05:「世界三大製薬会社次期社長」
「お、お嬢様…」
「六花、今すぐ刀を下ろして下さい。彼が混乱しています」
紫色の凛とした瞳を六花の方へ向け、涼やかな声で告げる少女が扉を背に告げる。
すらりとした身には純白のロングトルソーが彼女の体を覆っていて、小顔な少女に良く似合っている。それにあわせた漆黒のオーブントゥが素足を包み込んでいて、白と黒のコントラストの美しさに、まるで聖女のようだと流麗は思った。
「お言葉ですがお嬢様、こちらの心配よりもご自身の心配をなされた方がよろしいかと」
「何を言うんですか。答辞の原稿も、身なりも、既に用意してあります。これ以上の用意すべきものが有るというんですか?」
少女は六花の言葉をさらりとかわし、視線を流麗へと移す。
そのまま彼の足下のランプに目を向けると、
「執事長が失礼なことをしてしまったようで、申し訳ありませんでした。さぞかし驚かれたでしょう。そちらのランプの弁償はしていただかないで構いませんから」
「え、」
酷く悲しそうに眉根をよせ、丁寧に頭を下げる。その姿はお手本と呼べるくらいに綺麗なものだった。
顔を上げると、今度は柔らかな笑みを浮かべ、流麗の手をとった。
白魚のようなきめ細かい両手が、彼のほっそりとした、だが大きな手を包む。
「騙すような真似をしてしまって、本当にごめんなさい。今回の件は、私の父が企画したもので…」
「お嬢様!!」
六花が焦ったように少女の声を遮る。少女は呆れた表情でそれを軽くあしらい、律花と一緒に部屋から追い出すと、彼女は椅子に腰をかけるよう、流麗に促した。
「まずは自己紹介ですね」と言って優雅に座った少女は、落ち着いた、心地よい声で話し掛ける。
「私は神童鏡華。神童本舗の社長の一人娘です」
「…雨傘流麗、です」
「存じております」
そう言って少女――鏡華はにこりと微笑む。見れば誰でも好印象を持つだろうその微笑みに、少しだが違和感を感じることを、まだ流麗は知らなかった。
「先程の者たちは、神童家に代々仕えている桜庭家の者でして…後で挨拶に伺わせますね」
「それより…」と表情を暗くして、鏡華は流麗を見据える。
「今回のことなんですが…貴方はレストラン鏡にアルバイトとして来られたのですよね?」
「え、あ、はい…」
「このようなことになったのは…私が原因なんです」
「………はい?」
突如、告げられた予想外な展開。
それは流麗の脳内に積み上げられていた疑問がさらに肥大することだった。
「私は、世界三大製薬会社の次期社長の身です」
「はぁ」
「ですので、殺されないように私の回りには常にSPがついています」
「はぁ」
「今回の件は、そのSPをつとめる方を採用するため、嘘のチラシを特定の方々にお渡ししたのです」
「はぁ…………………え?」
チラシ。家のポストに入っていた、レストランの接客業の雇用と書かれた淡い色の紙。今思い返してみれば、普通のチラシとは紙質が違っていた。何というかこう…ざらざらとした、和紙のような手触りだったような……そんなことを思い出していると、自分は余程の阿呆らしいと流麗は自嘲した。
今この状態で、気にするところはそこか馬鹿が。流麗は心中思い切り過去の自分を殴りつけてやりたいと叫んでいた。
そんな流麗の思いもつゆ知らず、鏡華はSPについての説明を続けていた。
「SPというのは簡単に言ってしまえば身辺警護なのですが、それの通り、実際に一年以上の実務経験を済ませた巡査部長くらいの階級を取得していなければなることができない職業なんです」
「…」
「ですので、ここで表面上使用人として働きながらSPをすることが、今回の採用条件の一つなんですが…雨傘さん?」
鏡華の声は届いているが、流麗の脳内はその告げられた内容をまとめることに頭を働かせていて理解が一向に進まない。
しばらくそれを見ていた鏡華は椅子から立ち上がり、動かなくなった流麗に語りかける。
「いきなりのことですものね…理解ができないのも当たり前です」
「え…」
「とにかく、私はこれで……SPとして働かなくとも、使用人として働くことはできますので、お決めになるまでは、ここで客人としてもてなしますから」
「ではごゆっくり」と言葉を残して立ち去った鏡華の後ろ姿を、流麗はただただ見送った。