第一話 __その先
落ちている、はずだった。
身体を引き下ろす感覚は確かに続いている。だが、距離の感覚がない。どれほどの時間が経ったのか分からず、速度も変化しているようで、していないようでもあった。重力だけが存在し、行き先が存在しない。
暗い。
目を閉じているのか、開いているのか判断できない。光がないというより、光という概念が希薄だった。上下の区別も、空間の広がりも、思考の中で定義できない。
──ここは、どこだ。
問いは浮かぶが、答えを探す思考が続かない。意識は途切れ途切れで、次の瞬間には別の感覚に押し流される。
息が苦しい。
肺が圧迫されている感覚がある。だが、それが落下によるものなのか、恐怖によるものなのか、判断できなかった。心拍だけが無意味に速く、体の中で音を立てている。
いつまで経っても、終わらない。
地面に叩きつけられるはずの瞬間が来ない。終わるはずの感覚が、惰性のように続いている。
──死ぬはずだった。
その事実だけは揺らがない。予定が狂っているという認識はあるが、修正しようという気力はなかった。生き延びる理由も、目標も、ここにはない。
次の瞬間。
衝撃。
理解するより先に、体が壊れた。
何かに叩きつけられたというより、押し潰された感覚だった。全身が一斉に悲鳴を上げ、骨が軋む音が内側から響く。肺の空気が強制的に吐き出され、喉が詰まる。
息が、できない。
声を出そうとしても、音にならない。痛みが鋭すぎて、どこが壊れたのか判断できなかった。背中、肩、腰、脚。感覚が重なり、位置情報が失われる。
硬い。
背中の下に、確かな抵抗がある。地面なのか、別の何かなのかは分からない。ただ、落下は終わった。
遅れて、熱が広がった。
鈍く、重く、逃げ場のない痛み。全身がひとつの塊になり、内側から崩れていく感覚がある。
血の臭いがした。
鉄のような匂い。鼻の奥に張り付き、吐き気を誘う。自分のものかどうかを考える余裕はない。ただ、正常ではないという事実だけが、はっきりしていた。
視界の端が暗くなる。
黒が滲み、中心だけがかろうじて残る。音が遠のき、現実感が剥がれていく。
──動けない。
指先に力を入れようとしても、反応がない。脚の存在が曖昧で、感覚が返ってこない。体はあるはずなのに、操作できない。
そのとき、影が動いた。
視界の端。ぼやけた輪郭。複数あるようにも見えるが、数は分からない。人の形かどうかも判断できなかった。
近づいてくる。
何かが、こちらに向かってくる。
恐怖はなかった。ただ、理解できないという感覚だけがあった。ここで何が起きているのか、判断する材料がない。
次の瞬間、体が浮いた。
地面から引き剥がされる感覚。背中の痛みが一瞬強まり、そのあと揺れが始まる。規則的ではない。落下とも違う。
運ばれている。
誰かに担がれているのか、引きずられているのか。判別できない。ただ、移動しているという事実だけが伝わってくる。
視界が揺れる。
暗闇の中で、わずかに明度が変わる。洞窟のようにも、地下のようにも感じられるが、確証はない。
痛みが、遠のいていく。
消えたわけではない。重すぎて、感覚として処理できなくなっている。思考が追いつかず、ただ負荷だけが残る。
──ここは……。
疑問が形になる前に、意識が切れた。
音も、光も、重力も、すべてが一度に遠ざかる。
最後に残ったのは、全身を貫いた衝撃の余韻だけで、
それすらも、やがて完全に途切れた。




