第1章その3: 1年A組
アナと別れて、あたしは1年の教室に入った。
「みんな、おっはよ〜!」
「ヒカリおはよー」
「おはよ、ヒカリ。朝練ないとゆっくりできていいね」
クラスのあちこちから返事が返ってくる。席に着いてみると、机の中に何か紙がある。学校に置きっぱの辞書とか教科書とかノートとか(必要な時は持って帰ってる、って一応書いとく。アナ程じゃないけどあたしも真面目な方だ)は、ロッカーの中だし、配られたプリントとかは持ち帰るなり提出するなり、机の中に物を入れておく習慣はない。出してみると、何かのチケットだ。安っぽい紙に、バンドっぽい名前が書いてある。
「あ、明石さん!」
呼ばれて振り返ると、同じ高さにクラスの野瀬君の目線があった。なんていうか、正直パッとしない男子だ。あんまり喋ったこともない。とりあえずバスケが上手くない事は確か。
「なに?」
「そ、そのチケット俺のなんだ!同中のヤツがやってるバンドで、けっこうイイんだよ!よ、良かったら、一緒行かない?」
顔を真っ赤にしてる野瀬君から視線を外して、チケットを見る。日付は今週の土曜日。テスト直前じゃん。その日アナがうちに来て勉強会しよう、って約束してるんだけど。
ごめん、って言おうとして口を開いた。
「うん、いいよ」
「マジで!?」
クラス中がざわめいた。
「ちょっとヒカリ、野瀬とか止めときなよ!!」
「おい野瀬てめぇッ!」
「明石さん、土曜日ヒマなら俺とストバスしない?」
ちょっと待って、あたしなんで今OKしたの!?ていうか佐武君、あたしよりバスケ弱いのにストバスしてどーするの。
クラスのみんな以上にあたしも混乱していた。
他の男子に頭を叩かれてる野瀬君はまだびっくりしている。あたしがOKするとは思ってなかったみたい。あたしとだけじゃなくて、基本的にあんまりしゃべらなくて、ぶっちゃけ影が薄い野瀬君にしてはかなり頑張った方なんだろう。
まぁ、いいか?
本当にいいの?とどこかで思いながらあたしは何故か納得し始めていた。
「お前らホームルーム始めるぞー!!席に着けー!」
いつの間にか担任の南畑先生が教卓に来てたけど、座る人は誰もいない。
クラス委員の沙夜があたしの手からチケットを取る。
「野瀬なんかがヒカリ誘うなんて10万年早いわよ!」
「や、止めろよ!」
沙夜はチケットを真ん中で破ってしまった。投げ捨てられた紙切れが野瀬君の目の前でヒラヒラ舞って、床に落ちた。
「ちょっと沙夜、やりすぎ」
「別にいいじゃない」
男子達に囲まれていた野瀬君が抜け出してきて、沙夜の前に立つ。
「よくねぇよ!」
そして、突き飛ばした。
沙夜は思いっきりバランスを崩して、腰から倒れ込んだ。
「沙夜!」
カラララ、と何か軽いものが落ちて転がる音がした。
「沙夜、大丈夫!?」
「あははは!バッカみたい!こんなんでいちいちキレるとか!」
倒れたまま、沙夜は笑っている。スカートの外に出ている太腿から、どろり、と赤いものが流れ出している。
「沙夜、ねぇ、血が!」
転々と続く血をたどると、カッターが転がっていた。隣の席の子が、刃を出したまま机に置いていたのだ。それが、野瀬君に突き飛ばされた沙夜の脚に刺さったのだ。
「美優っ!あんたカッター出しっ放しにしてたでしょ!」
「え、ああうん」
美優は笑いながら沙夜を引き起こした。
「沙夜ってばうける〜カッター刺さるとか確率どんだけwww」
「こっちの台詞だしwwwなんでこのタイミングでカッター出してんのwww」
沙夜は笑っている。
「沙夜、とにかく保健室行こうよ!」
「こんくらい大したことないってwwwヒカリってば優しー」
「大丈夫じゃないって!めっちゃ血出てるって!」
なんでそんなに危機感ないの!?
助けを求めて振り返ると、野瀬君が笑っていた。
「ちょっと押しただけでそんだけ倒れるとかお前の方が止めるの10万年早いわwww」
「何言ってるの!?沙夜はケガしてるんだよ!?」
「そんなん大したことねーって。いちいち気にすんなよ」
「はぁ!?」
あたしはその時あんまりにも慌ててて、野瀬君の口調が変わってる事に気付かなかった。他のクラスメイト達も似たり寄ったりで、笑っているだけで誰も助けようとしてくれない。
「先生っ」
あたしはクラスのみんなの説得を諦めて、教卓に行った。南畑先生は、クラスの騒ぎなんてどこ吹く風で、マンガを読んでいた。
「お、明石?どうした?今日出た新刊なんだ、お前も読みたいのか?」
「〜〜そんなわけないでしょ!何やってるのよ!これだけ騒いでるのよ!?先生なんでしょ、注意くらいしなさいよ!」
あり得ない事に、南畑先生はちょっと困ったような顔になった。
「明石、そんなの気にするなよ。みんな気が済んだら止めるだろ」
「そういう問題じゃない!沙夜なんかケガしてるのよ!?」
「ケガ?いつもの事だ、大したことないだろ」
「そんなわけーー」
ない、と言おうとして、気付いた。
血の臭い。
どこが臭いの元なのか分からないほど、教室に立ち込めている。
沙夜が流した血だけじゃない。
教室に全体を見渡すと、白い夏服のあちこちに、赤い点々が付いている。それどころか、大部分が赤く染まっている子もいる。
血だけじゃない。手や足があり得ない方向に曲がっている子もいる。
それに、全体を見渡して、気付いた事がある。
野瀬君。
みんなより、頭2つ分くらい背が低い。椅子に座ったあたしと、同じ高さで目が合う位。
少なくとも、私の知ってる野瀬君の身長はそこまで低くない。
人混みが動いて、見えた。
野瀬君の席から私の席まで、赤い2本の線が続いている。
野瀬君、膝から下が、無い。
クラス中が、下手なゾンビの群れみたいに、血を流して、体の一部を欠けさせていた。
「ははは」
「あはははは」
美優が笑っている。
沙夜が笑っている。
佐武君が笑っている。
南畑先生が笑っている。
野瀬君が、笑っている。
皆が、笑っている。
教室に、笑い声が響いている。
あたしは、絶叫した。