序章ー悪夢ー
ずるり、と足が滑る。
地面が泥のようで滑るくせに、粘着質だ。べた、と持ち上げた足はいつもの感覚よりひどく重い。しかも、臭い。放置し過ぎた生ゴミと、血が混じったような臭いがする。
ざら、と足首のあたりをムカデのような足が何本もある虫が通っていく感触があった。足の一本一本が分かるくらい大きい。一本の足先が、イヤホンのプラグくらいある。踏まれた箇所がちりちり痒くなって、私は無理矢理足を引き上げた。
足を下ろした場所にムカデはいなかったようだ。ほっと息をついて空を見上げる。暗い。
石膏でできたような重苦しい雲が空を覆っている。太陽も月も見えない。それでも、雲は仄暗い明りをまとっていた。
ーーああ、いつもの夢だ。
最近よく見る夢だ。この暗い世界をよく見ていた。端的に言って、悪夢。早く目が覚めないだろうか。
出口なんて見つけられたためしがないけど、探すしかない。あたりを見回すと、一方の山端が薄赤く光っている。薄赤い方とその横と、2方向は山脈で閉ざされていて、もう2方向は地平線らしきものが見える。
唐突に、世界が揺れた。
地震だ。
そんなに激しくはないが、不快なゆっくりとした振動が続いた。倒れたり落ちたりするようなものはないので、踏ん張って耐える。しゃがんで手を付けば楽なんだろうけど、この気持ち悪い地面に手を付けたくなかった。
ぞぞ、と嫌な感触が足を這う。さっきの大ムカデだろうか。足を動かすと転びそうで、動けない。動いているのに、随分長い間、ムカデは足の上にいる。それだけ長い虫なのだ。早くどいて、と念じた。
念が効いたのか偶然か、ムカデはいなくなってくれた。ついでに揺れも収まった。
でも、まだ目は覚めてくれない。
仕方なく周りを見回してみると、赤く光っている山端が大きくなっている。
大きくなっている。広がっているのだ。溶岩のような赤黒い何かが、降りてきている!
こんな地面じゃ走れない。とにかく高いところへ、赤くない方の山へ、私は動いた。
走っているつもりなのに、全然移動できていない。私の運動神経が悪いのもあるけど、足場が悪すぎる。ぐにゃり、と妙に柔らかいモノを踏んだ。多分、おっきな幼虫みたいな虫を踏んだ。
振り返ると、もう溶岩は山を降りてきている。なんて速さ。むせ返るような悪臭が迫ってくる。
虫を踏み潰して、走った。段々地面が固くなってきている。まともに走れるようになって、足に付いた泥も落ちていく。もう一度振り返った。
溶岩は、もう同じ地面に降りていた。いや、あれは溶岩なんかじゃない。血だ。どろどろの、傷口からあふれ出て、固まりかけてる血。それに、泥と、ほこりと、涙が混ざったもの。なぜそう思ったのかは分からないけど、私はそう確信していた。流れてくるものがそれだと、知っていた。
流れる血が迫ってくる。先端が、まるで手のひらのような形になって、私を捕まえようとする。
走った。
赤黒い手のひらが追ってくる。
がつっ、っと足が何か硬いものに当たった。
思いっきり、転ぶ。
石段だ。
巨大なお城が私を見下ろしている。廃墟のようにぼろぼろだけど、地面よりは高い。
階段を登ろうとしたとき、悪臭が鼻をついた。
振り返ると、血の手のひらが目の前に迫っている。
もう逃げられない。
飲み込まれる。
無駄だと分かっていながら、石段の端をつかんで丸まり、息を詰めたーー