泡と散る
月のない夜。
夜闇は全てを隠すように其処に在った。電灯の切れた外灯は何も移さず、光に誘われる蟲すらも居ない。そんな真暗闇の中を一人で歩いていると、不意に、自分以外の全ての生物がこの世界から消え去ってしまったかのような錯覚に囚われた。
寝静まった町。
車一台通らない道路の真ん中を一人、ただ何処を目指すでもなく歩いている。
普段ならば出来ないことでも、今なら何でも出来るように思えた。現に、道路の真ん中を歩くなど、昼間であったら決して出来はしないのだろうから。
やがて、小さな公園に辿り着く。
気の利いた遊具などほとんど置いていない、子どもたちが遊ぶにしたって狭すぎるような公園だ。
ベンチに腰掛けて空を見る。月のない夜空というのは、中々味気ないものだと鑑賞に浸った。
生まれてから二十三年。こんなにも一人であるという事を実感したのは初めての事だったかもしれない。
学校に通っていた頃も、会社に勤め始めた頃も、常に自分の近くには誰かが存在していた。決して、人気者であったというわけではないのだけれども、それでも、一人ぼっちになったという経験には乏しかった。
ああ、そう言えば。
想い出す。あれは今から十年前の事。
◆ ◆
僕の両親は平凡的な人たちであった。父は会社勤めの平均的なサラリーマンで、母はパートもしていない専業主婦というやつだった。なので、僕が家に帰る時は、決まって母が晩ごはんの支度をして家で帰りを待っていてくれた。しかし、あの日は違った。
夜の八時を過ぎた頃、僕は友達の家で晩ごはんをごちそうになって帰宅した時、家の電気は一つとしてついていなかった。
そう、あの日も今日のように月のない夜だった。
鍵を開けて家に入り、ただいまと呟いても、返事が返ってこなかった。その時の心細さがやけに印象に残っている。玄関から入って右手にあるリビングの電気をつけると、ラップに包まれた晩ごはんと一枚のメモ用紙が置かれていた。メモ用紙には、母の字でさようならと一言だけ記されていた。
その言葉の意味が分からず、折角作って貰った晩ごはんを無碍にあしらうこともできずに、僕はそれを食べ、母の帰りを待った。
だが結局のところ、母は帰っては来なかった。
時計が十二時を指して、日付が変わった頃に僕は母の帰りを待つのを止めて部屋のベッドに潜り込んだ。翌朝、目覚めると、平日の朝にしては珍しく、父の姿がリビングに在った。
僕は父の姿に疑問を持ちながら「おはよう」と挨拶をした。父は、少し悲しそうな表情で、それでも僕に対して笑いかけるように返事を返してくれた。
普段、母は朝ごはんを作ることが苦手な人だったから、本来なら朝ごはんはいつも食パンとジャムだった。しかし、その日は珍しく白いご飯と、味噌汁が用意されていた。それは、日曜日に父が休みの日に作ってくれる朝ごはんと同じものだった。
「どうしたの? 今日は会社休み?」
不意に疑問に思って聞くと、父はまた少し悲しそうな表情を浮かべて、その後少し返答に困ったように頬をかいた。
「そう言えばお前、学校はいいのか?」
言われて、時計を見るともう七時を回っていた。僕の通う中学校は徒歩で十分の所にあるが、その道中には開かずの踏切と呼ばれる踏切がある。それに引っかかれば、五分のタイムロスは覚悟しなければいけないだろう。
結局、僕は父が何故家に居るのかも、母が何故家に居ないのかも、両方の疑問を胸中に仕舞いこんで、急急と家を出た。
かと言って、疑問がそのまま消えてしまうわけでもなく。
僕はその日一日中、二人の事を考えていた。
授業はほとんど上の空で、休み時間も友達と遊ぶようなことはしなかった。
その日の夕方、家に帰ると知らない靴が置いてあった。見たこともない茶色の革靴。何処か高級そうなその靴は、僕の父のものでも母のものでもない。だって、見たこともない物なのだから。
誰かお客さんでも来ているのだろうと、僕はリビングに寄らずにそのまま階段を上り、自分の部屋へと向かった。途中、階下から話し声が聞こえていたが、何の話をしているのかは分からなかった。
僕の家の二階には、僕の部屋と、父の仕事部屋と、それから両親の寝室がある。気になって、寝室を覗いてみると、母のベッドの上は丁寧に整えられていて、そこで人が眠っていた形跡はなかった。それに対して、父の布団はいつもより少し乱れているようにも思えた。
普段、母が家にいたら、二人共のベッドが整えられているか、二人共のベッドが乱れているかのどちらかでしかない。別に、毎日寝室の中を見ているわけではないのだけれども、少なくともこんな風になっているのを見るのは初めてだった。それだけで、矢張り母は帰って来なかったのだと実感する。
部屋に篭って宿題をしていると、玄関の扉が閉まる音と、鈍い、車のエンジン音が聞こえてきた。窓からそっと外を見ると、真っ黒で、これまた高級そうな車が、家の前を走っていった。
時計の針が七時を指すと、控えめに部屋のドアがノックされた。ドアを開けると、父が少し疲れた顔で立っていて、僕にご飯だよと告げた。
父と一緒に階段を降りて、リビングに向かう間、二人の間に流れた沈黙は、少し気まずいもので、リビングに入ってようやく父が口を開くまでは、妙な緊張感が常につきまとっていた。
「今日から、俺がご飯を作るんだけど、お前、何か食べれないものってあったか?」
父の言葉に、僕は無言で首を振る。
テーブルに在ったご飯はオムライスだった。ソーセージと一緒に、ベーコンも入っているのが、僕は父のオムライスが好きな理由の一つであることを、多分父は知らなかっただろう。
「なあ」
晩ごはんを食べ終えた後、なんとなくそんな気分になって食器を洗っていると、後ろから父が声をかけてきた。
「もしもうお母さんが返ってこないとしたらどうする?」
父は、悲しそうに問うてくる。
「どうって?」
でも、僕は既に母がもう返ってこないのだという事を、何処かで察していた。恐らく、母の置いて行ったメモ書きを読んだ時点で、そんな予感はしていたのだ。
「なんていうのかな、悲しいとか、会いたいとか……いや、違うな……」
どう言葉を選んでいいのかわかりあぐねた様子の父が、いつもより小さく見えて、僕は一度スポンジを動かす手を止める。
じゃーじゃーと、水の流れる音が耳にこびりついて離れないので、蛇口も捻った。
「お母さんはどうしたの?」
僕の中で、母が帰って来ないと言う事実は、もう覆せないような事実のような気がしていたので、どちらかと言うと気になるのは理由だった。
母が帰ってこない、と言う事よりも、何故母が帰ってこないのか、その方が僕にとっては重要で、その理由こそが全てだった。
「お母さんはな、やっちゃいけない事をやっちゃったんだ」
「やっちゃいけないこと?」
「悪いことだ」
悪いこと、と言われてもピンとは来なかった。ただ、それだけで母が何か事件を起こして、帰ってきたくても、帰ってこれない現状にあるのだという事は理解した。
「うん。だから、俺とお前も、来週には此処から引っ越さなきゃいけなくなる。まだニュースにはなってないけど、もしニュースになったら学校で何を言われるか分からないからな」
「引っ越すの? 何処に?」
「お婆ちゃんの家の近くだよ。あそこなら、噂が入ってきても大丈夫だから。お前には、そこの中学に転校してもらう」
転校、と言う言葉に僕は少しドキリとした。僕の祖父母は田舎に住んでいる。毎年正月になると遊びに行くが、そこの中学校は、全校生徒会わせて百人にも満たない小さな学校だ。そして何より、転校したら今の友達とはもう会えなくなってしまう。
「友達と会えなくなるのは寂しいだろうけど、お前に辛い思いをさせたくはないんだ」
辛い思いというのならば、転校こそ辛い思いだ。その頃の僕は、自身が子供であるが故に、子どもというのが一つのきっかけを基にどれだけ残虐な行いを出来るのかという事を、まったく理解できないでいた。
一週間後、本当に僕は父の田舎に引っ越し、その地元の中学校に転向した。そこでは、少人数が故に起こりうる、新参者への拒絶反応などはなかった。その数日後、僕の母親の名前が夕方のニュースで流れたが、その学校ではそれをネタにして嫌がらせをしてくる輩などは存在しなかった。
◆ ◆
今になって思えば、父の判断は正しいものだったのだろう。僕が元々通っていた中学校に残っていたとしたら、一体どんな嫌がらせを受けていたか、想像に難くない。
しかし、嫌なことを思い出したものだと、息を吐く。吐息が白くなっていて、まるでタバコを吸っている時のようだと思った。そんな事を思ったから、ついついタバコが吸いたくなってポケットの中のタバコを取り出してしまう。
公園で吸っていいものかと悩んだものの、辺りに人の気配はなく、誰も見ていないのだから咎められることもないだろうと、自分勝手な結論を付けて火をつけた。
あれから五年後に、母は自殺して亡くなった。父は結局離婚しなかったらしいのだが、、母と再会したのは結局葬式での事だった。親族だけで執り行われた葬式では、父はずっと目を赤く腫らしていた。それでも僕に涙を見せなかったのは、僕に対しての父なりの気遣いなのだろう。
父はよく、お前は母を恨んでいるかと僕に訊いてきた。そんなことはあるはずがないのに、父はずっと僕が母をどう思っているのかが気がかりだったらしい。それは、僕に対してと言うよりも母に対しての優しさだった。父は、母が死ぬまで、そして自身が死ぬまで、母のことを好きで居続けていたのだ。
僕は、一体どうだったのだろうか。
母のことは好きだった。
優しくて、家事の上手い母のことを、僕は好いていた。最終的に捨てられるように居なくなってしまったが、それでも好きなものは好きだったのだ。
だというのに、僕は母が居なくなった時も、母が死んだ時も、決して涙を流すことはしなかった。それが何故かは、今になってもわからない。理由なんてものは、もしかしたらないのかもしれない。
ただ、母が居なくなっても、僕の周りには父が居て、祖父母が居て、友達が居た。だからきっと、僕は母が居なくなってしまったところで、結局のところ一人にはならなかった。それが、僕が悲しみを感じることが出来なかった原因の一つなのかもしれない。
◆ ◆
タバコを吸い終えると、公園を出た。
未だに、辺りは暗いままで、夜明けまでは後三時間はある。懐かしいことを思い出して、やけに体に気怠さが残っていた。
ひんやりとした空気に肌を撫でられながら、来た道を戻る。じりじりと、右目の奥が微かに熱を帯びて痛んでいる。
真っ暗な闇。
それを見通すように、右目だけがあらぬ景色を見つめている。
それは、母が死んでまもなく僕の体に起こり始めた異常だった。
母は、時折変な夢を見ていたらしい。
何か、悲しい夢。
誰かが不幸に成るだとか、そんなような夢だ。
僕は、母が死んでから一度も夢を見ていない。その代わり、時折白昼夢のように、右目の奥に、短い映画が流されるように見たこともない景色が浮かび上がってくる。
毎回毎回、なんの統合性もないその景色を見るのは、いつだって月が浮かばない真っ暗な夜のことだった。
上映の幕が開く。
淡いライトに照らされて、一人の僕が空を仰ぐ。
頭上からは鉄骨の雨。
あぁ──そう言えば父が死んだ前日も、僕は似たような夢を視た──
世界は真っ暗な闇に包まれている。
右目の奥に映る景色だけが、太陽の明るさに包まれていた。