第2章 その4: 黒と赤
香澄先輩と別れて、私は廊下に出た。
どっちに行こうか少し悩んで、特殊教室棟へ向かった。教室棟の雰囲気は変わらないし、全員の悩みを聞いていくこともできない。そもそもの大本をなんとかしないと。
香澄先輩に貰ったコインと、影が消えたところにあったコインを比べてみる。浮き彫りの有る無しは違うけど、大きさと材質、装飾はそっくりだ。多分セットなんだろうけど、何のコインなんだろう。
ふと前を見ると、薄暗い廊下が更に暗くなった。そこに、更に暗いところがある。
あの『影』だ。引きずるようにのろのろ動いて、隣の教室に入っていく。
隣の教室は、化学室だ。
ちかちか、と廊下の電灯が明滅して、廊下は前の明るさに戻った。……それでも、薄暗いけど。私はポケットにコインを入れて、『影』の後を追った。
化学室は、白衣を着た生徒が何人かいて、何かの実験をしているようだった。
けれど。
その人達は透けていた。薄っすらとだけど、人影の向こうの景色が見えている。
目をこすってみても、変わらない。錯覚ではないようだ。
実験してるのは、同じクラスの高槻君、庄司さん、それから、先輩が4人。もう卒業したはずの先輩がいるけど、多分化学部のメンバーだ。顧問の花鶏先生が一番前の机で薬品を並べている。
授業中のはずなのにどうして部活してるの、なんて疑問に答えてくれる人はいない。そもそも、私の存在は認識されていない。
花鶏先生が準備室に入っていく。生徒達だけが残った化学室で、1人、1人と透けている生徒が消えていく。
最後に、高槻君だけが残った。
近付いてみると、高槻君は何かの試薬を混ぜているみたいだった。試薬瓶から、メスシリンダーに試薬を移して秤量し、ビーカーに入れる。試薬瓶には、『濃硫酸』の文字。
それから、メスシリンダーに水を入れて、秤量する。計った水を、濃硫酸が入ったビーカーにーー!
体に衝撃が走って、爆破音が響く。思わず目をつむって顔を庇う。
けど、私には何の異常もなかった。
そっと目を開けて、腕を下ろす。
うめき声が聞こえた。
高槻君がうずくまっている。前の席にいた、名前も知らない先輩がうめいている。
「馬鹿!洗え!」
準備室から飛び出してきたんだろう、花鶏先生が悲鳴のように叫んだ。花鶏先生は高槻君の腕をつかんで、準備室へ連れて行く。準備室に高槻君を立たせると、壁のスイッチを叩いた。
高槻君が立っている場所に水が降ってきた。シャワーになっていたみたいだ。化学準備室にこんな場所があったなんて知らなかった。
花鶏先生が叫ぶ。
「硫酸は吸水性が高いから、濃硫酸に水を入れると反応して爆発するって教えたじゃないか!!」
爆発音が聞こえたんだろう。人が集まってきた。シャワーから出てきた高槻君は、白衣と制服の一部と、顔と手が溶けて、赤い何かが見えていた。
私の口から悲鳴が出そうになった瞬間、世界が揺れた。
化学準備室から、化学室に戻ったようだ。やっぱり人影は透けている。出かけた悲鳴を飲み込んで、私は周囲を見渡した。
何もなかったかのように、生徒たちが実験している。というよりも、別のシーンに移ったみたいだ。生徒の数が多いし、多分どこかの化学選択のクラスだろう。
「ヒカリ!」
私はヒカリの姿を見つけて駆け寄った。
ヒカリは私に全く気付いていないようだった。それに、透けてる。
「ねぇ、ヒカリ!私だよ!アナだよ!?」
目の前に立って手を振っても、ヒカリは私に気付かない。腕をつかもうとしても、手は何もない所を通っているみたいに、すり抜けるだけだった。
ーーこれは、誰かのイメージで、本物のヒカリじゃない。
結局、私はそう結論付けた。でも、一体誰の?
ヒカリは、メスフラスコにホールピペットを入れて、何かの試薬を加えていた。ホールピペットの中の試薬を全部メスフラスコに入れて、ピペットを抜こうとする。
なんだか、妙な角度だ。メスフラスコの首と、ホールピペットが平行になってないと抜けないのに、斜めの状態で抜こうとしてる。
ヒカリ本人はぼうっとしてるようで、気付いてない。無駄だと解っていても、私は叫ばずにはいられなかった。
「ヒカリ、集中して!危ない!」
ガラスが割れる音が響いた。
「ヒカリ!」
ヒカリの指と、メスフラスコが赤く染まる。
ホールピペットが割れて、破面が指に刺さったのだ。
「……っ痛ぅ!」
ヒカリが実験器具を投げ捨ててしゃがみ込む。赤い血の点が手の動きを追った。ああ、もう!こんな時どうしたらいいんだっけ!?
「明石!?どうした!?」
花鶏先生が駆け寄ってくる。化学室中にざわめきが広がった。
花鶏先生はヒカリの指からガラス片を取り除いて、ガーゼを強く押し付けて止血しようとする。手をこまねいているしかなかった私に比べて、遥かに的確な動作だ。
世界が揺れた。
化学室だけど、透けた人影は消えた。
いるのは、私と、もう1人。さっきの透明な人影が見せた映像で、1人だけ共通してた人。
花鶏先生。
教卓で1人、頭を抱えて何か呟いている。
「混合ミスによる薬品の爆発、爆発だけじゃない、有毒ガスが発生したら……、それにガラス器具による切創、危険ばかりだ……」
「先生」
「有機試薬を吸って意識不明になる例もある、万が一試薬の誤飲があったら、……」
「花鶏先生!」
叫ぶと、花鶏先生が跳ね起きた。
「どうした!?怪我をしたのか!?」
見事に血が引いた、真っ青な顔だった。
「してません」
そもそも実験もしてないし。
花鶏先生は目を白黒させている。多分私の顔を覚えてないんだろう。化学選択じゃないし、担任でもないから当たり前と言えば当たり前だろうけど。
「何だ……えぇと、お前は……」
「2-Bの影木です」
「あ、ああ。そうか。理科は化学選択、……じゃないな」
「はい。生物です。……今の夢、先生ね?」
そう、今の2つの場面は、夢だ。
高槻君は健康そのものだし、ヒカリも化学の授業中にケガしてなんかない。
ということは、誰かの想像だ。こんな事を想定する人なんて、花鶏先生しかいない。
「そうだ。……いつも、夢を見る」
花鶏先生は語り始めた。
「薬品は取り扱いが難しいものもある。……そんなものは、なるべく扱わせないようにしている。だが、たまに、変なことする奴がいる」
「高槻君?」
「そうだ。……あいつは、たまにやらかす。濃硫酸なんて、触らせた事はないが……使わせたら、やりそうだ」
意外。高槻君って化学好きで、花鶏先生とも仲良さそうなのに。
「それから1年の明石、あいつもしでかしそうだ」
ヒカリ……入学して3ヶ月も経ってないのに、目をつけられてるよ……。
「まぁ、確かにちょっと危なっかしいところあるけど」
聞いているのかいないのか、花鶏先生は話を進めていく。
「化学なんて暗記モノだ。実験で実際に見てみないと、覚えきれない」
そうでもない気がする。生物とか、文系教科よりは暗記が少なくて、計算が多いイメージだ。
「だが、実験させると、怪我させるかもしれない。……化学部なんて、いつも無茶な実験ばかり言いだしてきて、準備するこっちは心配ばかりだ」
先生も大変なんだな。
「毎晩夢に見る。誰か、怪我をしてる場面だ。ちょっと見ていない間に、やらかす」
「でも、誰もまだケガしてないんでしょ?」
「……授業ではない。こっちがどれだけ注意してると思ってるんだ、濃硫酸なんて扱わせた事はない。ガラス器具が割れないかどうか、使う前に全部チェックしてる。取り除ける要因は全部取り除いて、実験させてるんだ」
「花鶏先生は、いい先生ね」
「……は?」
「だって、ケガするかも、って想像して、危なそうな要因全部確認して、危なくないようにして、実験させてるんでしょ?実験なんてさせないで、とにかく覚えろ、って言ってもいいのに」
「あのな、みんなそれで覚えられるならそうやってる。覚えられない奴がいるし、化学が面白いって思わせるには、やらせるのが一番だから、やらせてるんだ」
「じゃあ、いいじゃない」
「お前は俺の話を聞いてないのか?何がいいんだ」
「先生のやり方。目的があってやらせてて、起こりうる危険は可能な限り取り除いてるんでしょ?むしろ何が問題なの?このまま続けていけば無事故で終わるんじゃない?」
「……」
花鶏先生は無言で頭をかいた。ず、と風景が揺れる。見たこともない実験器具と、白衣を着た透けた生徒たちが浮かび上がる。
私は教卓に投げ出されている花鶏先生の手をつかんだ。
幻が消える。
「先生の不安が辛いのは分かる。けど、不安って悪いことばかりじゃないでしょ?先生の不安のお蔭で、誰もケガしなかったんだから。それに、もしケガしたとしても、普段から想像してる先生なら、正しい処置ができるでしょ?」
そう。高槻君の時も、ヒカリの時も花鶏先生は一番早く動いて、正しい処置を施していた。
花鶏先生は溜息を吐いた。
「分かった、言いくるめられておく」
「どういたしまして」
「ところで」
花鶏先生は椅子に座りなおして、私と視線を合わせた。冷静そうだけど、ちょっと怖い、いつもの花鶏先生の顔だ。
「影木、お前はどうして入ってこれた?」
「え?」
「他人の悩みなんて、本人以外はそうそう気付かないもんだ。この学校は悩んでるって状態が表に出てきてはいるが、生徒だろうと教師だろうと、悩んでる中身は俺には見えなかったし、俺の悩みに気付いたヤツもいない」
確かに、この学校って自由に動けてるのは私だけだった。最初は私も何かに捕らわれていたけど、出られた。
「なのに、お前は気付いた。俺の悪夢を見た。お前は何なんだ?」