第3章その3: 影の王
玉座の横で、影が揺れた。
「王の天命は既に去った。代替わりが必要だと思わないか」
影は、次第に人の形になった。豪奢な刺繍の長いマント、体の線にあった豪華な衣装。玉座の老人よりよっぽど王様らしい服装の男性が、そこに立っていた。
悪い事に、私はその男の人を知っていた。
「お兄ちゃん……!!」
「待っていたよ、アンナ。それから、ヒカリちゃん」
お兄ちゃんは劇みたいに大仰な身振りで玉座の前に立った。そう、まるで演劇で王様を演じているみたいだった。顔形はお兄ちゃんだけど、いつも何かにすがらないと立っていられなかったお兄ちゃんとは思えない。体つきも見覚えのあるお兄ちゃんより、しっかりしている気がする。
「ようこそ、我が王国へ。歓迎しよう」
「……待って。まって!」
そうは言ったものの、次の言葉は出てこない。
「混乱しているのか?まぁ、当然だな」
「ええ、混乱してるわ」
疑問が渦を巻くばかりで何も言えない私の横から、ヒカリが一歩進み出た。
「あなたは本当にメイト兄?ここで何をしてるの?第一、ここは何?」
「疑問を提示してくれるのは有り難い。一つずつ答えていこうか」
お兄ちゃんーーメイトは、悠然と笑ってみせた。
「まず、俺はお前達が知っているメイトだが、ここでは、王に代わる者だ」
「どういうこと?」
「言っただろう。王は責務を果たせない。代わって果たす者が必要だ」
彼は玉座の老人を横目で見た。……老人は、何の反応も示さない。
「王の仕事ってなに?なんであなたが王の代わりになれるの?」
「……そうだな、この世界について説明した方がいいか。ここは、簡単に言って、異世界だな」
「そんな事分かってる」
「そうだろうな。なら、この世界は現世の影だ」
「どういうこと?それに、この世界と学校がわけわかんなくなったのには関係あるの?」
「話の順番を変えないでほしいな。まず、この世界についてだが。この世界は、悲しいとか、辛いとか、怖いとか、そういった負の感情を現世から吸い出している」
「感情を、吸い出す?」
ヒカリは分かっていない顔だ。……でも、私にはなんとなく分かった。
あの学校。
静まり返って、全員が必死で勉強している教室。全員が決死の表情で部活に取り組んでいる体育館。
勉強で追い詰められた私。留学の不安で泣いた香澄先輩。化学実験の事故に怯える花鶏先生。
怖い、って思いが、みんなを暴走させていた。
「お前がやってのけた解決策は悪くはなかったよ、アンナ」
唐突に話しかけられて、私は顔を跳ね上げた。彼は、全て分かっていると言わんばかりの表情で、私を見下ろしていた。
「やはり血かな。お前にも人の影を治める力があった。だが、あれは正規の方法じゃない」
「正規の、方法?」
私と彼の視線が合った。彼は笑った。
そんな事も分からないのか。
言葉なんて要らなかった。彼の、嘲りの表情なんて初めて見た。
彼は階を降りた。近づいて来る。
この場から逃げ出したくて堪らないのに、体が動かない。動かそうと思えなかった。
芝居がかった動作で、彼は私の顔の前に手をかざした。
体の中で、風が吹いたような気がした。
その風に吹かれて、彼への怒りや恐怖、悲しさが抜け出て行った。
目の前の彼の手の中に、小さな影が渦巻いていた。彼がそれを握ると、周囲の闇に吸われるように、その影は消えていった。
彼はさっきと同じ、嘲笑を浮かべて私に背を向けた。ーーそれを見ても、さっきの苛立ちは湧いてこなかった。知らない人とすれ違った程度の、数秒後には忘れそうな感覚しかなかった。
彼は階を上がって、玉座の横に戻った。
「俺は王の孫だ。王に代わる権利がある」
「孫……?」
玉座の老人の顔を見る。……見覚えはない。父方のおじいちゃんは私が生まれる前に亡くなっているし、母方のおじいちゃんは生きているけど、似ても似つかない。
「そう、その死んだ爺さんだ。若い時の写真しか残ってないからな。こんなぼろぼろの老人じゃ、分からなくとも仕方ない」
また、そうやって嘲う。
「……王様になったら、死んじゃうの?」
「2つの世界で同時に生きられるほど、人間は器用じゃない。俺の体は死にかけてるし、お前達がここにいるのも、似たようなものだ」
「待って。あたし達、死んでるの!?」
ヒカリが叫んだ。全ての混乱を叩き込むように。
「ああ。知らないのか。今朝、お前達が乗った電車は事故に遭った」
わざとらしくそこで言葉を切って、彼は愉しそうに私たちの表情を見回した。
「事故に遭って、どうなったの!」
ヒカリが叫んだ。
彼は笑った。
「さあ?」
「答えろ!」
「取引をしようか」
彼はマントを翻した。布が空気を揺らす。
「アンナ。お前、学校でコインを拾っただろう?」
私はポケットに手を入れた。3枚のコインが指先に触れる。
「王冠と、王杖のコインを寄越せ。……そうすれば、2人とも現世に帰してやる」
感覚で判る。模様のないコインをポケットの奥に落として、残りの2枚を握った。
まるでそれが見えてるみたいに、彼の視線が私を追っている。
「あんたを信用できない!」
ヒカリが私の前に立ちはだかった。彼の視線が遮られて、私は握ったコインをポケットの中に落とせた。
「では、このまま死ぬと?」
「あたしは死なない。アナも死なせない」
ヒカリはきっぱり言い切った。私にはヒカリの背中しか見えないけど、いつもみたいに揺らがない目をしてるんだろう。
ヒカリは、本当に光だ。強い光で照らして、影を消してしまう。私は、空の手をポケットから出した。
「俺の許しなくここを出られるとでも?」
「あなたの許可なんて要らない。勝手に出るわ。あなたが王の孫なら、私もそう」
そう言い切ると、ヒカリが私を見て笑ってくれた。私も笑い返す。嘲りなんかじゃない、普通の笑顔。これが本当の笑顔なんだから。
ここは夢で何度も見た世界。そこから出たいなら、夢から醒めればいい。簡単な事だ。……どうやればいいのか分からないけど、それはこれから探せばいい。
「こんな暗い世界の王様になりたいなんて、メイト兄はおかしいよ」
「お兄ちゃんもさっさと帰れば。……お母さんが心配してるんじゃない?」
私たちは彼に背を向けた。
……だから、彼の表情の変化に気付けなかった。