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晩餐会の盾役をやめた令嬢は、十回目の食卓で自分の席を選びます

作者: 豆田 はち
掲載日:2026/08/19

「いっそ、私たちが結婚すれば毎回助かるな」


フォークが皿の上で、かちんと鳴った。


今夜拾ったものは、アーサー様のナプキンが二枚、会話が三つ、結婚する気がないという本音が一つです。


最後の一つだけ、落とし主へ返す方法がわからない。


アーサーは心底ほっとした顔をしていた。わかる。つい先ほどまで、向かいの令嬢から「伯爵家の温室は薔薇が見事だそうですね」と言われて、「ええ、棘もあります」と答えてしまった人だ。


薔薇を褒められたら薔薇を褒め返す。


棘の報告は不要。


私はその後の会話を引き取り、温室の管理人の苦労から今季の茶会の流行まで、無事に着地させた。救助一件。いつものことだ。


そもそも今夜も、私の席札をアーサーがつまみ、自分の隣へ移している。


「マティルデ、隣へ。頼む」


そう言われれば座る。幼なじみとは、そういうものだと思っていた。


けれど結婚となると話が違う。人生は月例晩餐より長い。たぶん。少なくとも魚料理のあとに肉料理が出て終わり、とはいかない。


「わたくしと結婚なさりたいのですか」


「君が隣にいてくれれば、縁談の話も持ち込まれにくくなる。晩餐のたびに助けを頼む手間も省けるだろう」


手間。


私は笑った。社交用の、歯を見せすぎず、目も細めすぎず、相手に好意だけを誤配達する笑い方だ。


便利な席にも、張り地くらいはある。


「合理的ですわね」


「そうだろう?」


そうだろう、ではない。


アーサーの皿からソースが一滴、卓布へ落ちた。いつもならナプキンを差し出すところだ。私の手は膝の上に置いたまま、行儀よく働かなかった。


「ですが、お断りいたします」


「なぜ」


仕事の交渉なら七つは用意する男が、私の拒絶には理由が一つも浮かばないらしい。


「わたくしは、晩餐会用の備品ではございませんので」


「備品だなどとは言っていない」


「毎月、同じ場所に置けば助かるものは、ほぼ備品です」


アグネス伯母様が、少し離れた席で葡萄酒を口にした。あの方が杯を置くまで口を挟まないときは、だいたい楽しんでいる。身内の窮地を肴にする老婦人。長生きの秘訣かもしれない。


「では、どうすればいい」


アーサーは助けを求めるときの顔で私を見た。


その顔なら何度も救ってきた。魚の骨からも、沈黙からも、婉曲な求愛からも。


今夜は救助対象に私自身が含まれている。


「まず、わたくしの席札を勝手に動かさないでくださいませ」


私は札を持ち上げ、卓の反対側にあった本来の席へ戻し、自分もそちらへ移った。


「それから、十か月後に家族と領地へ戻ります。父の仕事が一段落しましたので、王都の屋敷を引き払うことになりました」


「聞いていない」


「今、お伝えしました」


「十か月?」


「伯母様の晩餐でしたら、あと十回ですわね」


アーサーが立ちかけ、椅子の脚が床をこすった。


私は彼が引いたままの椅子を指した。


「お席はそちらです」


    *    *    *


一回目の晩餐で、アーサーは三度こちらを見た。


一度目は、縁談候補の令嬢から領地の好みを尋ねられたとき。


二度目は、令嬢の母親から好みの女性を尋ねられたとき。


三度目は、逃げ道が完全に塞がったとき。


助けを求める視線、三回。先月より一回少ない。成長と呼ぶには早い。窮地に陥る速度が上がっただけかもしれない。


「マティルデ」


「はい」


「その……」


私は卓上の塩入れを渡した。


「どうぞ」


「塩を頼んだわけではない」


「お肉にお使いくださいませ」


「会話は」


「ご自分でどうぞ」


私は肉を切った。今月の仔牛は柔らかい。人の縁談より噛みやすい。すばらしい。


アーサーは塩入れを置き、正面の令嬢へ向き直った。


「申し訳ない。私は今、結婚を決めるつもりがない」


おお。


言えた。


驚いて手を止めた私より先に、令嬢が静かにうなずく。


「理由を伺っても?」


「仕事が落ち着かない。それに、私には私的な話を相手へ伝える能力が不足している」


正直すぎる。だが、棘の報告よりは有益だ。


「では、その能力がお育ちになったころ、またお話しできれば」


令嬢は笑い、別の話題を選んだ。


無事に済んだではないか。


そう思った直後、アーサーが安堵して卓布の端をつかんだ。立ち上がろうとしたらしい。


杯が三つ倒れた。


ザムエルが一つを空中で受け止め、もう一つを肘で止め、最後の一つだけが卓布へ葡萄酒を飲ませた。


「申し訳ない」


「お座りくださいませ」


ザムエルの声は、王命を読み上げる役人ほど厳粛だった。


私は立たなかった。布巾も取らなかった。倒れた杯を数えただけだ。


三つ。


アーサーの顔がこちらへ向きかけ、正面へ戻る。


助けを求める視線は、三回で止まった。


    *    *    *


二回目。


アーサーはスープを一口飲み、縁談を勧める親族へ言った。


「マティルデと私は、まだ結婚を——」


そこで口を閉じた。


私の名が、危うく盾へ加工されるところだった。私は匙を置かず、彼の横顔だけを見る。


アーサーの喉が動いた。


「違う。私は、結婚を決めていない。マティルデの意向とは関係がない」


親族は目を瞬かせ、私を見た。


私はスープを飲んだ。


蕪がよく煮えている。私の意向より、いまはそちらが重要です。


「では、マティルデ様とは何も?」


「彼女へ聞く話ではない。断っているのは私だ」


また言えた。


今月は卓布も引かなかった。


ただし食後、椅子へ座り直す際に膝を卓へぶつけ、皿が一斉に跳ねた。


ザムエルは銀器を押さえたまま、低く報告した。


「お皿はすべて無傷でございます」


褒める基準が地面すれすれである。


それでもアーサーは、私へ「助かった」と言わなかった。


私が何もしていないと、ようやく気づいたらしい。


    *    *    *


三回目の晩餐には、妙な噂が一皿増えていた。


アーサーが縁談を断り続けるのは、私が幼なじみの立場を利用して彼へ執着しているからだという。


執着。


月に一度、ナプキンと会話を拾っていただけなのに、ずいぶん豪華な名前をいただいた。では給仕長は食器への愛に狂っていることになる。


噂を口にした婦人は、扇の向こうから私をうかがった。


「長いご関係ですものね。マティルデ様も、ご心配なのでしょう?」


「ええ。アーサー様はよく杯を倒されますので」


「そういう意味ではなくて」


「椅子もですか?」


アーサーがナイフを置いた。


音は小さかった。けれど、卓上の顔が一斉に彼へ向く。


「マティルデは関係ありません」


婦人の扇が止まった。


「しかし、皆さまは——」


「私が彼女を隣へ座らせ、縁談を避ける理由に使っていました。彼女が私に執着していたのではない。私が彼女の親切に甘えていた。それだけです」


正直に言えば、自分の評判へ傷がつく。


だからこそ、私へ確認を取ると思った。


この言い方でいいか。助けてくれ。言葉を足してくれ。


その視線は来なかった。


アーサーは、自分へ集まった困惑を自分で受け取った。


「誤解を招いたことも、訂正しなかったことも私の落ち度です。今後、マティルデへその話をなさらないでください」


婦人はしばらく扇を閉じたり開いたりしていたが、やがてアーサーへ頭を下げた。


私ではなく、彼へ。


礼の向きまで正しい。


私はパンをちぎった。数えるなら一回。噂を引き取った回数、一回。


胸の勘定だけ、なぜか差し引きにならなかった。


    *    *    *


四回目。


アーサーの隣には、席札のない椅子が一脚置かれていた。


アグネス伯母様の配席は公平だ。誰も座らせない席も、きちんと食卓に残す。


アーサーは空席を見て、次に三つ離れた私の席札を見た。


手が伸びる。


札の手前で止まる。


指が引っ込む。


よし。そこまで三手。今月の訓練成果としては満点である。なお、幼なじみを勝手に移動させないだけなので、世間の配点なら零点だ。


アーサーは空の椅子へ手をかけた。


自分で端へ運ぶつもりらしい。


持ち上げ方が悪かった。


椅子は脚を一本浮かせ、アーサーの靴へ着地し、彼が押し戻し、今度は横倒しになった。


食堂に、ばたん、と見事な音が響く。


私は口元へナプキンを当てた。


笑ってはいけない。


いけないが、椅子は正直だ。私よりずっと大きな声で抗議している。


ザムエルが無言で椅子を起こした。


「マティルデ」


「はい」


「隣をお願いできるか」


変わった。


命令ではなく、お願いになった。


だが、まだ早い。


私は起こされた椅子と、その向こうにある彼の席を指す。


「お席はそちらです」


アーサーは唇を結び、自分の席へ戻った。


空席は空席のまま、晩餐の終わりまで逃げなかった。


帰り際、アグネス伯母様が席札を箱へ収めながら言った。


「椅子は逃げませんけれど、人は逃げますよ」


一拍遅い。


そして刺す場所が正確。


アーサーは返事をしなかった。私も聞こえなかったことにした。


領地へ戻るまで、あと六か月だった。


    *    *    *


五回目、アーサーは令嬢の話を最後まで聞いた。


好きな音楽、冬の過ごし方、結婚後に続けたい慈善活動。以前なら三つ目へ入る前に私を見るところだ。今月の彼は、視線を一度も寄越さず、質問を二つ返した。


それから断った。


「あなたに不足があるのではありません。私がお引き受けできないのです」


令嬢は理由を聞き、本人の口から答えを受け取り、アーサーへ礼をして退いた。


私は葡萄酒を飲みながら採点した。


会話、最後まで。


主語、自分。


破損、匙一本。落としただけなので、たぶん無罪。


六回目には、その令嬢へ送った詫び状の控えをアグネス伯母様が読んでいた。アーサーが自分で書いたらしい。


「字は読めますね」


「伯母上、褒める場所を探した結果がそれですか」


「便箋をマティルデに渡さなかったことも褒めていますよ」


私は焼き菓子を割った。


アーサーなら、詫び状くらい仕事の文面として書ける。訓練の成果だ。きっとそう。焼き菓子の中に木苺のジャムが入っていたことと同程度の、小さな驚きである。


食後、彼は私の前で足を止めた。


「これまで、助けてくれてありがとう」


「今月は何もしておりません」


「今月の話ではない」


アーサーの手には何もなかった。手紙も、壊れた匙も、私の席札も。


「任せきりにしていた。君がうまく収めるから、それでいいと思っていた」


「そうですか」


「謝っている」


「存じております」


これで終わると思ったのか、彼が困った顔をした。


私は助けなかった。


謝罪は受け取ったからといって、すぐ許しへ交換しなければならない品ではない。棚に置いて眺める月があってもよい。


ただ、その夜は木苺の甘さが妙に長く残った。


帳簿に書く欄がない。困る。


    *    *    *


七回目の食卓には、アーサーの家族も招かれていた。


昔の話が出た。彼が若くして伯爵位を継ぎながら、社交も立派に務めてきたという話。


私は鴨肉を切った。立派。便利な言葉だ。倒れた杯は記憶から消え、無事に終わった晩餐だけが本人の手柄になる。


「違います」


アーサーが言った。


「何がだ?」


「晩餐を無事に終わらせていたのは、私ではありません。マティルデです」


刃物を持ったまま聞く話ではなかった。危ない。


「私は話を打ち切り、彼女に引き取らせていた。断りにくい縁談には、マティルデが望んでいるように見せて逃げたこともあります」


そこまで具体的に返さなくてもよろしいのでは。


私の救助歴なら、数えられる。


十七歳の春、会話二件。


夏、葡萄酒一杯と親族の追及一件。


秋、同じ令嬢からの求愛を三回。


冬、暖炉の前で無言になったアーサーごと一件。


数え上げればきりがない。今さら返却されても、保管場所に困る。


「彼女の働きを、私の社交性として扱わないでください」


アーサーは私を見なかった。


私から礼をもらうためではなく、家族へ訂正するために言っている。


返された功績、一式。


帳消しにできない。できないものが、また増えた。


私は鴨肉を口へ入れた。よく焼けている。食事に罪はない。


    *    *    *


八回目、私の隣には別の青年が座った。


アグネス伯母様は何も説明しない。私も尋ねない。席札のとおり座っただけだ。


青年は話し上手だった。王都の劇場について語り、私が「舞台装置は何人で動かすのでしょう」と尋ねても、求愛を理解しない女だと呆れず、裏方の人数を教えてくれた。


よい方である。


向かいのアーサーは、食事中ずっと行儀がよかった。


こちらを見て、魚用のフォークを親指で押したことを除けば。


食後、ザムエルがそのフォークを回収した。柄がわずかに曲がっている。


銀器一つ。


救助を求める視線、零。


褒めてよいのか叱るべきか、採点不能。


玄関広間で外套を待っていると、アーサーが来た。


「マティルデ。少し話す時間をもらえないか」


「今夜は家族を待たせておりますので」


「そうか」


彼はそれ以上近づかなかった。


「引き止めて悪かった。おやすみ」


礼までした。


追わない。言い訳しない。私の袖も、行き先もつかまない。


扉を出てから、私は手袋の留め金を三度やり直した。暗くて見えにくかっただけだ。きっと。


領地へ戻るまで、あと二か月。


    *    *    *


九回目の晩餐が終わっても、アーサーは私を呼ばなかった。


皆が客間へ移り、食堂には消された蝋燭の匂いが残っていた。私は忘れた手袋を取りに戻った。


アーサーが、空いた椅子の前に立っていた。


彼の隣に置かれた、誰も座らなかった椅子。


私は手袋を拾った。


「お話でしたら、今なら少し」


「断ったのに?」


「先月は、です」


「そうか」


それだけ言って、アーサーは椅子から手を離した。


「以前の求婚を謝りたい」


「すでに伺いました」


「言葉が足りなかった」


「アーサー様にしては、かなり話されましたわ」


笑いは続かなかった。


彼が私を見る。


いつもの救助を求める顔ではない。だから私は、次の言葉を渡せない。


「私は、君と結婚したいと言いながら、君の都合を一つも尋ねなかった。私が縁談を断りやすい。私が晩餐で困らない。私が助かる。全部、私の都合だった」


「はい」


「君なら隣にいると思い込んでいた」


「はい」


「君ではなく、君がしてくれることを求めた。あれは求婚ではなかった」


指先が、手袋の留め金から外れた。


私は、帰郷を告げれば引き止められると思っていた。


十か月ある。きっと何か言う。家族へ話をする。王都に残る理由を用意する。そう期待して、それをされたら腹を立てる準備までしていた。


都合のいい期待なら、私にもあった。


けれど、アーサーは家同士の話を持ち出さなかった。父へ頼まず、帰郷の予定を変えようともせず、私を隣へ戻せとも言わなかった。


きちんと変わるほど、置いていかれる気がする。


「今度こそ君に求婚したい、と言う資格も、まだないと思っている」


「資格は誰が決めますの」


「君だ」


ずるい答えだ。


けれど、正しい。


空席です。ええ、よく見えています。だから困っているのです。


「お返事はいたしません」


「わかった」


「次が最後です」


アーサーはうなずいた。


追いすがる言葉はなかった。


私は手袋を持って食堂を出た。廊下の角を曲がるまで、足音は一つも追ってこなかった。


    *    *    *


十回目の晩餐。


私の席札は、アーサーから四つ離れた場所にあった。


彼の隣には椅子が一脚。


席札はない。


手を伸ばせば届く距離に私の札があっても、アーサーは触れなかった。


アグネス伯母様も空席を埋めない。


料理が運ばれる前、縁談を持ち込んだ令嬢とその母親が到着した。急な招待だったらしい。母親は空席を見て、令嬢をそこへ案内しようとした。


「その席は空けておいてください」


アーサーが言った。


私の背中が固くなる。


また盾にするなら、今夜の魚料理は彼の皿ごと窓の外へ出してやる。人間が投げるには皿が重いので、ザムエルに窓だけ開けてもらおう。


「どなたかお待ちなのですか」


令嬢の問いに、アーサーは首を横へ振った。


「いいえ。誰かの席と決めているわけではありません」


令嬢は別の椅子へ座った。


晩餐が始まる。


魚料理まで、アーサーは失敗しなかった。


肉料理の前に、母親が本題を切り出した。


「伯爵様。先月お送りしたお話は、ご覧いただけましたでしょうか」


「拝見しました」


視線は私へ来ない。


「娘との縁組は、双方の家にとってよいものになると存じます」


「ありがたいお話です。しかし、お受けできません」


「理由をお聞かせいただけますか」


「私が結婚を決めていないからです。お嬢様の不足ではありません」


「では、マティルデ様とのご関係が?」


卓上の空気が止まった。


アーサーはナイフとフォークを皿へ置く。どちらも落とさない。


「マティルデを理由にはいたしません」


母親の眉が動いた。


「以前、私が縁談を断ったことも、マティルデを隣へ置いたことも、私の選択です。彼女が私に執着したからではない。私が彼女を利用しました」


「利用、ですか」


「私は彼女へ求婚したことがあります。自分が助かるから結婚してほしいと申し上げた。断られて当然のことをしました」


私がした。


声は揺れなかった。


「今は違うと?」


令嬢が尋ねた。


アーサーはすぐに答えなかった。


私へ答えを求める視線も送らない。


「違うと証明できるまで、彼女に信じてほしいとは言えません。ですから、この縁談をお断りする責任も、私一人のものです」


令嬢はアーサーを見つめ、それから静かに頭を下げた。


「承知いたしました。ご本人から伺えてよかったです」


礼は私へではなく、アーサーへ向けられた。


晩餐はそこで壊れなかった。


母親は別の話題を選び、アーサーは逃げずに受け答えをした。温室の薔薇を褒められても、棘の報告をしなかった。劇場の話では裏方の人数を知らないと正直に言い、私へ確認しなかった。


皿数、七。


断った縁談、一つ。


助けを求める視線、零。


そして食後、ザムエルが倒れた杯のない卓を見渡した。


「今月は一脚も壊れておりません」


椅子を数えるのですね。


ただ、今夜ばかりは誰も笑わなかった。


客が帰り、最後に私の家族が玄関へ向かう。私は食堂に残った。


アーサーは空席の横に立っていた。


席札には触れない。


椅子も引かない。


ただ空いた場所を示した。


「ここへ座ってほしいとは、私からは言わない」


「では、なぜ空けたのですか」


「君が選べるように」


私の席札は四つ向こうにある。領地へ戻る馬車は明朝出る。選べる道が増えるほど、人は簡単には動けない。


「わたくしは王都を離れます」


「わかっている」


「家族と暮らすか、その後に別の場所へ行くかも、まだ決めておりません」


「それも、君が決めればいい」


「アーサー様は、王都を離れられないでしょう」


「離れられない時期はある。君が戻れない時期もあるだろう」


彼は空席を見たまま続けた。


「王都でも領地でも、そのほかの場所でも、君が選ぶ暮らしに、私が加われるかを尋ねたい。隣に置いてもらうために、君へ何かをやめさせるつもりはない」


求婚としては、華やかさが足りない。


花も指輪もない。あるのは空席と、壊れなかった椅子と、十回分の食卓だけ。


けれど、私の胸の帳簿は、とうとう計算を放棄した。


私は自分の席まで歩いた。


席札を持ち上げる。


アーサーの指がわずかに動いたが、伸びてはこない。


私が運ぶ。


私が空席の前へ置く。


ことん、と札の底が卓へ触れた。


今度は救助係の配置ではない。彼が不得手な断りを引き受け、私が不得手な言外を聞き直す。杯を倒したらアーサーが拾う。求愛を額面どおり受け取ったら、今度こそ主語を省かず言い直してもらう。


ずいぶん手間のかかる伴侶だ。


お互いさまなので、苦情は受け付けない。


私はアーサーを見上げた。


「今夜のお席は、私が決めます。ですから、その椅子を引いてくださいませ」

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