丘の上の孤児院に住む少年 (3)
僕は走った。津波から逃げるように足を動かし、叩きつける風を顔で感じた。息が切れ、肺が爆発するかと思った。しかしキリの方が崖に近く、彼女を止めることはもうできないみたいだった。
「キリ!」僕は叫んだ。「キリ! 止めろおぉ!」
彼女は立ち止まった。そして振り返る。星空の下、彼女の青ざめた表情が見えた。キリの顔には恐怖、絶望と罪悪感が張り付いていて、僕と目が合うと、彼女は踵を返しまた走りだした。
「待ってくれぇ!」肺に残ったありったけの息で僕は絶叫した。「キリを許す! 許すから飛ばないでくれ」
キリは唐突に走るのをやめ、草に足を取られたのか、転げて地面に倒れた。
「こっちへこないで!」顔についた土をはたき落としながらキリは言った。「もう一歩踏み出したら本当に崖から飛び降りるから」
二人の間の距離はたったの十メートルだったが、キリは崖から一メートルも離れていない場所にいた。僕がどんなに速くてもキリがその気になれば、僕は彼女を止めることはできない。
「僕を陥れようとしたことは許すから」僕は激しく呼吸をしながら手を合わせた。「飛ぶのだけはやめてくれ。それにまだ一緒に逃げることはできるから」
キリはさっきよりいっそう青ざめていた。蒼白で、彼女の顔は幽霊のようにぼぉっと闇に浮かび上がっていた。
「どうしてあなたが知っているの?」震えた声でキリは尋ねた。
「僕はなにも知らないさ。お願いだからこっちへきてくれよ」
「なぜヴェスパーは私が――私が――」彼女は口ごもった。
僕はキリが正確になにをやったのかはしれないが、彼女は自分の行動に罪悪感を抱いているのは明解だった。孤児たちは毎日のように店から品物を盗んだり、時々集落を通るピカピカに磨かれた車に石を投げたりする。しかし孤児たちはそれを罪だとは思っていない。それは孤児たちのライフスタイルで神父や園長の説教では彼らの生き方が変わることはないのだ。僕だって彼らと同類だ。だから孤児の気持ちがわかる。キリが罪悪感を感じているのだとしたら彼女の犯した罪はとても重いものに違いない。
「キリは」色々な可能性が脳裏を陰が閃光に飲まれるように速く横切った。「キリは僕を売ったんだね? 違うかい?」
彼女は凍りついたように足をグッと伸ばし、目を極限にまで開いた。石像になってしまったかのようにみるみる血の気が彼女の焼けた茶色い肌から抜けていき、スポーツ的なキリの面影は一瞬にして消えてしまった。植物的に立ち尽くしたキリは今や痩せた病人を思わせ、今に倒れてしまいそうだった。
「図星だね」僕は僅かに微笑みながら呟いた。「最初から君はおかしかった。園長が僕を呼んでいるって聞いて内心僕は首を捻ったんだ。だって園長が子供を呼ぶときは必ずと言っていいほど子供を引き取りたい親がきた場合だけだ。でも、記憶喪失で十六の僕を引き取りたいって思う物好きな大人はいないから僕はこの孤児院で過ごした一年一度も園長に呼ばれたことはない」
キリは額の肌を指で揉んでいた。正直僕は彼女に気を失ってほしかった。そうすればキリを安全な場所へ連れていき、孤児院から遠く離れた場所へ逃げることができる。もしかしたらアコーディーオは僕たちを探しにこないかもしれないし、孤児院の子供たちがアコーディーオを取り押さえたことだって考えられる。しかし孤児院では死者がいっぱい出るだろう。それに園長が死んでしまった今、孤児院は閉鎖され、僕たちは離れ離れになって他の孤児院に入れられることが目に見えていた。もうこの土地に僕たちを縛るものはなにもない。例え少しの間でも自分たちがいきたい場所へいけるのだ。
「それに」僕は続けた。「突然キリが崖から飛び降りたのも変だった。運良く岩肌に当たらなかったからいいけど、普通なら死んでいたはずだ。君がその前に『ごめんなさい』と言った時、僕は君がもう生きていけないから『ごめんなさい」と言ったと思ったけど、こう考えることもできる。キリは僕になにかをした。そしてそれを償いたくて『ごめんなさい』と言い崖から死ぬつもりで飛び降りた」
――違うかい? とはつけ加えなかった。そう言わなくても、うなだれ短い黒髪で顔半分を隠したキリを見ると、全てに置いて僕が正しいことがわかった。
「そして砂浜に戻ったら、君は孤児院に戻らない方がいいと言った。その時はまた君の意図がわからなかったけど、孤児院で園長を殺したヴァンピールを直面すると、君が最初からヴァンピールが孤児院にいることを知りながら僕を孤児院へ送り返したことに気づいた。そう考えると君が自殺しようとした理由も見えてくる。君は――」
「止めて」両手を胸の前で握りキリが叫んだ。「私は……私はそんなつもりはなかったの。一週間前、私は学校のクラスと一緒に離れた街にいったのを覚えているでしょ?」
僕は頷いた。いつもは集落で暮らしている僕たちが唯一外の世界を見る機会は学校の遠足のみだ。
「街で張り紙を見つけたの。ヴェスパーとそっくりな顔をした少年の似顔絵が載せてあってを彼を探していますって。私はてっきり本当にあなたの親だと思って電話したら、低い声の男が電話に出て、私と詳しく話したいと言ったの。ごめんなさい、こんなことになるなんて思ってもみなかったわ」
僕はすすり泣くキリに一歩近づいた。彼女はまだ崖に近い位置にいる。風が強かったらそれだけで海に落ちてしまうほどの近さだ。しかしもうキリが自殺しないという確信が僕にはあった。彼女にそんな気力は残っていないだろう。
「それから、それからどうしたんだい?」
「低い声の男は喫茶店で話したいと言ったの」
「それに応じたのか?」
「断る理由がなかったもの」キリは鼻水をすすり上げた。「それに私はあなたの両親を見つけたのではないかって舞い上がっていたの」
「僕が一年前警察に保護された時、警察は行方不明者のリストに僕が乗っていないかって調べたよ。もし僕の両親が生きていて僕のことを探しているのなら、もうとっくに見つけているよ」
「そこまで頭が回らなかったのよ」キリは半分怒鳴りながらさらに強く泣き始めた。それ以上僕は追求するつもりもなかった。僕だってキリの立場だったら同じことをしただろう。
「喫茶店ではなにがあったんだ?」
「一人じゃ心細かったけど、ついてきてくれる友だちはいなかったから仕方なく一人でいったわ。約束より十分早くついたけど、電話で低い声の男が指定した奥の席にはもう若い男が座っていてミルクティーを飲んでいたの」
「その男と話したんだな」
「ええ、そうよ。でも彼は電話に出た男とは違った。もっと明るい声で喋りなれているって感じがしたわ。一度孤児院にきた、土地を買い取りたいって園長に言っていた人たちみたいな話し方を彼はしたわ」
そういう偽の笑いとおだてる喋り方をする人間を信用してはいけない、と園長が孤児院の土地を買いにきた不動産が帰った後に僕たちに教えたことを覚えている。今考えてみればそれは少し抜けている園長の唯一の教訓だったかもしれない。人生で苦労した挙句、結局成功しなかった園長の長点はどんな嘘にも騙しにも引っかからないことだった。
「うさん臭い感じもしたんだけど、手ぶらで帰ることもできないでしょ? だから私はその男に孤児院の住所を渡したの」
「それだけかい?」
「本当にそれだけよ」キリはそう言った後、小さく丸まった顎を摘み、眉間に皺を寄せた。「そう言えば、あなたの左目のことも言ったわ。街で見た張り紙はあなたにそっくりだったけど、右目の傷がなかったの。若い男は何度もあなたの右目の確認していたから、それが決め手になったみたい」
僕は頭を抱えた。一体あのアコーディーオというヴァンパイアが探しているアーベントという男は誰なのだろうか? 偶然アーベントと僕の容姿が似ているのはまだわかるが、右目に似たような傷を持っているというのは確率的に不可能に思える。もしかしたらアーベントは本当に僕で、ただ僕はかつてアーベントと呼ばれていたことを忘却の彼方に押しやってしまったのかもしれない。
いや、僕はヴェスパーだ。アーベントなんかじゃない。強く僕は確信した。自分の名前がアーベントだったとは思えない。砂浜で目を覚ました時、他の記憶が海から流されてしまっていたのに、ヴェスパーという名前は僕が履いていた黒の半ズボンみたいに身体に染みついていたのだ。
「それからどうしたんだい? 喫茶店を出たのか?」
「うん」小さく答え、彼女は自分の顔をまた濡れた髪と涙の下に隠した。
「そして今日アコーディーオが孤児院にきたのか」
ワッとキリは泣き始めた。僕は素早く彼女の脇に駆け寄り、キリの身体を握りしめながら、崖からゆっくり離れた。キリの髪は僕の顎に当たり、海水の臭いがしたが、それでも柔らかく、一瞬僕は全てを投げ出して地面に倒れてしまいたいほどの眠気に襲われた。ごめんなさいとキリはもう一度言い、僕はあやまることはないと答えた。それが慰めになったかどうかはわからないが、キリの震えが少し治まったように思えた。
「今日、孤児院でなにがあったんだ? それを教えてくれないか?」
「わ、私が孤児院に戻ってくると、全員食堂へ呼ばれたの。そこに園長と知らない長身の男がいて……」
「アコーディーオだね」
「わからないわ。黒いマントを着た背の高い男……名前は聞いていない。とにかく園長がヴェスパーはどこにいるって聞くの。でも園長は額に脂汗をかいているし、彼がヴェスパーを呼ぶことなんてないでしょ? みんなおかしいと思ってなにも言わなかったわ」キリはまた話すのを止めて嗚咽した。僕が彼女をさらに強く抱きしめて、頬を撫でてやらないと、彼女は続けることができなかった。「そ、そしたら、園長と一緒にいた男は切れたの」
「切れた?」
「そう、切れたの」キリはくしゃみをして、目を擦った。「顔を真赤にさせて……え、園長を掴んだと思ったら右手を彼の腹に……ね、ねじ込んで」
「もういいよ」僕はキリの口を塞いだ。自分で園長の遺体を見たのだ。どう殺されたかまで知る必要はない。吐き気を押さえながら僕は次の質問をキリにした。「そのあと、君は仕方なく僕を呼びにきたんだね」
「ごめんなさい」すすり泣くキリ。「その男に言われたの。ここにいる全員の孤児の生命かあなたの生命か。どちらかを選べって」
「君は正しいことをしたんだ。誰だって孤児たちを救うことを考えただろう。僕一人が犠牲になって何十人もの子供が助かるんだったらね、僕は喜んで死ぬよ」
ざっ、と重いブーツが濡れた地面に食い込む音がした。僕はキリの首に密着させた頭を上げて、音がした方向を向いた。月光に大きな人影が現れた。天使のように彼は翼を広げているが、羽毛ではなく蝙蝠のような醜い翼だった。
「だったらなぜさっきは孤児たちの恐怖を掻き立てて逃げ出した?」木立の影から羽を広げたアコーディーオが現れた。彼の目は赤く充血し、黒いマントはあちこち破れていた。「そんなに犠牲になりたかったのなら、逃げたりするな」アコーディーオは吠えた。「こっちの手間が増えるんだ」
アコーディーオは背中から伸びた翼を羽ばたき、僕に飛びかかった。
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良いお年を!
Marian Flayer 24th of December 2012