丘の上の孤児院に住む少年 (1)
僕は半ズボンから出た足を崖っぷちから垂らし、遠くの海をオレンジに刻んでゆく太陽を目を細めながら眺めていた。真下では波が岩に破れ、無念の叫びのような音を繰り返しながらまた白い泡となり海へと戻ってゆく。それを見て、僕は微笑む。砕けて散るのは波だけではない。僕だって上半身を支えるために地面についた手を使って思いっきり崖から身体を投げ出したら、波のように破裂して、海の底へと沈んでいく。違うのは泡が赤くなるぐらいだ。
そう考えると人間の命は凄く儚く思える。まるで死が背後に立ち、大鎌を僕の首筋に当てながら、農夫が稲を刈り入れる時期を見計らうように、その瞬間を待っているようだ。そしてついに残された時間が消えてしまう時はとても唐突で一番死ぬことを考えてないころなのだろう。だから自殺が一番確実だ。ここから飛べば、ほぼ確実に自分の死を見極めることができる。
僕は苦笑する。いや、そんなことはない。この海はすでに一度溺れかけた僕を吐き出しているのだ。しかも僕のことを気の毒に思ったのか、海は僕の記憶まで消してしまった。海岸で冷えた髪を掻き分け、濡れた身体を震わせながら目を覚ました時には自分の名前が「ヴェスパー」だったことしか思い出せなかった。性もわからない。
その日は真夏なのにも関わらず、海が冷たく、僕はしばらく砂浜で止まりそうにない肌の蠢きを感じながら座っていた。そうしている内に朝の散歩をしにきた老人が僕を見つけ、警察がやってきた。麻痺してしまった頭では警察の質問にどう答えていいかわからず、僕は青い唇を舐めながら車に乗せられ、警察署に連れて行かれた。
警察署では熱いココアが出たが、甘いトロけたチョコレートとは裏腹に警察関係者の質問は鋭く、まだ完全に覚醒していなかった僕にとっては難しい質問だった。何とか彼らに何も覚えていないことと、自分の名前はヴェスパーだと伝え、彼らの反応を待った。
結局警察はどう対応していいのかよくわからないようで、半場投げやりな感じで僕は孤児院に連れていかれた。自分の年齢さえわからなかったが、大体十六歳ぐらいなので、二年はそこで過ごせと言われた。
「ヴェスパー!」
語尾を長く引き伸ばした明るい声が聞こえた。僕が振り返り、声の主を確かめることができる前に彼女は僕の肩を叩き、僕と同じように崖に腰掛けた。顔を上げてみると袖なしに短パン姿のキリだった。彼女も丘の上にある孤児院に住んでいる孤児の一人だった。
「園長がヴェスパーを探していたよ」と彼女は両腕を天へと伸ばしながら言った。スポーツ的な彼女の身体はしなやかでスタイルがいい。彼女が着た袖なしも僕の好みだった。キリの方も僕に気があるらしい。そういうことには鈍感な僕でもわかるぐらいキリはオープンでストレイトだった。しかし二人の関係を本当の恋愛には発展させないという暗黙の了解がお互いにあった。
恋に必要なのは愛だが、恋愛に必要なのは時間と金と気力だ――と、僕が読んだある本に書いてあったが、キリと僕の関係は正にそうだった。時間はいっぱいある。しかし二人にはお互いを受け入れられる心の場所がない。だから今のところは友達、もしくは幼馴染でいい、と僕は思っていた。もしかしたら孤児院を出て、普通に働き始めたらそれは変わるかもしれないけど。
「園長はなぜ僕のことを?」
立ち上がろうとした僕をキリは止めた。「さあ、知らないけどもうちょっとここにいてもいいんじゃない?」彼女はそういいながら畳まれていく太陽の光へと眩しそうに顔を向けた。「少なくとも陽が暮れるまで、ね?」
園長が僕を探しているのなら、早くいった方がいいのだろう。だがズボンの裾をキリに握られてしまうと、彼女をここに置いていくこともできない。仕方なく僕はそこに立ったままキリと一緒に太陽が沈むのを待つことにした。
「あのね」苦笑いをするような口調でキリは喋り始めた。「私、ここにいつも辛いことがあるところにくるの。どうしてだかわかる?」
僕は首を振る。
「ここに座ってね、波の音を聞くと、いつも思うの。そんなに辛ければただ死ねばいいじゃないってね。そう考えても結局ここから飛ぼうとはしないの。私変でしょ?」
なんて答えていいのかわからず、僕はそこに佇んだまま、キリを見下ろした。彼女の瞳はずっと遠くを見透かしていた。沈む太陽よりずっと置くにあるなにかを眺めているようだった。
「いつでも死ねれば、辛いことも楽に思えてくる、そうじゃない?」キリは尋ねたが、振り返りはしなかった。それに僕が答えられることができる前に彼女は続けた。「だからこの崖が好き。死にたい時があれば死ねるから」
「僕は――」細くなり始めるオレンジ色のホライゾンを僕は目に移しながら、慎重に僕は言葉を選んだが、結局は冗談でごまかすことしかできなかった「僕は多分そこから飛び降りても死なないだろうな。だって一回死に損なったんだから」
キリは笑った。「この海で溺れかけたからって言って、この崖から落ちたわけじゃないでしょう?」
「実はこの崖から落ちたような記憶もあるんだ。よく思い出せないけどね」
「その話し私にしたことないわ」
「色んな夢を見るからね。どの光景が本物の記憶かどうかわからないんだ。だからこの海が憎い」ちょうどその時太陽が地球の反対側へと隠れてしまった。「僕の記憶と十六年を奪った海が憎いよ」
キリは振り向き、真剣な表情を見せた。「いっそう死んでしまいたかったって思うことはある?」
「毎日。なぜ自分が生きているのかさえもわからない」
「だったら――」彼女は立ち上がり、崖淵に爪先を合わせ、僕の手を握った。彼女の手は荒れていたが、柔らかく、暖かった。「ここで死んしまわない? ここから飛び降りて二人で死ぬの」
ねっ、と言いたそうにキリは僕の手を引っ張った。彼女は表面上笑っていたが、心の中ではすでに決心しているのだろう。死ぬことを。孤児院の生活が厳しいから死ぬことを逃げ道として考えているのではない、キリは僕と同じように絶望しているのだ。何もない真っ白な毎日と真っ暗な未来、そのことを考えると生きる気力は萎んでしまう。
「キリ――」僕は彼女の名前を言う以外何も言えなかった。論理的に考えてみれば生きている意味はないように思える。あるのはつまらない毎日ばかりなのだから。それに僕らが死んでも本当に悲しむ人間などこの世にはいない。国からの資金があるかぎり、孤児院の運営は厳しくないが、大勢いる子供の二人が死んだことで何日も悲しんでいる時間はないのだ。他の子供たちは逆に内心喜ぶに違いない。食事の分前が少なくても増えるのだから。
だが心の準備が僕にはできてなかった。毎日のように崖に座り飛び降りることを想像するが、そのことについて本当に考えてみたことはない。天国と地獄というものは本当にあるのだろうか? もし日曜日に来る神父さまの言うことが正しければ自殺した人間は地獄に落ちてしまう。
「――まず園長と話してくる。その後また話そう? それからでも遅くはないだろ?」
「わかった」素直にキリは答え、僕たち二人は手を繋いだままゆっくりと薄暗い土の道を歩き始めた。しかし数歩もあるかない内にキリが立ち止まり、繋いだ手を振りほどいた。
「どうしたの?」驚いて彼女の方を向くと、キリはポロポロと涙を流していた。
「ごめんなさい」キリはそういったかと思うと、クルリと振り返り走りだした。そして崖から飛び降りた。
「キリ!」僕は叫び、彼女の後を追った。崖から彼女の後ろ姿が見えた。僕は迷わず地面を蹴った。真っ逆さまに落ちる僕は空中でキリを捕まえ、彼女を自分の胸に押しつけた。崖に叩きつけらる風が強く、僕たちの前髪を逆さまに押し上げ、冷えた空気で僕たちを包み込んだ。次の瞬間、キリと僕は海のなかだった。
氷のように冷たい水に飛び込んで最初に思ったのは、まだ生きているという激しい痛みだった。服が千切れ、岩が背中を切りつけ、胸が苦しかった。だが僕たちは二人とも岩礁を見事に当たらず、水に落ちた。生きている快感とまた死ねなかったのかという悔しさが混ざって込み上げてきた。
水面から顔を上げると、キリも複雑な表情を浮かべながら立ち泳ぎをしていた。
「だから言っただろ? 僕はあの崖から飛び降りても死ねないって。この海は多分僕を嫌っているんだ」
「ごめんなさい」とキリは繰り返す。
「大丈夫だよ」僕は彼女を慰め、濡れたキリの髪の毛に手を当て、自分へと引き寄せた。「結局なにもなかったじゃないか。今日は帰って寝よう」
「わかった」
僕の両腕のなかに収まったキリは震えていた。早く海から出ないと風を引いてしまう。そう考え、僕はキリの右手を掴んで泳ぎ始めた。海流はそれほど強くなく、僕たち二人は無理なく砂浜へ辿り着いた。しかし一度海から出てみると刃のように鋭い風が僕らを襲った。キリは歯をガチガチ言わせ、両手で自分を抱きしめるようなかっこをしながら砂浜に座り込んだ。
「あなたのアイパッチ」キリは僕の顔を指差して言った。
「えっ?」僕は顔の左半分を触ってみた。指先で濡れた頬を触れ、ゆっくりと僕は手を上に動かした。そこには使い物にならない左目の跡がある。刃物で切られたような掘りが眉毛の少し上から頬骨まで伸びているのだ。一年前、この砂浜で目を覚ました時には僕はすでに左目の光を失っていた。いつもはその醜い傷をアイパッチで隠しているのだが、海に飛び込んだせいでそのアイパッチが外れてしまったのだ。
「ああ、大丈夫だよ」顔の左半分を手で隠しながら僕は言った。「孤児院で新しいのもらってくるから」
「孤児院には戻らない方がいい」とキリは言った。
「どうして?」僕は笑った。「園長がまた癇癪を起こしているのかい?」
彼女は首を振る。「とにかく孤児院には戻らないで」
「でもここじゃ凍えちゃうぞ。夏だと言ってもこの土地は温かい方じゃないから」
キリは何も言わず、首をふるだけだった。
「だったらさ、孤児院からタオルをもらってくるから。身体が乾いたら一緒にここにいてあげるから」
彼女はしばらく考えているようだったが、やがて顔を上げて頷いた。「わかった。でも早く戻ってきてよ。必要なもの以外もってこないでね」
「わかってるさ。すぐに戻ってくるから」キリの額にキスをし、僕は使い古したスニーカーで砂浜を踏みしめながら走りはじめた。
読んでくれてありがとうございました。評価・感想お願いします。次話は12月二十八日です。
メリークリスマスとハッピーホリデー!
Marian Flayer 24th of December 2012