第4章その4: 幻影
暗い。
影の王城の牢には真の闇が立ち込めていた。
窓はない。
灯りもない。
そもそも、部屋なのかどうかさえ分からなかった。
一筋の光もない。
だから、目が慣れてくることもなかった。
目を開いていても、閉じていても、見えるものは変わらない。閉じていた方が、錯覚の光が見えてむしろ明るかった。
壁がないか手を伸ばして歩き回った気がする。手は空を掴むばかりで、その指先さえ見えなかった。
声の限り叫んだ気がする。声は虚ろに消えていって、反響さえ聞こえてこなかった。
全てが遠い昔のようだ。
いつからだろう。私は動くのを止めて、ただ横たわっていた。
静かだった。
光も、音もない世界。
横たわっている床さえも、その存在は朧に霞んでいる。
匂いもない。
口を開いてみても、味を感じるわけもなかった。
五感の全てが麻痺していく。
ーーああ、心地いい。
闇は癒し。
影は許しだ。
行き場のない者が歩くには、光は明る過ぎる。
夜は静かだ。
人が活動せずとも、許される世界。
病んだ者は闇の中で眠らなければならない。
傷持つ者、道を外れた者がそこにいても、誰も咎めはしない。
昼の喧騒と活力に、耐えられない者もいるのだ。
そんな存在には、影こそが癒しとなる。
影は動かないことを咎めない。影の中では誰もが休んでいるのだ。
影は罪を隠す。影の中では皆眠っているのだから、罪を問うことはしない。
光の横暴に疲れた者たちが、安らぐ場所。
ーーああ、なんて安らかなの。
目が醒める前の微睡みのようだった。
眠りに落ちるように、身体の境界が消えて、闇の中に溶けていくようだった。
ふと、闇が揺れた。
ーー何?
酷く不愉快だった。
揺れる闇は身体の境界を明らかにし、一体感を損なった。
私は自分の中に何かが湧き上がってくるのを感じた。
その感覚は一体何か。
思い出すのに、少し時間が必要だった。
その間にも闇は揺れ、何かの感覚を伝えてきた。
唐突に、理解した。
悲しみ、嘆き、怒り。
闇の中に溶けていた感情が、流れ込んでいるのだ。
ここは影の国。
人々の思いが集まる場所。
辛いだとか苦しいとか悲しいだとか、そんな負の思いから、人を解放する場所。
影の力で、人の心から苦しみを忘れさせる場所。苦しみを忘れて、穏やかに休む場所。……十分に休んだなら、新たな世界へ旅立っていく。
その闇が、なぜ揺れているの?静かな安らぎを乱すのは誰?
影は不安定に揺らいで、心臓のように脈打っていた。
……何か、冷たい。そこに触れてみても服の感触があるだけだ。それがポケットに入っている事に気付くのに、しばらくかかった。
コインだ。
酷く冷たい。それなのに、影の拍動に応えるように、震えていた。
ーーああ。そうだったの。
王冠と王笏、そして何も刻まれていないコイン。
王が持つべきものがコインとして隠されてしまい、王の力が発揮できていないのだ。王がいなければ、国は治らない。
コインに刻まれるべき王がいない。王子は王になろうとしたが、即位に必要な王の象徴、王冠と王笏がなかった。
影の国を統治する者が不在で、暴走した影の力が光の世界と現世に及んだ。そして、学校を狂わせたのだ。
コインが叫んでいる。解放されたいと。
私に力はない。
でも、影が揺れている。この揺れの中でなら、戻せるかもしれない。
指先に力を込める。どんどん冷たくなっている。氷に触っているみたいだ。
影が揺れている。……お兄ちゃんの、叫び声が聞こえてくるようだ。
病気になって、それまで当たり前にできていたことができなくなった。
思い通りに動けない体と闘ううちに、周囲はどんどん進歩していった。そのうちに、周囲どころか自分より下だったはずの存在まで、自分に並び、超えていった。その怒りや嘆きを何にぶつければいいかさえ分からなかった。
影の国に出会った。自分の居場所が見つかって、嬉しかった。
それなのに、自分が王になるために必要なものがなかった。国中を探した。それでも見つからなかった。現世を探すために、世界を歪ませた。影の世界に侵食された現世で、親しい2人がコインを見つけた。
……それなのに、私はコインを渡さなかった。
怒り。悲しみ。嘆き。
この影の国が司る思い。
それに耐えて耐えて耐えてきたお兄ちゃん。
私はただ祈った。
影の揺れが、高まった。
揺れの衝撃が最高潮に達したとき、唐突にコインが膨らんだ。
手のひらより遥かに大きくなったコインは、それぞれ形を変えた。
闇の中でなにも見えないはずなのに、私にはその2つがどう変わったのか『観えて』いた。
王冠と王笏。
黒みを帯びた金属で形作られ、漆黒の宝石が要所を飾っている。角の立ったデザインで、優美でありながら剛健な印象だ。
……私たち兄妹にはあんまり似合わないかも。
そんな場合じゃないのに浮かんできた考えに少し苦笑した。
さあ、頭を切り替えなきゃ。影の揺れは止まっている。
あとはここから出て、これをお兄ちゃんに渡せばいい。お兄ちゃんは王様になれるし、私たちはこんな世界にさよならできる。
心を決めて立ち上がったその時、影が割れた。
ごくか細い光が、落ちてきたのだ。
その光はあまりにも弱くて、この影の世界は揺らぎもしない。ただ、一雫、一雫、落ちてきて、影に呑まれていく。
私はそっと手を出した。
光の雫が手に落ちる。
ーーヒカリ!
ヒカリだ。ヒカリの記憶だ。
いつも通り登校したら、クラスが血みどろになっていた。そこから逃げたら、気味の悪い子供たちに追いかけられた。笑っている先生を倒した。私に出会って、影の国に来た。お兄ちゃんに追い出されて、光の国に行った。光の女王の力を借りて、もう一度影の国に来た。
現世から離れた時からの、ヒカリの記憶が落ちて、影に飲まれていた。
ああ、あの力。私からお兄ちゃんへの怒りを吸い取った力を使っているんだ。お兄ちゃんがヒカリの感情を吸い取って、記憶を影の国に落としてるんだ。
私は歯を食いしばった。
ーー駄目。それは駄目。
他の誰かだったら、辛い記憶をこの世界に置いていって、新しい道に進んでいくのに心から賛成できる。
他の誰かだったら、嫌な思いを忘れて、新しい一歩を踏み出すのは良いことだって言える。
でも、ヒカリは駄目。
だってあなたは、全てを背負った上で、次の選択ができる人だから。
あなたは強い人だから、忘れなくても進んでいけるの。
それなのに、口先だけの優しい言葉に騙されては駄目。
悲しみと怒りが、私の中で震える。この影の力は、私を中心にして世界に広がっていく。
手から王冠の重みが消えた。
代わりに、額から後頭部にかけて、輪のように重みがかかる。王冠は、私の頭上にある。
王笏は、私の手の中だ。
……迷いがなかったわけではない。
ただ、許せなかった。
お兄ちゃんは選ぶ選択肢を間違ったの。
止めるには、これしかない。
私にだってその権利はある。
私は声の限り叫んだ。
「影木暗那、王位の継承を宣言します!」