第2章その2: 影の学校
気が付くと、私は教室で立ち尽くしていた。目の前にあった影は消えている。
影があった机の上に、何かが落ちている。
コインだ。
杖のようなものが浮き彫りになっている。見たことない形だった。
とりあえずコインを拾って、周りを見渡す。ここは2-Aの教室みたいだ。同級生達は、みんな深刻な顔で勉強している。追い詰められた顔で、私が遭った事に、いやそもそも私がいることにさえ、気付いていないようだった。
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。時計は13時前を指してて、日が沈む時間じゃないはずなのに、外に立っている人が誰だか分からない位の明るさだ。
黄昏時、という言葉を思い出した。夕暮れ時の、近くにいる人の顔が見えず、誰そ彼は、と問う時間帯の事だ。
ーーこのまま、誰とも分からないまま、誰とも話せないまま、終わってしまうんだろうか。
頭を振って悪い想像を振り払う。
ーーヒカリ。
その名前は、私にとって本当に光みたいだ。1年生の教室に行って、ヒカリに会おう。2人で、これからどうするか考えればいい。
私は、テスト中のように静まり返っている教室を出た。扉の音が響いた気がしたけど、そんな事誰も気にしていないみたいだった。
「影木さん?どこにいるの?」
唐突に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
多田先生の声だ。A組の隣にある階段、その下の階から聞こえてくる。私が2-Aにいるのを見落として、下の階に行ったんだろうか。1年生の教室は下の階なのに。
ーー見つかっちゃだめ。この世界の追い詰められた人たちと同じようになってしまう。
直感がそう告げていた。授業時間中に教室を離れるのは申し訳ないけれど、私はなるべく足音を忍ばせて、階段を上った。
3階は3年生の教室だ。教室では、2年生の教室と同じように、先輩達が必死の形相で勉強していた。
いや、同じ、ではない。
泣いている人、ぼうっと宙を見ているだけの人、ぶつぶつ何か呟いている人、勉強していない人がけっこうな人数いる。高3の夏前、2年生よりは近いけど、まだ、受験勉強に余裕がある時期のはず。
私はそっと教室に入った。
香澄先輩。
頭がいい上に、お友達の春華先輩が一緒だと、冗談を言い合っていつも笑っている先輩方。それに生徒会長で、頼れる仕事ぶりには憧れるばかりの先輩だ。
そんな先輩は、笑っていた。でも、その笑顔はいつもの笑顔じゃなくて、酷く虚ろだった。
「はは……ダメじゃん。もう無理でしょ……ははは……」
私は先輩の手の中を覗き込んだ。校外模試の結果だ。その結果に、私は息を飲んだ。
ええと、申し訳ないんですけど、よろしいでしょうか。
偏差値70あって何が問題なの!?何がもう無理なの!?
香澄先輩がダメなら私はどうなるの??
自分より明らかにすごい人には、楽しそうにしていてほしい。そんな人が凹んでいると、私まで否定された気分になる。
「先輩。……香澄先輩」
声をかけても、先輩は気付いてくれない。肩に手を置いて、揺すってみた。
「香澄先輩!」
先輩はゆっくり振り返った。何もないところを見つめていた先輩の眼が、私に焦点を結んでいく。それから、ぎこちなく顔の筋肉が笑顔を形作った。
「アンナちゃん。ここ、3年の教室よ?どうしたの?」
もう。無理なんてしなくたっていいのに。
「先輩、私じゃ相談相手になりませんか?先輩、つらそうです。話すだけでもすっきりするって言いますし、何を悩んでらっしゃるのか、聞かせてもらえませんか?」
「……」
すっ、と香澄先輩の作られた笑顔が消えた。香澄先輩は前を向いて、成績表に目を落とす。
「……英語。悪いでしょ」
私も成績表を見る。英語の偏差値は68点。私が取ったら感動して泣きそうな位良い点数だ。でも、他の教科は70点超えてる先輩としては、悪いんだろう。
「他の教科と比べると、ちょっと低いかもしれませんね……でも、私よりずっと良いですよ?」
「私ね、留学したいんだ」
私が言ったことを聞いているのかいないのか、先輩はぽつぽつと言葉を繋いでいく。
「なのに、英語がずっと良くならなくて。他の問題が解けても、留学したら全部英語でしょ?問題の意味が分からなければ、解けないじゃない。段々、英文見るのも嫌になってきた。留学なんて無理なのかも、って思えてきて。そしたら、何だか疲れちゃって」
胸のあたりに重みがかかった。香澄先輩が頭を寄りかけてきたのだ。
「賢くて、明るくて、頼れて、いい生徒で、……なんか、そういう自分を作ってるのがツラくなってきたっていうか。だけど、家族も、先生も、友達も、私はそういう立派な人だって思ってて、そういう風に振る舞ってないと、私って認めてくれない気がして。でも、もうボロが出始めちゃってて。私自身も限界だし、仮面自体も崩れ始めてる」
私は先輩の目が潤んで、涙がこぼれていることに気が付いた。
「もう無理なの。今までの『私』をもう、続けていけないの」
「……続けなくても、いいんじゃないですか」
「……え?」
「無理なら、続けなくても、いいと思います。無理なところ、全部止めて、先輩が楽なところだけ、残せばいいんじゃないですか?」
「でも、そんな事したら、あなたも、他の人もみんな、私のこと嫌いになるわ」
「なりません!絶対、なりません」
「嘘。あなたが、私の好きだと思ってるところ、全部なくなるよ?それでも、私のこと好きだって思えるの?」
「思えます。だって、これまでに香澄先輩があたしにしてくれたことは、変わらないじゃないですか。その上で、香澄先輩がこれから変わるのは、香澄先輩の自由です。変わった香澄先輩だって、きっと素敵な人になると思います」
「……でも、そう思ってくれない人もきっといる」
「だから留学するんじゃないですか!」
「……えっ?」
「留学したら、周りの人はみんな新しい香澄先輩しか知らないじゃないですか。そしたら、新しい香澄先輩が好きな人とまた仲良くなると思います。こっちで、新しい香澄先輩が苦手な人とは、そこでお別れして、新しい香澄先輩のことも好きな人とだけ、また会えばいいじゃないですか」
「でも、そんな事……」
「留学したから連絡取れなくなるのは仕方ないんですよ!もっと都合よく考えれていいんですよ?」
ふっ、って、香澄先輩が笑った。さっきの無理矢理作った笑顔じゃなくて、いつもの香澄先輩が見せてる本当の笑顔だ。
「あ〜あ、後輩に言われちゃったなぁ」
「先輩っ」
先輩は体を起こして、涙をふいた。それから、私と視線を合わせた。
「約束してくれる?私のこと嫌いにならないって」
「はいっ!」
私は大きくうなずいた。
先輩も、私にうなずき返してくれた。
「ん。……実は、模試の点数は悪いんだけど、普通にしゃべったりする分にはそんなに英語苦手なわけじゃないんだよね〜」
「えっ、」
「なんか模試のややこしい構文が苦手なんだよね。しゃべる分にはそこまで文法とか気にしなくても通じるし」
そりゃ、偏差値68点の人が分からない構文なんて日常生活では使わないでしょうけど!日本語なら、詩とか、いきなり古文になるとか、そういうレベルの文法の問題なのかもしれない。けど!
「せ、先輩……私のこと、はめました?」
「いや、悩んでたのは本当だよ?聞いてくれて、ありがとう。アンナちゃんのお蔭で、すっきりした」
そう言って先輩は1枚のコインを私にくれた。つるりとして、彫り込みはない。見たことがない形だ。
「これは……?」
「分かんない」
「え゛」
な、なんか先輩の優しさ、っていうか、丁寧さ、みたいなのが無くなってきてる気がする。これが、新しい香澄先輩なんだろうか。嫌いにならないって言った手前、何も言えないけど。けどっ。
「あはは。分かんないけど、私もこれ、先輩から貰ったんだ。だから、お守り、かな?」
「お守り、ですか」
「そ。アンナちゃんとは被ってないから知らないだろうけど、とっても素敵な先輩だったんだ。アンナちゃんも私のこと素敵な先輩って言ってくれたから、あげる」
ああよかった。ちゃんと香澄先輩だ。ちょっとからかわれただけ、なんだろうか。これくらいなら、香澄先輩を好きなままでいられる。私は笑ってうなずいた。
「ありがとうございます」
「どういたしましてー。……気をつけてね?」
香澄先輩が真顔になる。
「はい?」
「ここ、今何かおかしいでしょ?」
「……はい」
「今言ったこと、確かにいつも頭に引っかかってることだった。でも、ずっとここまで思い詰めてたわけじゃないんだよね」
「そうだったんですか」
「うん。だから、気をつけて。なんかここ、ちょっとした悩みでも、すごく深刻化してる」
それは分かる。私もさっき、授業についていけなくなるんじゃないかって、思い詰めてた。……そうなったら嫌だな、って思うから、勉強してた悩みだ。
「私はとりあえず帰る。……あなたは、ここに残るんでしょ?」
私はうなずいた。
ーーまだ、ここから出てはいけない。
そんな気がしたから。