第九回 雨(第4篇)
由美を家まで送り届けた後、暫く私は彷徨っていた。とても自宅に帰る気分になれなかったのだ。
「なんで、私がいたらいけないの・・・?」
私はぽつりと呟いた。未だその理由は分からなかった。しかし、由美だって私は悪くないと言ってくれていた。私を拒絶し、こんなにも優しい由美を泣かせ、みんな楽しみにしているキャンプも台無しにしようとしている結城理沙子という存在に徐々に憎しみさえもが湧き上がってくる。いっそ、もう彼女のことなど放っておけばいい。そう思った。
「じゃあ、夏はキャンプでバナナで決まりだね。」
あのとき楽しそうに言った彼女の言葉が、私の胸の奥から語りかけてくる。
「・・・・・。」
私は握り締めた拳を緩め、足に力を込めた。
こんな時、私は決まってここへ来た。
『やあ、どうしたんだい?浮かない顔だね?』
水槽の中のそいつは私の方へとゆっくり近づいてきた。私は息を整えると、事の成り行きを細かに話した。
『なるほど。君はその結城理沙子って娘に怒ってるんだ?』
「・・・・・。」
『違うの?』
「・・・わからない。」
そいつは一度その白い身体をうねらせた。
『いや、分かっているはずだよ。』
そう、こいつの言う通だ。本当は分かっているのだ。私は理沙子に対して怒っているわけではないことも、理沙子に対して怒れない理由も。彼女はきっと、あのときの私と同じなのだ。だとすると私を避ける理由も自然と分かってくる、いや、本当は初めから分かっていたのかもしれない。
「今、私がいるのはもともと結城さんがいた場所・・・?」
『・・・・・。』
彼女の居場所と知っても、私はやっと手に入にしたこの場所を失いたくはなかった。
「結城さんのことはどうにかしてあげたい。でも、私は前の私には絶対に戻りたくない!」
語気が強くなったことに自分でも驚いた。
「一体どうすれば良いの・・・。」
私はその場に座り込んだ。
「戻る必要はないさ。」
そいつはあっさりそう言い放ち、白い口元に皺を寄せた。
いよいよキャンプ当日になった。雨こそ降ってはいないが、空は曇天だ。そして、やはり集合場所に理沙子の姿は見えなかった。
「夕希ちゃん、おはよう!」
由美の明るい声が響いた。目の下にはクマができていて、無理に明るく振る舞っているのは明らかだった。きっとぎりぎりまで理沙子を説得していたに違いない。
バスは山道をガタガタと揺れながら走った。ようやく辿り着いた渓流近くのキャンプ場ではすでに子供たちが川遊びをして楽しんでいる。ロッジに荷物を下ろすと、みんなすぐに水辺に向かい、思い思いにはしゃいだ。傍から見ればどこかの学生がただバカ騒ぎしているようにしか見えないだろう。しかし、ところどころで途切れてしまう笑い声が足りない何かを際立たせた。みんな割り切っているつもりでもどこか乗り切れず、ぎこちなくなってしまっているのだと思った。
夕方になると、遂に雨が降り始め、私たちは急いでロッジに戻り夕食を作ることにした。やがてカレーの美味しそうな匂いがしてきた。テーブルにはどんどんお皿が並んでいく。そしてみんなが席に着いたところで誰かが気付いた。
「あれ?ねえ、夕希ちゃん。カレー一つ多くない?」
私はゆっくり首を振った。
「これでみんなの場所があるでしょ?」
そう言うと雨音が急に激しくなった。
「あ!あれ・・・。」
急に由美が声を上げ、窓の外を指差している。その先には一つの人影があった。それに気が付くとみんなもう外へと飛び出していた。
「ごめん!」
間違いなく、彼女の声だ。
「ごめん、みんな!・・・バナナ持ってくるの忘れちゃった!」
彼女はずぶ濡れで笑って見せた。それを聞くと私は急いで一旦ロッジの中に戻り、傘も差さずに彼女のもとへ走り出した。
「ほら、大丈夫!ちゃんとみんなの分持ってきたから!」
雨音にも負けない大声でそう叫び、空高くバナナを掲げて見せた。
彼女は満面の笑みを見せた。私もにっこり笑った。二人の頬には雨とは違う温かいものが流れていた。すぐに由美も駆けてきて理沙子に思いっきり抱き付いた。他のみんなもそれに続いた。ぐしゃぐしゃになりながら、私たちのキャンプがようやく始まった気がした。
みんなでくしゃみしながら食べるバナナなんてのもきっと美味いんだろうな。土砂降りの雨の中、私はそんなことを思っていた。