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アベルの楽譜

作者: 藤也
掲載日:2026/06/20

 ここはドイツ郊外の町。日本の高校生の岬ユージは彼の父親と2人で地元のタクシーに乗っている。

 父親はドイツ語が堪能でタクシーの運転手と何やらドイツ語で話している。何を話しているのかはユージには分からない。

 タクシーの車窓からオレンジ色の煉瓦つくりの家々が見える。中世の雰囲気を残す町並みだ。とてものんびりとしたいい町であると感じたユージ。

 父の仕事の都合で1週間ほど2人でドイツへ来ていた。高校は今は夏休みである。


「だけれど、なぜお父さんは僕をこんなドイツの田舎に連れてきたのか?」

 と考えるユージ。


 ヨーロッパへはこれまでにも父親に連れられて何度か来ていた。

 高校では吹奏楽をやっているユージはピアノの実力者で、過去にピアノコンクールでは何度も入賞を果たしていた。いつしか入賞するのも当たり前と自分でも感じるようになっていた。そのうちに先生や友人などの周りからの期待やライバルたちの視線などがプレッシャーにもなっていた。いつごろからか自分の中にモヤモヤとするものが湧き出ていた。高成績を収めるために有名な曲を顧問に勧められて、仕方なく練習を続けていた岬ユージは納得いく演奏ができなくなってきていた。やらされている練習など楽しいはずもなく、そんな日々の中スランプになっていた。




 タクシーが止まり2人は車を降りる。目の前にはこじんまりとした小さな白い家が1軒あった。かなり年季の入った建物であるが、家の庭には芝生が綺麗に手入れされている。その家の庭の隅に大きな樹木が植えられていた。

 樹齢はかなりたっていそうで、太い幹、枝には青々とした沢山の葉を付けていた。


「お父さん、あの木を見てみてよ。すごく大きいね?」

 その古木の木陰へ行き見上げるユージと父親。気持ちの良い風が通り過ぎる。葉が風になびいてさらさらと音を立てる。草の匂いがして、虫の鳴き声も聞こえた。


「ああ、そうだね。きっとこの家の住人たちをずっとずっと見守ってきたんだろうね?」


「それにきれいな庭だ。きちんと丁寧に手入れがしてある。ここは誰の家なの?」


「ユージ、この家はアベル=コーラルスキーという150年前の作曲家の生家なんだ。アベルの名前は知っているかい?」


 ユージは首を横に2回ほど振る。知らない名前だな、と思う。


「ハハハ、そうか知らないか。お父さんはアベルのピアノが大好きなんだよ。

 優雅で繊細で。実はお父さんも10代の頃にここへ来ていたんだ。それでどうしてもドイツへ来たらお前をここへ連れてきたくてね」


 2人はアベルの生家と言われている建物に入る。家全体が木造建築でペンキで白く塗りつけてあるが、150年の時間の中でかなり傷んでいるようにも見える。アベル=コーラルスキーの生家は現在は博物館となり中が見学ができるようになっていた。家に入ると調度品などが置かれていたが、ユージが一番目についたのが部屋の奥においてある大きな黒いピアノである。展示品なので触ることはできないが、実際に当時アベルが弾いていたとされるピアノが残されていた。

 家の壁には本人のモノクロ写真も何枚か展示されていた。身長は180センチの長身で口ひげを蓄えていた。この地でピアニストとして活動していたそうだ。

 そして部屋には音楽が流れていた。アベルが57歳の時に書いた「祈り」という曲だ。


 そこでアベルの曲と初めて出会ったユージ。感じた印象はとてもやさしくて優雅な曲である。同じ音楽を愛する人間ではあるが、こんなにも心のどこかに優しく触れる旋律を奏でることができるのか、想う。


「この曲は彼の代表曲でお父さんも好きな曲なんだ。ゆっくり聞いてみよう」


 部屋中にピアノの音色が流れている。この大きな古いピアノもここにある調度品も家も柱も、そして庭にある先程の大きな木もアベルのピアノをずっと聴いていたのであろう。遠い異国の地でピアノの音色を聴きながら、心が感動しているが分かった。


 帰りのタクシーの中でユージは先ほどのピアノの音色が体中に反響しているのを感じた。ここは素晴らしい町である。こんなところで生まれ育ったならばきっとすごく美しいものを生み出せるであろうと感じた。生まれた時からずっと音楽には親しんできていたユージだが、ドイツという異国の空気や音楽に触れることで何かを感じていた。



 その日の夜、夜空に浮かぶ三日月が明るくドイツの町を照らしていた。

 ホテルの部屋で窓際のベッドに横になりながら、窓の外の三日月を見て物思いにふけるユージ。アベルという作曲家はこの地でどんなことを考えて、どんな人たちと出会い、どのような人生を送っていたのだろう?音楽を通して彼の作品と彼の人生を想うなんて素敵なことだ。

 そう考えるとワクワクするような心地がした。月を見ながら瞼が重くなり始める。

 ユージの父親は椅子に座りテーブルの上に置いたノートパソコンのキーボードを叩いていた。


 ピアノソナタ「祈り」


 あんな美しい曲を書けるなんて、すごいとしか言えない。100年以上の時間を超えても人の心をとらえて離さない芸術を生み出せるなんて、素晴らしい才能だ。そんなことを想いながらいつしか眠りに落ちていた。




 古い大きなピアノを弾いている初老の男性がいる。髪には白いものも交じっており、口元にはひげが蓄えられている。彼はゆったりと優雅にそれでいてすごく楽しそうにピアノを弾いていた。男性の奏でるピアノの音色は部屋中に響いていた。

 この男性は誰なのかな?この部屋中を流れている曲は何だろうか?


 わからない・・・。


 心を揺さぶるような、それでいて暖かい耳心地の良いピアノの音色。


 男性は暖かな光に包まれていて、少し体を揺らしながらピアノを弾いている。




 ゆるゆると意識が覚醒する。両の瞼が開く。それは夢であった。ユージは夢を見た。

 夢に出てきてピアノを弾いていた男性はきっとアベルだ!!

 夢の中で昨日父親と出かけたあの生家のピアノで「祈り」を弾いていたのだ。ユージは夢から醒めた時、とても気持ちの良い朝を迎えた。 

 寝巻のままベッドから飛び起きるユージ。今しがた見ていた夢の光景を反芻する。心が暖かく、そして鼓動が高鳴るのを感じた。

 そこへどこかへ出かけていた父親がホテルの部屋のドアを開けて入ってきた。脇に新聞紙と片手にコーヒーのカップを持っている。その姿を認めたユージは満面の笑顔となる。


「お父さんすごいよ!昨日夢にアベルが出てきたんだ。あの家でピアノを弾いていたんだ!!彼の姿が神々しい光に包まれていたんだよ!」


「夢!?どうしたんだい急に?」


「僕決めたよ!高校のピアノ発表会の課題曲はアベルの曲にするよ!

 よ~しやろう!!」


「???」


 突然の息子の興奮した様子に面食らう父親。なんにせよこの様子だと元気が出たようで何よりである。



 日本へ帰国して直ぐに高校の部活動の顧問、井狩先生にピアノの発表曲はアベルの曲にしたいと直談判してみた。しかし、

 ユージの熱量とは真逆に井狩先生の表情は冴えない。


「ええ?アベル=コーラルスキーの曲だって?ハッ、君ねえ、そんな曲では評価なんて全然されないよ?そもそもアベルの作品なんて誰も知らないだろうし、考え直した方がいいのではないかね?」

 と相手にされなかった。


 それでもユージは父親から譲り受けたアベルの「祈り」の楽譜で毎日毎日ピアノの練習をして家のピアノでも音楽室でも指を動かし続けた。

 そして学校への通学路でもCD音源でアベルのピアノを聴いていた。

 日本へ帰国してからの岬ユージの様子は、周りの吹奏楽部のメンバーにも生き生きとしていてエネルギーに満ちているように感じさせた。


 スランプなんて彼の曲に夢中になり練習に励む毎日の中でいつしかどこかへと置いてきてしまっていた。


 ピアノの発表会当日。演目はもちろんアベルの曲。何百人という生徒の前でアベルの曲をピアノで弾くユージ。とても心地の良い緊張感に包まれている。

 コンクールの常連であるユージは大勢の前でピアノを弾くことには慣れていた。演奏を始める。始まってしまったら指が弾むように踊るように勝手に動いていた。体中から旋律を奏でる。体中からエネルギーが出る。体育館の中は彼のピアノの音色一色となっている。


「今僕はアベルと一緒にピアノを弾いているんだ!150年昔も彼はこうやってこの曲を同じように人々の前で弾いていたんだ。夢中にしていたんだ。」


 ドイツで見た夢の中のアベルとユージのピアノを弾く姿が重なるようだ。体を揺らしながら、曲と一体となり表現している。何度も何度も練習してきて家でも通学路でも聞いてきた自分の好きな曲を大勢の聴衆に聴いてもらえる。こんなに幸福なことはないだろう。


 アベル=コーラルスキー、ピアノソナタ「祈り」


 有名無名なんてどうだっていいのだ。

 自分が好きだといえるもの、心に触れるものを体全身で表現するんだ。



 演奏が終わった。


 椅子から立ち上がった岬ユージは紅潮する顔で深々と頭を下げた。

 その瞬間、体育館の聴衆からは大きな拍手が沸き起こった。



音楽やスポーツなどの文化はいつの時代も人々を魅了して止まないものですね。


僕はどちらも大好きです。


ユージをスランプから救ったアベルの祈り。


行き詰まっていたユージをドイツへ誘ったお父さんも、ホッとしているのではないでしょうか?


150年の時を超えた作曲家と高校生の運命的な出会いを描いたストーリーでした。


このアベルの楽譜という作品が気に入っていただけたら評価や感想など、ぜひ聞かせてください。


ここまでお付き合いくださって、有り難うございました。



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