第三回 声の記憶
その声はとても柔らかい声だった。コミカルなのにどこか温かく不思議な力を持っていた。もう遠い昔の話だ。
子供のころ、私は病弱で臆病で友達と呼べる相手は誰一人といなかった。おまけに愛想が無くて恥ずかしがり屋だった私は、大人たちからしてもとても可愛いとは言い難い存在だったことと思う。そんな性格から、いつも一人自宅で遊ぶことがほとんどだった。
小学三年生の夏休み、私は相変わらず自分の部屋に引き籠って本を読んだり、ゲームをしたりしていつものように一人で過ごしていた。もちろん、一人で行動するのが好きというわけではない。人並みのコミュニティーを築きたい気持ちはあった。
自宅近くの町立図書館で本を借りた帰りには、いつもプール帰りの子供たちがはしゃぎながら通り過ぎていくのを見送っていた。部屋の窓から見える小さな公園で、走り回る同級生たちを、気付かれないようにただ見つめ続けていたこともあった。羨む気持ちと寂しい気持ちが常に私の心の中にはあった。
夏休みも半ば、蝉の声が耳触りなお盆過ぎのとある蒸し暑い日。そんな私を見かねてか父が突然水族館へ行こうと言い出した。私は当然その誘いを了承し、身支度をいつもより念入りに整えた。
父とやって来たその場所は、水族館と呼ぶにはあまりに小さい建物で、個人が趣味でやっているような水棲動物の飼育場みたいなところだった。父の言動からするとどうやら父の知人が管理をしているようだ。それでも水中でキラキラと輝く魚たちは幼い私を夢中にさせた。今まで見たことのない世界がそこには広がっていた。夏休み中ということもあってか、小さい施設にも関わらず、他にもたくさんの子供たちが各々お気に入りの水槽に群がって張り付いていた。
そんな中、水族館の隅に誰一人覗く者のいない水槽があった。ただ真白い砂が敷き詰められて、いくつかの石だけが置いてある。目を凝らしてみると、黒い瞳にピンクのひらひらが白い砂地に浮き立っている。その瞳はこちらをじっと見つめ、しきりに口をパクパクさせている。
「お父さん、なんでこの子は口をパクパクさせてるの?」
父はその様子を確認すると微笑んで言った。
「おしゃべりしているんだよ。よく耳を澄ましてごらん。」
私はその水槽に痛いくらい耳を押し付けた。
『やあ、こんにちは!』
「!」
「しゃべった!しゃべったよ、お父さん!」
そう言った私を見て父はまた微笑んだ。
「何?何?」
近くで亀の動向に夢中になっていた女の子が私に話しかけてきた。それは近所に住む同級生のカナちゃんだった。その姿だけは辛うじて覚えていた。
「この子喋ったの!」
興奮していた私は、初めて話す相手に躊躇うことも忘れていた。
「嘘?嘘?」
そう言ってその子も一緒になってその水槽に耳を押し当てた。
『君たち、はお友達なのかな?』
カナちゃんもその声に驚いていたが、すぐに答えを返した。
「うん、お友達だよ。」
その答えに今度は私が驚いた。私にとって初めての友達が出来た瞬間だった。
『僕ともお友達になってよ。』
「うんっ!」
二人の声が重なった。
それから私は父が休みになる度に、カナちゃんを誘って三人であの水族館へと出かけるようになった。しかし、そんな楽しい日々は予期せぬ形ですぐに終焉を迎えることになる。
夏休み最後の日。
『夏休みは終わっちゃうけど、また休みの日にでも遊びに来てね。』
それが彼の放った最後の言葉だった。
あれからもう10年が経った。夏休みが終わった後もカナちゃんと二人、足を運んでは水槽に向かって何度も声を掛けた。しかし一度たりとも返事が返ってくることはなかった。
それから徐々にその水族館へ足を運ぶこともなくなり、その近くを通ることさえ避けるようになっていた。そうして、いつしかカナちゃんとも距離を置くようになってしまったのである。
公園を歩けばうるさいほどの蝉の音が聞こえてくる。今年も夏がもうそこまで来ていた。