油まみれの誇り
倉敷の空は、どこまでも高く、そして少しだけ埃っぽかった。
佐藤匠は、真新しい紺色の制服の襟を正しながら、水島臨海鉄道・倉敷市駅のホームに立っていた。足元を通り抜けるのは、都会の銀色のステンレス車両ではない。排気ガスの匂いを振りまき、重低音の唸りを上げるディーゼル気動車だ。
「……ったく、何が悲しくて、令和の時代にこんな骨董品を転がさなきゃならないんだ」
匠は誰にも聞こえない声で毒づいた。彼の視線の先には、使い込まれて塗装の剥げかけたMRT300形が鎮座している。
匠の本当の居場所は、ここではないはずだった。東京の大手私鉄、あるいはJR東日本の運転席に座り、秒単位の超過密ダイヤを最新の自動列車制御装置(ATC)で鮮やかに捌く。それが彼の描いていたエリート運転士の姿だった。しかし、就職活動での現実は厳しく、滑り止めとして受けたこの地方私鉄だけが彼を拾った。
「とりあえず三年の辛抱だ。ここで運転士の免許さえ取れば、経験者枠で大手に転職してやる」
それが彼の、隠しきれない本音だった。
「おい、新人。いつまで突っ立ってる。点検だ」
背後から、岩を叩き割ったような硬い声が響いた。
振り返ると、そこには一人の老人がいた。片山忠道。勤続四十年、水島臨海鉄道の生き字引と呼ばれるベテラン運転士だ。深く刻まれた目尻のシワと、油の匂いが染み付いた大きな手が、彼の歩んできた年月を物語っていた。今日から匠は、この「化石」のような男の下で見習いとして乗務することになっている。
「おはようございます、片山さん。今日からよろしくお願いします」
匠はマニュアル通りの挨拶をしたが、心の中では(この人も、結局ここから出られなかった負け組なんだろうな)と見下していた。
片山は匠の挨拶に頷きもせず、ただ一言、「ブレーキ弁の感触を忘れるな。この子は生き物だ」とだけ言って、運転室に乗り込んだ。
水島臨海鉄道、通称「水臨」。
倉敷市駅から三菱自工前駅までのわずか十数キロを結ぶこの路線は、旅客輸送だけでなく、水島臨海工業地帯への貨物輸送という重要な役割を担っている。
匠にとって、それは単なる「田舎の短い鉄道」に過ぎなかった。
「片山さん、この路線、信号の間隔が長すぎませんか? もっと高密度で回せば、効率も上がるのに」
運転中の片山の隣で、匠はわざとらしく都会の基準を持ち出した。
「効率か。ここでは時間は流れるもんじゃない、刻むもんだ」
片山は前方を見据えたまま、短く答えた。
「刻む? 意味が分かりません。大手なら、こんな加速の鈍い気動車なんてとっくに廃車ですよ。加速も減速もコンピューターが最適化してくれるんです」
「コンピューターは、レールの上の落ち葉一枚の滑りも、潮風の湿り気も教えてはくれんぞ」
片山の手は、常にブレーキハンドルに添えられていた。その動きは、まるで楽器を奏でるかのように繊細だ。
ある日の夕暮れ時、自工前からの戻り。匠がハンドルを握らせてもらえることになった。
「いいか、停止位置目標に合わせるだけが運転じゃない。乗客の膝を揺らさない、それが水臨の品位だ」
片山の言葉を、匠は鼻で笑った。
(止まれば同じだ。所詮はディーゼルカーじゃないか)
匠は自信満々にブレーキをかけた。しかし、古い気動車の空気ブレーキは、彼の予想以上に反応が鈍い。焦って強く込めると、今度はガクンと大きな衝動が走った。車内から、乗客の荷物が倒れる音が聞こえた。
「あ……」
「今のは、あんたがこの車両を信じていない証拠だ。機械を道具だと思うな。相棒だと思え」
片山の声は静かだったが、それだけに匠のプライドに深く刺さった。
一ヶ月が過ぎても、匠の不満は募るばかりだった。同級生がSNSで「新型特急の習熟訓練が始まった」と華やかな投稿をするたび、自分はこの狭い運転室で、油まみれの老人に小言を言われている。
そんなある日、岡山県南部を猛烈な台風が襲った。
水島臨海鉄道の沿線は、高梁川の支流や水路が入り組んでいる。さらに、工業地帯への貨物列車を止めることは、地域の、ひいては日本の物流に穴を開けることを意味していた。
「運行中止にすべきですよ! こんな雨の中、視界も悪いし、旧式の車両じゃ危険だ!」
匠は詰所で声を荒らげた。
しかし、片山は静かにレインコートを羽織っていた。
「貨物が待っている。あの中には、明日誰かが使う燃料や、工場の部品が詰まってるんだ。止めるのは簡単だが、動かすのが俺たちの仕事だ」
「精神論だ! そんなの無責任ですよ!」
「匠。お前、大手に憧れてるんだろ? 向こうの運転士が一番恐れているのは何だと思う?」
片山が初めて匠の名を呼んだ。
「……事故、ですか?」
「いや。『自分が運転しなくても、この鉄道は勝手に動く』という事実に気づくことだ。だが、ここでは違う。お前が動かさなきゃ、この一本の列車は、この街は止まるんだよ」
片山は匠を助手席に乗せ、キハ30形のエンジンを始動させた。凄まじい振動が車体を揺らす。
暴風雨の中、列車は進んだ。視界はほぼゼロ。ワイパーが必死に水を弾くが、線路の先は見えない。
その時だった。線路脇の竹林が、強風で倒れかかっているのが見えた。
「急ブレーキを!」匠が叫ぶ。
しかし、片山は落ち着いていた。ブレーキを一段、二段と緩やかに込め、車輪がロックしないギリギリの感触を探りながら、倒木の数メートル手前でピタリと止めてみせた。
「降りるぞ」
片山は保線用の斧を手に、嵐の中に飛び出した。匠も慌てて後を追う。
叩きつけるような雨の中、二人は必死に倒木を退かした。泥にまみれ、手のひらから血を流しながら、匠は初めて「鉄道を守る」という実感に震えていた。
作業を終え、運転室に戻った時、片山がふと笑った。
「泥だらけだな、都会志望の運転士さん」
「……うるさいですよ」
匠は、自分の手が片山と同じように、鉄と油の匂いで満たされていることに気づいた。そして、それが不思議と嫌ではなかった。
嵐が去った後、水島臨海鉄道には、いつもの静かで力強い日常が戻ってきた。
匠の運転は見違えるほど丁寧になった。加速の際のエンジンの唸りを「うるさい」ではなく「心強い」と感じるようになった。
路線の途中にある小さな無人駅で、いつも手を振ってくれる幼稚園児。
夕暮れ時、コンビナートの煙突から出る炎が水面に反射する、息を呑むような美しさ。
大手の過密ダイヤの中では決して見つけられなかった、「鉄道が街の一部である」という手触りが、ここにはあった。
そして、季節は巡った。
匠はついに見習いを卒業し、正規の運転士として独り立ちする日が来た。
それと同時に、片山忠道の定年退職の日がやってきた。
最後の乗務を終えた片山が、夕暮れの倉敷市駅のホームに降り立つ。
匠は、自分が運転する列車の出発を待っていた。
「片山さん」
匠が声をかけると、片山は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「おめでとう、匠。これからはお前が、この街の血を運ぶんだ」
「……俺、本当は転職するつもりだったんです。でも、今はもう少し、この匂いの中にいたいと思ってます」
匠の言葉に、片山は深く、満足そうに頷いた。
「そうか。お前がこの間、ブレーキをかけた時の背中を見て確信したよ。お前はもう、ただの運転士じゃない。『水臨の男』になったんだ」
発車のベルが鳴る。
匠は運転席に座り、ブレーキハンドルを握った。
かつては「骨董品」と馬鹿にしていたレバーの冷たさが、今は心地よい。
「前方よし、出発進行!」
指差喚呼の声が、夕暮れのホームに響く。
ゆっくりと列車が動き出す。
ホームの端で、片山が小さく手を挙げているのが見えた。
匠はそれに応えるように、短く、力強く汽笛を鳴らした。
パァァァァン――。
その音は、古びた街の喧騒に溶け込み、確かな明日へと続いていく。
倉敷の空は、今日もどこまでも高く、そして少しだけ、誇り高い匂いがした。




