊園地とか」
「やっぱり思考が子どもだ」
「なによ、悪い?」
顔をやや上げ、美久は侑加子をじっと睨む。
いや、悪くはない。侑加子だって動物園や遊園地が好きだ。こんな天気が続いているならなおさらそういうところでめいっぱい遊びたいと思うのはなにもおかしくない。
侑加子は思い直し、すぐに「ごめん」と一言謝った。美久は「わかればよろしい」と深くうなずいてみせる。そこまで怒ってはいなかったらしい。侑加子はほっと息を吐き出す。
少し間を置いて、侑加子は薄いくちびるに弧を描いた。
「まあでもお出掛けができなくたって楽しく過ごすことはできるよ」
言うと、美久はうかがうように目を細めた。
「部屋の中で遊ぶってこと?」
「そうだね」
「それってトランプとかジェンガのことを言ってる? 悪いけど、私、テーブルゲームは飽き飽きしてるの。小さい頃からお兄ちゃんに鍛えられていたから」
「へえ、初耳」
「めちゃくちゃ強いよ。ババ抜きでは負けたことないの」
「そうなんだ、すごいね」
今の時代にそういったアナログゲームが得意だと胸を張る人もなかなか珍しい。侑加子はどちらかというとテレビゲームのほうが得意だ。ババ抜きやジェンガは相手がいてこそ成り立つゲームだから一人っ子の侑加子にとってはあまり身近ではなかった。
「だけどね、美久、あたしが言いたいのはそういうものじゃないんだよ」
微笑むと美久は目を丸くさせた。
トランプでもジェンガでもない、部屋でできる楽しいこと。
「……UNO?」
侑加子は首を横に振る。
「違うの? じゃあなんだろ。花札とか? あ、オセロかな。それとも囲碁? 意表をついて人生ゲームとか!」
侑加子は笑いそうになる。
違う。全然違う。
「えー、全部違うの。ええと……ヒントちょうだい」
上目遣いでかわいくねだられる。美久は自分の武器をよくわかっている。
侑加子は苦笑し、ひとつだけヒントを出した。
「ベッドの上ですることだよ」
猫のような美久の目がさらにまんまるになる。ベッドは想定外だったのだろう。
「ベッドの上……。あ、わかった。お昼寝だ!」
手をぽんと叩く美久。侑加子は今度こそ笑った。
「限りなく近いけど、違うね」
そもそも昼寝は楽しいものなのだろうか。よく食べてよく眠る美久にとってはそう感じるのかもしれないけれど。
「うーん……なんだろ、わかんない。教えて?」
侑加子はうなずき、にっこりと微笑む。
「それじゃあ目をつぶって」
侑加子の言葉に美久は不思議そうな顔をする。しかしすぐに言うことを聞き、まぶたをゆっくりと閉じた。
侑加子は美久との距離を縮め、じっとその顔を見つめた。それから美久の寝顔のような表情を脳に焼きつける。
かわいい。世界でいちばんかわいい。
侑加子は心の底からそう思い、そっと美久の頬に手を当てる。そして美久のやわらかなくちびるを優しく奪った。
突然のキスの感触に目を開いた美久は、一度まばたきをして言う。
「……これが部屋の中でできる楽しいこと?」
侑加子は意外だと思った。いきなり変なことをされたというのに、美久は嫌がったり怒ったりしているような雰囲気はない。
美久の問いに侑加子はゆるゆると首を横に振る。
「いや、これは物語でいうイントロダクションの部分だよ。本番はこれから、ベッドの上でするんだ」
「ふうん」
そう言って侑加子はなにもわかっていない美久をベッドに寝かせる。組み敷く体勢を取り、美久の顔をじっと見つめた。
美久は目をそらさず、まっすぐ侑加子を見つめ返し、言う。
「ねえ、侑加子、なにかえっちなことしようとしてない?」
思わず目をみはった。なにも気づいていないように見せて、本当は全部わかっているらしい。
なんのためらいもなく率直に聞いてくる美久に、なんと返そうかと一瞬固まる。しかし特段悩むことではない。侑加子は軽く笑い飛ばした。
「そうだけどなにか問題でも?」
問題なら山ほどある。自分でもそうは思ったけれど、ここまで来たらもう後には引けない。だってこんなかわいい子を目の前にして、こんな状況で、いただかないなんてわけはないだろう。
美久はやれやれと呆れたようにかぶりを振った。
「侑加子ってば恋愛に興味なさそうな顔しているくせに、本当はそういうことばっかり考えてるのね」
「そうだよ。悪い?」
「あ、開き直った」
開き直るしかないだろう。
そんな侑加子に美久はいよいよ溜め息をつく。
「侑加子の言う部屋の中でできる楽しいことって火遊びのことだったんだね」
「火遊びじゃない、これは本気」
「よく言うよ」
「冗談だと思うの?」
「どうかな」
「じゃあ今から確かめてみればいいよ」
そこまで言って、侑加子は真剣な目つきで言う。
「美久がよければ、だけど」
今まで笑いながら軽口を叩いていたかと思えば、今度は真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、美久は思わず噴き出した。
くつくつと肩を揺らす美久に、侑加子は目を丸くする。
「え、なに、あたしなにか変なこと言った?」
「言ってるよ。ずっと言ってる」
あまりに美久が笑うものだから、侑加子は困って頬を掻く。自分の言動はそんなにおかしかっただろうか。美久のことが好きで好きでたまらないから自分のものにしたいけど、美久が嫌がるならこれ以上は手を出さないと、そう伝えたかったつもりなのだけど。
ひとしきり笑った美久は侑加子の目をまっすぐに見る。
「いいよ、しようよ」
率直な返事に、侑加子は目をしばたく。
しようよ、って。
「え、いいの?」
「いいよ、どうぞ」
これは夢か冗談か。現実に起こっている出来事だとは思えない。でも今自分の目の前でキスを待って目を閉じている友人……いや、想い人の頬に手を触れてみると、やわらかく温かな感触が伝わってきて、これは嘘なんかではないのだと思わせてくれる。
汗ばんだ喉をこくりと鳴らし、ゆっくりと顔を近づける。
「あ、ねえ、ちょっと待って」
くちびるが触れる寸前で美久はぱちりと目を開ける。突然の寸止めを食らい、がっくりとした侑加子が目を細めた。
「なに? 今いいところなんだけど」
「うん、わかってる。でも、ほら、窓開けっ放しだよ。閉めようよ」
なんだ、窓くらい。
侑加子は美久が窓に向かって伸ばした腕を掴み、シーツに縫いつけた。
「いいよ、このままで」
「よくないよ。だって、どうするの、その、声とか聞かれちゃったら」
「大丈夫だよ。今日は雨なんだから。雨音がきっと全部掻き消してくれるよ」
「なに言って……んむっ」
もうなにも言わせない。
侑加子は美久の口をキスで塞ぐ。
今も外は雨が降り続いていてまったく止みそうにない。けれど、こうして二人でまったりと過ごす時間が増えるのなら、侑加子は一向に構わないと思った。
それから、ほんの少し跳ねた毛先も、しっとりと汗ばむ身体も、梅雨ではなく全部自分のせいにしてくれるのなら、それはそれでいいかもしれない、とも。
終