第3章その4: 牢
「こんな暗い世界、暗い世界か」
影がうごめいた。
足元の影が、まるで意思を持っているかのように騒めいて、絡み付いてくる。
振り返ろうとした時には、もう遅い。
影が全身に巻き付いて、身動き取れなくなっていた。
「お前らに何が解る!病院とベッドの上を往復する世界がどれだけ暗いか!今日の病状だけを心配して、先も何もない!他人の心遣いを消費するだけ消費して、何も作れない!昔手を引いてやった妹が俺より広い知識を持って、広い世界を歩いている恐怖がお前らに判るのか!?」
締め付ける影の力が強くなったと思った瞬間、アナが落ちた。
床、と思っていた場所がなくなって、闇の中に引き込まれていく。
叫ぼうとしても、喉を締め付けられて声が出ない。
「お前も闇の牢獄に囚われてみろ!直ぐ解るだろうよ!」
アナが引き込まれた闇が閉じて、床に戻った。
それを見る間もなく、あたしは引っ張られた。影はあたしの体重なんてないみたいに謁見の間を駆け抜けて、石段の下へ放り投げた。
首を丸めて受け身を取る。荒地を転がって、勢いを殺していく。1日に2回も転がって勢い止めなきゃいけないとか、どんな日なの!?あたしの体がようやく止まった時に、重い扉が閉じる音がした。
ああもう、背中と肩と腕と足と腰が痛い!
それでもなんとか立ち上がって、石段を登る。
謁見の間に続く扉は閉じている。
あたしは扉を思いっきり殴った。
「開けろ!あんたの考えにアナは関係ない!」
扉は反応しない。
「開けよ!アナを出せ!」
叩いても、叩いても、扉は静かに閉ざされている。
「お願いだから、開けってば!」
振りかぶった拳は、誰かの手に受け止められた。熱く火照った手に、冷えた体温が気持ちいい。
「落ち着け」
あたしの後ろにいたのは、あの馬車の御者だった。
あたしはつかまれていない左手を握りしめた。
鳩尾めがけた肘打ちは、予測済みとばかりに受け止められた。
足の甲に思いっきり踵を振り下ろす。
「だッ」
御者の手が緩む。
両手を取り返して、軽く身を屈める。
顎に、頭突きをお見舞いしてやった。
「〜〜ッ!」
よろめいて顎を抑える御者の腹に、蹴りをくれてやる。
「今すぐここを開けろ!」
「お前、その注意力を授業中に発揮しろ!」
授業中?
殺気立った心にそぐわない言葉に一瞬気が抜けた。
頭の上から、水が降ってきた。
御者の手には、いつの間にかメスシリンダーが握られている。
って、メスシリンダー?
「いいから、落ち着け」
かけられたのは、知っている声だ。
御者は被っていた帽子を脱いだ。……いつの間にか、メスシリンダーはなくなっている。
「……花鶏先生?」
「とりあえず座りなさい」
台詞っていうか口調っていうか、完全に学校で、なんだか笑えてきた。
「センセ、何してんの?」
「実験の準備」
完全に学校にいる時の会話なんだけど。肩から力が抜けた。
「うっそだー」
「勿論、嘘だ。落ち着いたか?」
まぁ、先生を殴る気なくなる程度には。
「落ち着いた」
「ほんとお前その理解力を授業中に発揮しろよ……」
「いやそれひっぱるネタじゃないし」
「ネタじゃない。教師には何より重要な問題だ」
「分かった分かった。で、扉開けて」
「そこに戻るな。1つの方法が駄目だったなら、同じ事を繰り返すな。別な方法を試せ。今俺が開けたところで、無駄だ。お前も牢に入れられるだけだ」
ムダ。牢。
暖かかったお茶に氷が放り込まれて、お茶全体が冷えてくみたいに、気持ちが冷えていった。どう見ても花鶏先生みたいだけど、この人も敵なの?
「じゃあどうしろって?アナを見捨てるの?」
「単純に考えろ。影はどうしてできる?」
「どうしてって?それが関係あるの?」
「あるから説明してるんだ。影はどうしてできる?」
花鶏先生はあたしの前に手をかざして見せた。
あたりは薄暗いけど、それでも影が落ちて、視界がもっと暗くなった。
「光が遮られるから?」
「その通り」
先生は手を下ろした。
「影は影だけでは存在し得ない。光があるから、影がある」
「光……」
「一応、確認しておこうか」
先生はあたしの目を見た。
「明石、お前はまだこちらの世界に落ち切ってない。まだ戻れるが……それでも、行くのか?」
あたしは先生の眼を見返して頷いた。
「行く」
先生の視線があたしから外れて、微かに揺らめいた。
「ためらわないで。あたしは後悔なんてしない」
「……まったく、その決断力を授業中に発揮してほしいよ」
「だからそれ」
ひっぱらなくていいから。
言い終わる前に、先生はあたしの前から消えていた。ううん、先生があたしの前から消えたんじゃなくて、あたしが先生の前から消えたんだ。
あたしは影の城の前じゃなくて、学校の中庭にいた。
周りは荒野じゃない。校舎だった。
……でも、いつもの世界に戻ったわけじゃない。
目の前には、あの金属扉が立っている。
閉ざされた扉の中央には、丸いくぼみがある。
あたしは、あたしが手に入れたコインをそこにはめ込んだ。